第6章:狼たちの鎮魂歌


 雨が降っていた。

 合肥(がっぴ)の戦場を洗い流すかのような、冷たく、容赦のない氷雨だった。

 敗走する呉軍の列は、葬列のように静まり返っている。泥に足を取られ、傷ついた兵士たちが互いに肩を貸し合いながら、重い足取りで南へと向かっていた。

 その最後尾。

 荷車に乗せられた天(テン)は、意識の混濁の中で揺られていた。

 右腕が熱い。まるで焼けた鉄棒を骨の髄に差し込まれたかのような激痛が、脈打つたびに脳髄を焦がす。

「……動くな。傷が開く」

 冷徹な声が耳元でした。仙(セン)だ。

 彼女は揺れる荷車の上で、天の右腕に針を刺していた。麻酔などない。生身の肉に太い針を通し、断裂した筋肉と皮膚を無理やり縫い合わせているのだ。

「ぐ、ぅ……ッ」

 天は呻き声を上げ、板を噛んで痛みに耐えた。脂汗が噴き出し、雨と混じって頬を伝う。

「張遼の一撃を受け止めた代償よ。筋肉の繊維がズタズタに裂けてる。普通の人間なら二度と武器を握れないレベルだわ」

 仙の手つきは速く、正確だった。血に濡れた手で、淡々と「修理」を進めていく。彼女にとって、天の体は治療すべき患者であると同時に、興味深い実験材料でもあるようだった。

「……師匠は」

 天は掠れた声で問うた。

 仙の手が、一瞬だけ止まった。

「……前の車に乗ってるわ。今はただの物体としてね」

 その言葉が、右腕の痛み以上に天の胸を抉った。

 太史慈は死んだ。

 その事実は、時間が経つほどに重く、鉛のように天の心にのしかかってきた。あの偉大な武人が、もういない。叱ってくれる声も、背中を叩いてくれる掌も、もう二度と戻らない。

 天は空を見上げた。厚い雲に覆われ、星一つ見えない暗黒の空。

(俺のせいだ……)

 後悔が渦巻く。もし、俺が前に出なければ。もし、俺がもっと強ければ。あの時、あの方天画戟(ほうてんがげき)を使いこなせていれば、張遼を殺せたかもしれない。師を死なせずに済んだかもしれない。タラレバの妄想が、毒のように思考を侵食していく。

「……自分を責めるのは勝手だけど、死ぬのは許さないわよ」

 仙が糸を食いちぎり、包帯をきつく巻きつけた。

「あんたが生きてなきゃ、あの人の死は本当に無駄になる。私の治療費も回収できないしね」

 憎まれ口のような慰め。天は力なく笑おうとして、頬が引きつった。

「……ああ。わかってるよ」

 天は視線を横に向けた。

 荷車の横を、巨漢の魏(ギ)が歩いている。彼が背負っているのは、自身の巨大な鉄扉ではない。油紙に包まれた、長大な物体。

 方天画戟だ。

 天の腕を破壊し、張遼を退かせた最強の武器。今の天には持ち上げることすらできないその鉄塊を、魏は無言で運び続けている。それはまるで、天に課せられた巨大な十字架のように見えた。


 数日後。

 敗残の呉軍は、ようやく建業近郊の駐屯地へと帰還した。

 だが、そこに待っていたのは、凱旋の歓声ではなく、重苦しい沈黙と、敗北の責任を問う冷ややかな視線だった。特に、太史慈という後ろ盾を失った天たちへの風当たりは、以前にも増して厳しくなっていた。

「見ろ、あの疫病神どもだ」

「太史慈将軍が討たれたのは、あいつらが勝手に動いたせいだという噂だぞ」

「呂布の呪いだよ。関わった者は皆不幸になる」

 正規兵たちの陰口が、遠慮なく天たちの耳に届く。

 律(リツ)が眼鏡の位置を直し、悔しげに唇を噛んだ。

「……大衆とは、常にスケープゴート(生贄)を求めるものです。敗戦のストレスを、異分子である我々にぶつけているのでしょう」

「わかってても腹立つぜ! あいつら、俺たちが張遼を止めたことなんか知らねえんだ!」

 元山賊の部下が、地面を蹴りつけた。

 彼らの住処である「ゴミ捨て場」の倉庫は、以前と変わらずそこにあった。だが、主である太史慈がいない今、そこはただの廃墟のように寒々しく感じられた。

 天たちは、そこで小さくまとまり、傷を癒やすしかなかった。

 太史慈の葬儀は、軍を挙げて盛大に行われた。だが、天たちの参列は許されなかった。「汚れた血が混じれば、英霊が安らかに眠れぬ」という古参将軍たちの意向だった。

 だから天たちは、倉庫の裏手にある小さな丘に、自分たちだけの祭壇を作った。太史慈が愛用していた弓の弦と、天が折った木刀。それを供え、酒を撒く。

 雨上がりの月夜。

 線香の煙が立ち上る中、天は片腕を吊った姿で、墓標の前に座り込んでいた。後ろには、律、仙、魏、そして生き残った数十名の部下たちが控えている。

 誰も言葉を発しない。ただ、虫の声だけが響いている。

 喪失感。そして、明日からどう生きるかという不安。正規軍からの配給は止まるかもしれない。追放されるかもしれない。最悪の場合、敗戦の責任を負わされて処刑される可能性だってある。ここは、弱肉強食の群れの中だ。守ってくれる親狼はいなくなった。


 シャラン、シャラン。


 静寂を破ったのは、鈴の音だった。

 軽やかで、しかしどこか不吉な響きを持つ鈴の音が、闇の向こうから近づいてくる。部下たちが緊張して武器に手をかける。天は動かなかった。この足音、この気配を知っている。

「……辛気臭いツラしてんじゃねえよ。酒が不味くなるだろうが」

 闇から現れたのは、派手な羽織を肩にかけた男だった。腰には大きな鈴をぶら下げ、手には酒瓶を持っている。

 甘寧興覇(かんねいこうは)。

 元海賊にして、現在は呉の猛将の一人に数えられる男。軍内きっての暴れん坊であり、天とはかつて拳で語り合った仲だ。

「甘寧……何の用だ」

 天が問うと、甘寧はニカッと笑い、酒瓶を放り投げてきた。天はそれを左手で受け止める。

「太史慈の旦那に、線香の一本でもあげに来たんだよ。あいつは堅物だったが、嫌いじゃなかった」

 甘寧は墓標の前にどかっと座り込み、懐から別の酒瓶を取り出して呷った。

「……聞いたぜ。張遼とやり合ったんだってな」

「……負けたよ。手も足も出なかった」

「ハッ、当たり前だ。相手は中華最強の一角だぞ。五体満足で帰ってきただけでも奇跡だ」

 甘寧は横目で天の吊られた右腕を見た。

「で? その腕じゃあ、もう使い物にならねえか?」

「治るさ。仙が治す」

「気楽なもんだな。だが、軍の上層部はそうは思ってねえぞ」

 甘寧の声が、低く沈んだ。

「程普(ていふ)の爺さんたちが騒いでる。『太史慈が死んだ今、呂布のガキを飼っておく理由はない』『危険分子は今のうちに処分すべきだ』ってな」

 部下たちがざわめく。やはり、懸念していた通りの展開だ。

 律が前に出た。

「甘寧将軍。それは、公式な決定ですか?」

「まだだ。孫権様が保留にしてる。あの若殿は、意外と情に厚いからな。だが、それも時間の問題だ。軍全体の空気が『排除』に傾けば、若殿も逆らえねえ」

 甘寧は酒を地面に撒き、立ち上がった。

「天。お前に選択肢をやる」

「選択肢?」

「俺の部隊に来い。俺の下なら、爺さんたちの文句も封じ込めてやる。お前らの身分も保証してやるぞ」

 それは、願ってもない申し出だった。甘寧軍といえば、呉でも最強クラスの武闘派集団だ。そこに拾われれば、正規軍としての地位も、衣食住も保証される。路頭に迷う部下たちを救うことができる。

 部下たちの目に期待の色が浮かぶ。だが、天は首を横に振った。

「……断る」

「ああん? 死にたいのか、お前」

「誰かの下につくのは、もう懲りごりだ」

 天は立ち上がり、墓標の横に置かれた「包み」を見つめた。

 方天画戟。

 太史慈が命と引き換えに残してくれた、父の遺産。

「師匠は言った。『お前はお前だ。己の魂に従え』ってな。俺が誰かの部下になれば、俺は一生、誰かに守られるだけの飼い犬だ」

 天は左手で包みに触れた。

「俺はこの戟を背負う。この重さに耐えきれるまで、俺は俺自身の足で立つ」

 甘寧はしばらく天を睨みつけていたが、やがて大きく息を吐き出した。

「……かわいくねえガキだ。だが、そうでなきゃ面白くねえ」

 甘寧は背を向けた。

「いいだろう。なら、意地を見せろ。明日、孫権様がお前を呼んでいる。そこで自分の価値を証明できなきゃ、お前らは全員処刑だ」

「わかった。……ありがとな、甘寧」

「礼はいらねえ。次に戦場で会ったら、背中を預けられる強さになってろよ」

 シャラン、シャラン。

 鈴の音を残して、甘寧は闇に消えていった。

 嵐の前の静けさ。

 天は振り返り、不安げな顔をする部下たちを見渡した。彼らは怯えている。未来に、権力に、そして自分たちの無力さに。

 天は深呼吸をし、腹の底から声を張り上げた。

「野郎ども! ビビってんじゃねえ!」

 その声は、かつて採石場で暴れた時のような、凶暴で、しかし頼もしい響きを持っていた。

「太史慈将軍は死んだ! 俺たちは孤立無援だ! 明日には首を斬られるかもしれねえ!」

 天はニヤリと笑った。それは、絶望的な状況を楽しむような、不敵な笑みだった。

「だが、それがどうした。俺たちは元々、何も持ってねえ『ゴミ』だったはずだ。ゴミが失うものなんて何もねえだろ!」

 部下たちの顔が上がる。

「俺たちは、あの地獄の合肥で生き残った! 張遼の突撃を食い止めた! 正規軍の腰抜けどもが逃げ惑う中、俺たちだけが戦ったんだ!」

 天の言葉に、熱が宿る。

「俺たちはもう、ただのあぶれ者じゃねえ。地獄を食らって生き延びた、飢えた狼だ!」

 オオオオオ……!

 部下たちの口から、唸り声のような歓声が漏れる。恐怖が、闘志へと変わっていく。

「明日、孫権に会いに行く。そこで俺たちの新しい名を轟かせてやる。ついて来たい奴だけ来い。ビビって逃げる奴は、ここで消えろ!」

 誰も動かなかった。逃げる者などいない。彼らは知っているのだ。この少年の背中こそが、自分たちの唯一の居場所であることを。

 

 翌日。

 呉の王宮、謁見の間。

 きらびやかな装飾が施された広間に、重苦しい空気が流れていた。

 玉座には、若き君主・孫権仲謀(そんけんちゅうぼう)。その左右には、張昭(ちょうしょう)、魯粛(ろしゅく)、そして程普や韓当といった重鎮たちがずらりと並んでいる。

 彼らの視線が、部屋の中央に跪く天に集中していた。天は片腕を吊り、ボロボロの衣服のままだ。だが、その背には布に包まれた巨大な戟を背負っていた。武器の持ち込みは厳禁だが、孫権の特例で許されたのだ。

「面を上げよ」

 孫権の声が響く。天は顔を上げた。その瞳に、卑屈な色は一切ない。

「天。太史慈の報告は聞いている。そちの働きについてもな」

 孫権は感情の読めない顔で言った。

「張遼の一撃を受け止め、時間を稼いだとか。まことか?」

「嘘じゃありません。ですが、倒すことはできませんでした」

 天が正直に答えると、古参将軍の一人、程普が鼻を鳴らした。

「フン、口だけは達者な。太史慈殿が討たれたのは、貴様が足を引っ張ったからではないのか? やはり呂布の血、災いを呼ぶ元凶よ」

「程普将軍、言葉が過ぎますぞ」

 穏やかな声で諌めたのは、軍師の魯粛だ。

「太史慈殿は、自らの意志で彼を庇ったと聞いております。それに、彼らの部隊が奮戦しなければ、被害はさらに拡大していたはず」

「魯粛殿は甘い! このような素性の知れぬ者を軍に置いておけば、いずれ必ず裏切る! 今のうちに首を撥ねるべきだ!」

 場が騒然とする。「処刑だ」「いや、追放で十分だ」と議論が飛び交う。天は黙って聞いていた。

 くだらない。こいつらは、安全な場所で他人の生死を値踏みしているだけだ。戦場で血を流す痛みも、仲間を失う悲しみも知らない。

 天の中で、呂布の血が疼いた。暴れたい。こいつらを全員叩き潰して、黙らせてやりたい。

 だが、天は拳を握りしめて耐えた。ここで暴れれば、部下たちも殺される。仙も、律も、魏も。

 太史慈の言葉を思い出せ。

 ――獣を飼いならせ。

 天は大きく息を吸い、凛とした声で言った。

「……俺の首が欲しいなら、くれてやる」

 静まり返る広間。

「だが、俺の部下には手を出すな。あいつらは、あんたらの正規兵よりも役に立つ。殺すには惜しい戦力だ」

「な、なんと傲慢な……!」

 程普が顔を真っ赤にする。

 その時、孫権が立ち上がった。

「静まれ」

 若き君主の一声で、場が鎮まる。孫権は階段を降り、天の目の前まで歩み寄った。

「天よ。そちは、己の血を呪っているか?」

 天は孫権を見上げた。青い瞳。碧眼の君主と呼ばれる男。その目には、他者とは違う深い知性が宿っていた。

「……いいえ。親父は最強でした。俺はその血を誇りに思っています」

「そうか。……余もまた、父・孫堅と兄・孫策という偉大な影を背負っている。血の重みは、誰よりも知っているつもりだ」

 孫権は天の背にある方天画戟に視線をやった。

「その戟。かつて呂布が振るった凶器だな。それを持つ意味を、理解しているか」

「はい。……これは力であり、業(ごう)です。俺がこれを使いこなせなければ、俺はただの獣で終わる。ですが、もし使いこなせれば……」

 天は言葉を切った。そして、断言した。

「俺は、呉の最強の矛になります。親父すら超える、天下無双の刃に」

 孫権の口元に、笑みが浮かんだ。

「面白い。気に入った」

 孫権は振り返り、重臣たちに宣言した。

「これより、天を正規の『千人将』に任じる。ただし、既存の軍には組み込まぬ。独立遊撃隊として、余の直属とする」

「なッ……!? 殿、正気ですか!?」

 程普が絶叫する。

「千人将だと!? あのような若造に! しかも独立部隊など、前例がありませぬ!」

「前例がないからこそ、面白いのではないか。それに、こやつの部隊は『ゴミ捨て場』の集まりなのだろう? 正規の指揮系統には馴染まぬ。ならば、好きに暴れさせた方が敵にとって脅威となる」

 孫権は再び天に向き直った。

「天よ。部隊名を授ける。その飢えた瞳に相応しい名を」

 孫権は扇子で天を指した。

「【餓狼隊(がろうたい)】。飢えた狼のごとく、敵を喰らい尽くせ。ただし、その牙を味方に向けるようなら、余が自らその首を斬る。よいな」

 天は深く頭を垂れた。

「……御意。この命に代えても、その名に恥じぬ働きをお見せします」


 こうして、歴史の表舞台に一つの部隊が誕生した。

 構成員は、罪人、異端者、落伍者。隊長は、裏切りの魔王の息子。誰からも愛されず、誰からも期待されない、泥まみれの狼たち。

 だが、彼らは持っていた。エリートたちが忘れたハングリー精神と、常識外れの生存本能を。

 【餓狼隊】。その名は、やがて中華全土を震え上がらせる「恐怖の代名詞」となっていく。


 謁見を終え、王宮を出た天を、仲間たちが待っていた。不安そうな顔をする律、魏、仙、そして部下たち。

 天は彼らを見渡し、吊った右腕を庇いながら、ニカッと笑った。

「待たせたな、野郎ども」

「大将! どうだった!?」

「首は繋がったぞ。……それどころか、出世だ」

 天は高らかに宣言した。

「今日から俺たちは『餓狼隊』だ! 孫権様直属の独立部隊だぞ!」

 一瞬の静寂の後、爆発的な歓声が上がった。

「うおおおおおおッ! マジかよ!」

「俺たちが正規軍!? すげぇ!」

 男たちが抱き合って喜ぶ。仙も、少しだけ安堵したように息を吐いた。律は「やれやれ、また無理難題が増えそうだ」と肩をすくめたが、その目には希望の光が宿っていた。

 天は空を見上げた。雨は上がり、雲の切れ間から太陽が覗いている。

(見てるか、師匠。……俺は生きるぜ。このどうしようもない連中と一緒に)

 天の背中で、方天画戟が鈍く光った。その重さは、まだ消えない。右腕の痛みも消えない。だが、その痛みこそが、生きている証だった。

 獣は群れを手に入れた。次なる戦場は、赤壁。歴史が大きく動くその場所へ、餓狼たちが牙を研いで向かおうとしていた。

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