第4章:血戦の序曲
建安十一年、晩冬。
長江の北岸、合肥(がっぴ)の地は、鉛色の空と凍てつく大地に覆われていた。
風が唸りを上げて吹き荒れ、枯れ草を舞い上げる。その風に乗って、微かな鉄の臭いと、数万の人間が放つ殺気が漂っていた。
孫権率いる呉軍十万。対する張遼率いる魏軍七千。
数で見れば呉の圧倒的優位だ。常識で考えれば、この戦いは呉の勝利で終わるはずだった。十倍以上の兵力差。城を包囲し、補給を断てば、魏軍は干からびて死ぬ。
だが、戦場には数字では測れない「魔物」が棲んでいる。
呉軍の本陣後方。
天(テン)たち「ゴミ捨て場」の部隊は、輜重(しちょう)隊のさらに後ろ、湿地帯のほとりに配置されていた。
足元はぬかるみ、冷たい泥水が靴の中に染み込んでくる。吐く息は白く、指先は感覚を失うほど冷えていた。
「……クソッ、なんだこの扱いは」
元山賊の男が、泥を蹴り上げながら悪態をついた。
「俺たちは囮ですらねえのか? ただの荷物番じゃねえか」
周囲の男たちも同意するように不満の声を上げる。
彼らは錆びた槍や、刃こぼれした剣を手に持たされているだけだ。鎧もまともなものはなく、革を継ぎ接ぎしたボロ布を纏っている。正規軍のきらびやかな装備と比べれば、乞食の集団にしか見えない。
だが、天だけは違った。
彼は泥の上に座り込み、愛用の木刀を布で磨いていた。その瞳は、遥か彼方の戦場の一点を見据えている。
「……来るぞ」
天が低く呟いた。
「あ? 何がだよ、大将」
「匂いだ。血の匂いが濃くなってる」
天は鼻を鳴らした。
父・呂布との戦いの日々で培われた野生の勘。それが、この平穏に見える戦場に潜む、破滅的な予兆を感じ取っていた。
隣で書物を読んでいた律(リツ)が、顔を上げて眼鏡の位置を直した。
「風向きが変わりましたね。魏軍の方角から、強い殺気が流れてきています。……それに、正規軍の配置がおかしい」
「配置?」
「はい。前衛部隊が薄すぎます。孫権様の本陣を守るための布陣としては、あまりに隙が多い。まるで『どうぞここを攻めてください』と言わんばかりです」
「誘いか?」
「あるいは、慢心か。……十万という数に胡座をかき、敵の決死隊を想定していない」
律の言葉に、天の背筋が粟立った。
慢心。
それはかつて、父・呂布が最も陥りやすく、そして命取りとなった毒だ。
(まさか……)
天は立ち上がった。
その時だ。
ドォォォォォォォォ……!
地鳴りのような音が、北の彼方から響いてきた。
雷ではない。蹄の音だ。それも、数千、数万の馬が一斉に大地を叩く音ではない。
少数だが、極限まで統率され、一点に凝縮された破壊の音。
「な、なんだあの音は!?」
部下たちが動揺して立ち上がる。
音は急速に近づいてくる。呉軍の前衛部隊がざわめき始め、やがて悲鳴へと変わった。
ズガァァァンッ!!
呉軍の最前列、盾を構えた歩兵の壁が、まるで爆発したかのように吹き飛んだ。
血飛沫と共に、人間の手足が宙を舞う。
黒い疾風。
それが、呉軍の中央を切り裂いていた。
先頭を駆けるのは、漆黒の鎧に身を包んだ一騎の武者。手には身の丈を超える長大な鉤鎌刀(こうれんとう)。
その男が通った後には、生きている者はいない。ただ、切り刻まれた肉塊の道ができるだけだ。
張遼文遠(ちょうりょうぶんえん)。
たった八百の騎兵を率い、十万の軍勢の中に突っ込んできたのだ。
「張遼だ! 張遼が来たぞぉぉッ!」
「逃げろ! 殺されるッ!」
「馬鹿な、たった数百騎だぞ! 囲め! 押し潰せ!」
呉の将校たちが怒号を飛ばすが、兵士たちはパニックに陥り、我先にと逃げ惑う。
張遼の気迫。それが常軌を逸していた。
死を恐れぬ突撃ではない。死を与えることだけを目的とした、純粋な殺戮の意思。
「邪魔だぁぁッ!!」
張遼が一喝し、鉤鎌刀を薙ぎ払う。
それだけで、十人の呉兵が鎧ごと両断される。
誰も止められない。呉軍の陣形は、豆腐のように崩れていく。
その矛先は、真っ直ぐに孫権の本陣へと向かっていた。
「……行かせねえ」
天が走っていた。
思考するよりも先に、体が動いていた。
律が何か叫んでいた気がする。「待て」「命令違反だ」と。だが、そんな言葉は耳に入らない。
目の前で、最強の武が暴れている。
あの男は、かつて父・呂布の右腕だった男だ。父の武を間近で見てきた男だ。
ならば、俺の武がどこまで通じるか。それを試さずにはいられない。
(親父……見ててくれよ!)
天は泥濘を蹴り、味方の兵を突き飛ばしながら最前線へと疾走する。
心臓が焼き切れそうなほど熱い。恐怖はない。あるのは歓喜だけだ。
孫権の本陣まで、あと百歩。
張遼の馬が、最後の防衛ラインを突破しようとした、その瞬間。
「どけぇッ!!」
天が横合いから飛び出した。
手にした鉛入りの木刀を、渾身の力で振り下ろす。
狙うは張遼の馬の首。
だが、張遼は視線すら向けずに反応した。
鉤鎌刀の柄を、無造作に突き出す。
ガィィィンッ!!
硬質な音が響き、天の手首が痺れた。
防がれた。
しかも、片手で。
「……雑魚が」
張遼が冷たい視線を天に向ける。その瞳には、天など映っていない。ただの路傍の石ころを見る目だ。
張遼の手首が返る。鉤鎌刀の刃が、天の首を刈り取りに来る。
速い。
採石場で太史慈が見せた速さとは違う。あれは技術の速さだったが、これは殺意の速さだ。
死ぬ。
そう直感した瞬間、天の体が勝手に反応した。
太史慈との修行で染み付いた回避動作。上体を反らし、地面を滑るように後退する。
ヒュッ。
鼻先数センチを、死の刃が通過した。風圧で皮膚が切れ、血が滲む。
「ほう……」
張遼が初めて、興味深げに眉を上げた。
今の攻撃を躱せる歩兵など、そうはいない。
天は体勢を立て直し、木刀を構え直した。
「へっ……危ねえな。挨拶なしかよ」
強がりを言うが、足が震えているのがわかる。
化け物だ。
対峙して初めてわかる、圧倒的な「格」の違い。この男の周囲だけ、重力が違うかのような圧迫感がある。
「何奴だ」
張遼が馬を止め、天を見下ろした。
八百の騎兵たちも足を止め、天を取り囲む。
呉軍十万の中で、たった一人、この男の前に立ちはだかった少年。
天は深呼吸し、腹の底から声を絞り出した。
「俺の名は天。……呂布奉先の息子だ」
その名が出た瞬間、戦場の時が止まった。
張遼の目が、大きく見開かれた。
常に冷徹なその仮面が、初めてひび割れたように見えた。
「呂布様の……息子、だと……?」
張遼の声が震えた。
彼の脳裏に、かつての主君の姿が蘇る。あの豪快な笑い声。天を衝くような武勇。そして、下邳での壮絶な最期。
張遼は天を凝視した。
ボロボロの衣服。泥まみれの顔。だが、その構え、殺気、そして何よりその瞳に宿る光。
似ている。
嫌になるほど、あの男に似ている。
「……まさか、生きていたとはな」
張遼は低い声で呟いた。
だが次の瞬間、その表情から感傷が消え失せ、再び冷徹な修羅の顔に戻った。
「だが、それがどうした」
張遼は鉤鎌刀を構え直した。
「呂布様は死んだ。貴様はただの亡霊だ。亡霊ならば、冥府へ帰れ」
殺気が膨れ上がる。
先ほどまでの比ではない。本気の殺意だ。
天は歯を食いしばった。
(来るッ!)
張遼の馬が動く。
速い。目にも止まらぬ突き。
天は木刀で受けようとするが、重さが違う。衝撃で腕の骨がきしむ。
二撃、三撃。
雨あられのような連撃。天は防戦一方だ。一歩下がるたびに、死が近づいてくる。
「どうした! 呂布の子などと名乗るなら、その力を見せてみろ!」
張遼の咆哮と共に、強烈な一撃が天の木刀を弾き飛ばした。
木刀が宙を舞い、地面に突き刺さる。
丸腰になった天。
張遼は刃を振り上げた。
「終わりだ」
死の宣告。
刃が振り下ろされる。
天は目を閉じなかった。最期まで、この男の武を見届ける。それが父への手向けだと思ったからだ。
ガギィィィンッ!!
金属音が響き、火花が散った。
天の首が飛ぶことはなかった。
張遼の刃の下に、一本の槍が割り込んでいたのだ。
いや、槍ではない。短い鉄鞭だ。
「……子供相手に、大人げないぞ。文遠(ぶんえん)」
静かな、だが力強い声。
天の目の前に、一人の男が立っていた。
太史慈子義。
天の師匠が、その巨躯で天を庇い、張遼の一撃を受け止めていたのだ。
「太史慈……!」
張遼が顔をしかめる。
呉軍最強の猛将。張遼にとって、この戦場で唯一警戒すべき男。
「師匠……」
天が呆然と呟く。
「馬鹿者が」
太史慈は振り返らずに言った。
「誰が前に出ろと言った。死に急ぐなと教えたはずだ」
「だって、コイツは……!」
「下がっていろ。今の未熟なお前では、こやつの刃には届かん」
太史慈は鉄鞭を振るい、張遼を押し返した。
二人の猛将が距離を取る。
その間に流れる空気は、触れれば切れるほど張り詰めていた。
「太史慈。貴様がその小僧の飼い主か」
張遼が問う。
「飼い主ではない。師だ」
太史慈は短く答えた。
「呂布の息子を拾い、育てたというのか。……酔狂なことだ。あの裏切り者の血を、世に放つとはな」
「血など関係ない。こやつには才がある。そして、心がある」
太史慈は双鞭を構えた。
「文遠。こやつの命、私が預かる。殺したくば、まず私を倒してからにしろ」
「フン、望むところだ。呉の猛将の首、土産に貰い受ける!」
激突。
それは、次元の違う戦いだった。
張遼の剛剣と、太史慈の双鞭。
速すぎて、刃の軌道が見えない。金属音だけが連続して響き、周囲の空気がビリビリと震える。
天はその場にへたり込み、ただ見ていることしかできなかった。
(これが、頂点の戦い……)
自分が今までやってきたことが、子供のチャンバラに見えるほどの高み。
技の応酬。読み合い。そして一瞬の隙を突く駆け引き。
二人は互角だった。
だが、張遼には勢いがあった。死を恐れぬ突撃で呉軍を粉砕してきた気迫が、太史慈を徐々に押していく。
「ぬぅッ……!」
太史慈の足が止まる。
張遼の鉤鎌刀が、太史慈の肩口を掠めた。鮮血が舞う。
「師匠ッ!」
天が叫ぶ。
太史慈の動きが鈍った。その一瞬の隙を、張遼は見逃さなかった。
「貰ったぁッ!」
必殺の一撃。
太史慈はそれを鉄鞭で受けようとしたが、間に合わない。
ザシュッ!
深々と、刃が太史慈の脇腹に食い込んだ。
時が止まったようだった。
太史慈が膝をつく。口から大量の血が溢れ出す。
「師匠ぉぉぉぉッ!!」
天の絶叫が戦場に響き渡った。
天は地面を這い、太史慈の元へ駆け寄ろうとする。
だが、張遼が立ちはだかった。
「終わりだ、太史慈。貴様の首、そして呂布の息子の首。共に地獄へ送ってやる」
張遼が刃を振り上げる。
万事休す。
その時だった。
ヒュンッ!
ヒュンッ!
二本の矢が、張遼の顔面目掛けて飛来した。
張遼は咄嗟に刃で弾いたが、その隙に数人の人影が太史慈と天の前に割って入った。
ボロボロの鎧。泥まみれの顔。
律、仙、魏、そして掃き溜めの部下たちだった。
「大将! 生きてるか!」
「チッ、世話が焼けるぜ!」
彼らは手に手に粗末な武器を持ち、張遼と八百の騎兵隊に対し、壁となって立ちはだかった。
「お前ら……なんで……」
天が呻く。
「計算外ですよ、全く」
律が眼鏡を押し上げながら、青ざめた顔で言った。
「勝率ゼロの戦いに飛び込むなんて。……でも、あなたを見捨てる確率もゼロです」
「死なせないわよ」
仙が毒煙玉を構える。
「あんたが死んだら、誰が私の料理を食うのよ」
魏が巨大な鉄扉を構え、無言で前に立つ。
彼らは震えていた。張遼の殺気に当てられ、立っているのがやっとだ。
だが、逃げなかった。
社会から弾き出され、誰からも必要とされなかった彼らが、初めて見つけた「仲間」を守るために、命を懸けていた。
その光景を見て、瀕死の太史慈が、血塗れの口元で笑った。
(……見ろ、呂布よ。お前の息子は、孤独ではないぞ)
太史慈は最後の力を振り絞り、天に囁いた。
「天よ……聞け」
「師匠! 喋るな! 今、仙が……!」
「私の天幕に……行け。そこに、お前への……贈り物が……ある」
太史慈の手が、天の手を握りしめた。その握力は、驚くほど強かった。
「あれを使え。獣を……飼いならせ。そして……生きろ」
ガクッ。
太史慈の手から力が抜けた。
瞳から光が消え、偉大な武人の命が、静かに燃え尽きた。
「師匠……? おい、嘘だろ……?」
天は動かなくなった師の体を揺さぶった。だが、返事はない。
冷たい風が吹き抜ける。
天の中で、何かが壊れる音がした。
悲しみではない。虚無でもない。
どす黒い、灼熱のマグマのような感情が、腹の底から噴き出してくる。
殺意。
世界そのものへの、憎悪。
「う、うああああああああああああああああッ!!!!」
天の咆哮が、合肥の空を引き裂いた。
その声は、人間のものとは思えなかった。傷ついた獣の、断末魔のような叫び。
天は立ち上がった。
その瞳は白目を剥き、血管が浮き上がり、全身からどす黒い闘気が立ち昇っている。
呂布の血が、完全に目覚めていた。
「殺す……全員、殺す……ッ!!」
天は素手で、近くに落ちていた槍を拾い上げた。
理性はない。あるのは、目の前の敵を破壊したいという衝動だけ。
張遼が眉をひそめた。
「……狂ったか。哀れな」
張遼が合図を送る。騎兵たちが一斉に天に向かって突撃する。
だが、天は笑った。
血の涙を流しながら、狂ったように笑った。
ここから先は、戦いではなかった。
一方的な、殺戮劇の始まりだった。
凶星が、真の姿を現したのだ。
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