第3章:ごみ溜めの狼たち
呉の主都・建業から三十里ほど離れた山岳地帯。
太史慈軍の駐屯地からさらに奥、獣道すら途絶えるような険しい谷底に、その場所はあった。
正規の兵舎からは隔離された、吹きっさらしのバラック小屋が数棟。周囲には腐った柵が巡らされ、入口には「立入禁止」の札ではなく、獣除けの頭蓋骨がぶら下がっている。
軍内では通称「掃き溜め」と呼ばれる場所。
正規軍の規律に馴染めなかった者、素行不良で左遷された者、あるいは出自が悪すぎて表に出せない者たちが押し込められた、太史慈軍の暗部だ。
夜明け前。
空はまだ漆黒の闇に包まれているが、掃き溜めには既に怒号と打撃音が響いていた。
「遅いッ! 足が止まっているぞ!」
天(テン)の咆哮が谷底の空気を震わせた。
彼は泥濘(ぬかるみ)の中で、鉛入りの木刀を片手に仁王立ちしていた。
その足元には、屈強な男たちが十数人、泡を吹いて転がっている。
「て、天の旦那……勘弁してくれ……もう身体が動かねえ……」
泥まみれの男が、虫の息で懇願する。元山賊の頭目で、腕っ節には自信があったはずの男だ。
天は冷ややかな目で見下ろした。
「親父(太史慈)が起きるまで、あと半刻ある。それまでに全員立たなければ、朝飯は抜きだ」
「鬼か、あんたは……!」
「鬼の子だと言ったはずだ」
天は木刀を肩に担ぎ直した。
この三年間、天は太史慈から地獄の特訓を受ける傍ら、この掃き溜めの連中を鍛え上げることを日課にしていた。最初は反発していた荒くれ者たちも、今では天の圧倒的な暴力とカリスマ性に屈し、奇妙な結束を見せ始めていた。
「起きろ! 仙(セン)の粥が食いたくないのか!」
その言葉に、死体のように転がっていた男たちがビクリと反応した。
食欲。それが彼らを動かす唯一の原動力だ。
男たちは悲鳴を上げながら、這うようにして立ち上がる。
天はニヤリと笑った。
「いいザマだ。次は集団戦だ。全員で俺にかかって来い」
早朝の組手が再開された。
泥と汗と血が混じり合う、獣たちの宴。それが彼らの日常の始まりだった。
***
日が昇りきった頃、ようやく朝食の時間となる。
掃き溜めの中央にある広場では、巨大な鍋が煮えたぎっていた。
鍋の周りを取り仕切っているのは、小柄な少女・仙だ。彼女は背負った籠から得体の知れない草の根や、干した爬虫類を取り出し、次々と鍋に放り込んでいく。
「おい、今日の具材はなんだ?」
「山で獲れた猪の内臓と、精力がつく毒草よ。あと、マムシの粉末」
仙は無表情で答えながら、巨大な木杓子で鍋をかき回す。毒々しい紫色の湯気が立ち上るが、匂いだけは不思議と食欲をそそる芳醇な香りだった。
彼女がこの部隊に来てから、兵たちの体格は目に見えて良くなっていた。
正規軍のような十分な配給はない。自分たちで狩った獲物や野草が主食だ。普通なら栄養失調になってもおかしくない環境だが、仙の異常な薬学知識と調理技術が、残飯のような食材を極上の栄養食に変えていたのだ。
「うめぇ! 身体が熱くなってきやがった!」
「傷の痛みが引いていくぞ、すげぇな!」
男たちは犬のように器に顔を突っ込んで粥をすする。
天もまた、離れた場所で岩に腰掛け、黙々と粥を口に運んでいた。
味は強烈だ。舌が痺れるような刺激がある。だが、飲み込んだ瞬間から胃袋が熱を持ち、消耗した筋肉に力が漲ってくるのがわかる。
「……また変な薬を入れたな」
天が呟くと、鍋の番をしていた仙が近づいてきた。彼女の手には、天専用のさらに濃い色の液体が入った椀がある。
「あんたは特別製。筋肉の修復を早める劇薬入りよ。普通の人間が飲めば心臓が止まるけど、あんたなら平気でしょ」
「殺す気か」
「実験よ。死なない程度に強くなってくれないと、私の護衛が務まらないからね」
仙はツンとした態度で椀を突き出す。天は苦笑しながらそれを受け取り、一気に飲み干した。
喉が焼ける。だが、心地よい熱さだ。
「おい、天。そろそろ時間ですよ」
背後から冷静な声がした。
書物を抱えた律(リツ)だ。彼はこの掃き溜めの中でも、唯一泥にまみれず、常に清潔な身なりを保っている。
律の視線は、谷の上――正規軍の演習場の方角に向けられていた。
「今日は太史慈将軍が、騎馬隊の演習を行う日です。見学を許可されていますが、どうしますか」
「行くに決まってる」
天は立ち上がった。
太史慈の技を盗む。それが天の最大の目的だ。
正規軍の演習場は、広大な平原にあった。
数百騎の騎馬兵が砂塵を巻き上げ、疾走しながら的を射抜いていく。その統率された動きは美しくすらあった。
天たち掃き溜めの連中は、柵の外からそれを眺めることしか許されていない。
正規兵たちが、蔑みの視線を投げてくる。
「見ろよ、野良犬どもが見学だ」
「将軍も物好きだな。あんな連中、さっさと追い出せばいいのに」
陰口が聞こえてくる。部下の男たちが殺気立つが、天は片手を挙げてそれを制した。
彼の目は、先頭を走る太史慈だけに注がれている。
太史慈の騎射は神業だった。
馬を全速力で走らせながら、上半身は微動だにしない。弦を引き、放つ動作に一切の淀みがない。放たれた矢は吸い込まれるように的の中心を貫く。
天は、その動きを目に焼き付ける。
筋肉の使い方は? 呼吸のタイミングは? 馬とのリズムの合わせ方は?
脳内で太史慈の動きを完全再現し、自分の肉体でシミュレーションを行う。
(まだだ……まだ無駄な力が入ってる)
天は無意識のうちに自分の左腕をさすった。鉛入りの木刀を振り続けたせいで、前腕の筋肉が異常に発達し、血管が浮き出ている。
力はある。だが、太史慈のような「静寂」がない。
「天、見てください」
律が指差した先。太史慈が演習を終え、こちらに近づいてくる。
柵越しに、師と目が合った。
太史慈は何も言わない。ただ、天の腰にある木刀を一瞥し、わずかに頷いただけだ。
それだけで十分だった。
――夜、裏山に来い。
無言の呼び出しだ。
***
その日の深夜。
月明かりだけが頼りの山中で、天は一人、太史慈と対峙していた。
これが、天にとっての本当の訓練だ。
昼間は部下の指導や雑務に追われるが、夜だけは師との一対一の時間。それは至福の時間であり、同時に死と隣り合わせの地獄でもあった。
「構えろ」
太史慈が短槍を構える。刃は潰してあるが、当たれば骨折は免れない。
天は木刀を正眼に構えた。
三年前、手も足も出なかった頃とは違う。今の天には、確かな自信があった。
「行くぞッ!」
天が踏み込む。
速い。以前のような獣じみた突進ではない。重心を低く保ち、滑るように距離を詰める。
太史慈の槍が突き出される。
天はそれを予測していた。首を捻って回避し、同時に木刀を薙ぎ払う。
ガツッ!
槍の柄で受け止められる。だが、天の攻撃はそこで終わらない。
弾かれた反動を利用し、体を回転させての裏拳。さらに蹴り。変幻自在の連撃が太史慈を襲う。
呂布の剛力に、太史慈の技術が混ざり始めている。
「……悪くない」
太史慈が初めて守勢に回った。
天の木刀が、太史慈の頬を掠める。数本の髭が宙に舞った。
その瞬間、太史慈の目が鋭く光った。
「調子に乗るな」
ドンッ!
太史慈の体当たり。
天の体が数メートル吹き飛ぶ。だが、天は空中で体勢を立て直し、猫のように着地した。
「ハァ……ハァ……!」
息が上がる。だが、口元には笑みが浮かんでいた。
太史慈に、本気を出させた。
「成長したな、天」
太史慈が槍を下ろす。それは珍しいことだった。普段は厳格な師が、稽古の途中で言葉を交わすことなど滅多にない。
「お前を拾った時、お前はただの凶暴な獣だった。だが今は、将としての器が見え始めている」
「……買いかぶりすぎだ。俺はただ、アンタをぶっ飛ばしたいだけだ」
「フッ、素直ではないな」
太史慈は夜空を見上げた。
「天よ。私は長くはないかもしれん」
唐突な言葉に、天の心臓が跳ねた。
「なんだと? 病気か?」
「いや、予感だ。武人としてのな」
太史慈は自らの右手を握りしめた。
「合肥での戦いが近い。曹操軍の動きが活発だ。次の戦は、呉の存亡をかけた大戦になるだろう。……その時、私が生き残れる保証はない」
「縁起でもねえこと言うなよ! アンタが負けるわけねえだろ!」
「勝敗は兵家の常だ。だが、もし私が倒れた時……」
太史慈は天を真っ直ぐに見据えた。
「お前が継げ。私の技を、そして私の魂を」
「……継ぐ?」
「そうだ。呂布の力と、太史慈の技。その二つを併せ持つお前なら、あるいは天下の理すら覆せるかもしれん」
太史慈は懐から、一冊の書物を取り出した。
手書きの書簡だ。表紙には何も書かれていない。
「これは私が生涯をかけて編み出した弓術と用兵の秘伝だ。今はまだお前には理解できんかもしれん。だが、いつか必ず役に立つ時が来る」
天は震える手でそれを受け取った。
紙の重さではない。師の人生の重さが、そこにあった。
「……なんで、俺なんだ。俺は裏切り者の息子だぞ。呉の連中からは恨まれてる」
「血など関係ない。私はお前という人間を買ったのだ」
太史慈は背を向けた。
「行け。夜明けまでまだ時間がある。部下たちを鍛えてやれ。奴らもお前の背中を見ている」
「……ああ。ありがとよ、クソ師匠」
天は悪態をつきながらも、書簡を懐深くに仕舞い込んだ。
この夜の会話が、師との最後の静かな時間になるとは、天はまだ知る由もなかった。
***
月日は流れ、季節は巡る。
掃き溜めの部隊も、少しずつ様変わりしていた。
最初はバラバラだった荒くれ者たちが、天を中心とした一つの「群れ」になりつつあった。
ある雨の日。
倉庫の中で、律が天に地図を広げて見せていた。
「天、見てください。この地形」
「ただの山だろ」
「違います。ここは次の演習予定地です。正規軍は平地を進むでしょうが、我々がこの崖道を登れば、彼らの背後を取れます」
「崖? 馬鹿言え。あんな絶壁、登れるわけねえだろ」
「普通なら、ですね」
律はニヤリと笑い、隅で筋トレをしていた巨漢・魏を指差した。
「彼を使います。彼を土台にして人間梯子(はしご)を作れば、登れます。仙の作った精力剤でドーピングすれば、疲労も無視できる」
「……お前、相変わらずエグいこと考えるな」
「勝つためです。次の演習で正規軍の鼻を明かせば、我々の待遇も少しはマシになるでしょう」
天は腕を組んで考え込んだ。
正規軍を出し抜く。それは痛快な響きだ。
それに、部下たちの目つきも変わってきている。最初はただ飯を食うために集まっていた連中が、最近では「俺たちもやればできるんじゃないか」という希望を持ち始めている。
「よし、乗った。その策、採用だ」
天が号令をかけると、倉庫内の男たちが「うおおおっ!」と歓声を上げた。
こうして、天たちの日常は過ぎていった。
泥にまみれ、汗を流し、時には正規軍と衝突し、時には師に叩きのめされる日々。
それは過酷だが、充実した時間だった。
天にとって、生まれて初めて得た「仲間」と「居場所」。
父を失い、孤独に震えていた少年は、この三年間で確実に、一人の「将」としての根を張り始めていた。
だが、嵐は唐突にやってくる。
建安十一年、冬。
伝令の早馬が、太史慈の軍営に飛び込んできた。
「合肥にて、曹操軍の動きあり! 張遼率いる七千の兵が、国境を越えました!」
その報せは、平穏な修行の日々の終わりを告げる弔鐘だった。
太史慈の顔色が変わり、軍営全体が殺気立つ。
天もまた、震える手で木刀を握りしめた。
ついに来る。
実戦。殺し合い。
父を殺した仇敵・張遼との再会。
そして、師・太史慈に忍び寄る死の影。
天は空を見上げた。
厚い雲の隙間から、赤黒い星が瞬いているような気がした。
凶星が、動き出そうとしている。
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