第2章:獣の剣、人の剣
太史慈の軍営は、建業(けんぎょう)から少し離れた山麓に位置していた。
整然と並ぶ天幕。一糸乱れぬ兵たちの動き。そして何より、張り詰めた弓弦のような緊張感。それが、孫呉きっての猛将が率いる精鋭部隊の空気だった。
天(テン)は、太史慈の馬の後ろを、手首を縄で縛られた状態で走らされていた。採石場から三十里(約十二キロ)。馬ならば軽い早駆けだが、人間にとっては過酷な距離だ。しかも天は、一年間の重労働と先ほどの乱闘で体力を消耗しきっている。
だが、天は一度も膝をつかなかった。
呼吸はふいごのように荒く、心臓は早鐘を打っているが、その瞳は前を行く将軍の背中に釘付けになっていた。
(あの背中だ)
天は思う。
先ほどの戦い。自分の全力の一撃を、この男は剣も抜かずに防ぎきった。圧倒的な実力差。父・呂布が死んで以来、初めて味わった「敗北」の味。それが悔しくもあり、同時に腹の底が熱くなるような興奮を呼び覚ましていた。
強くなりたい。あの男を倒せるくらいに。
その一心だけが、鉛のように重い足を前へと運ばせていた。
営門をくぐると、周囲の空気が変わった。
演習をしていた兵士たちが手を止め、異様な視線を向けてくる。
「おい、見ろ。将軍が連れ帰ったのは、あのガキか?」
「汚ぇな。どこの野良犬だ」
「聞かなかったか? 採石場で暴れた奴隷だそうだ。しかも、呂布の息子だと名乗ったらしいぞ」
「呂布だって? あの裏切り者の?」
嘲笑、嫌悪、そして微かな恐怖。
それらの視線が、天の肌を針のように刺す。呂布の名は、ここ呉の地でも呪いのように響く。主君を殺し、恩を仇で返し、最後は無様に処刑された魔王。その血を引く者は、存在すること自体が罪なのだ。
天は彼らを睨み返そうとしたが、太史慈が馬を降り、静かに振り返ったことで動きを止めた。
「縄を解け」
太史慈が部下に命じる。
天の手首を縛っていた縄が切られた。手首には赤い痣が残っていたが、天はそれを気にする素振りも見せず、凝り固まった筋肉をほぐすように腕を回した。
「ついて来い」
太史慈はそれだけ言い、天幕の奥にある修練場へと歩き出した。
修練場は、踏み固められた赤土の広場だった。
そこには無数の木人や、藁(わら)人形、そして様々な武器が並べられていた。
太史慈は武器棚の前で立ち止まり、一本の剣を手に取った。いや、それは剣と呼ぶにはあまりに無骨だった。
刃がない。分厚い樫の木を削り出して作られた、木刀だ。だが、その太さは通常の剣の倍はある。芯に鉛でも仕込んであるのか、太史慈が持つ手首の沈み方で、その異常な重さが伝わってきた。
「受け取れ」
太史慈はその木刀を天に放り投げた。
天は片手で受け止めようとした。だが、掌に触れた瞬間、予想外の重量に体勢を崩しかけた。
(重ッ……!?)
見た目以上に重い。ただの木ではない。岩を持っているような感覚だ。天は慌てて両手で握り直した。
「今日から三年間、お前の武器はそれだ」
太史慈は腕を組み、冷ややかに告げた。
「はあ? ふざけんな。俺はガキじゃねえ。本物の鉄(かね)をよこせ」
天が抗議する。父から教わったのは、戟や矛による殺傷術だ。こんな棒切れで何ができる。
「お前に刃物は早すぎる」
太史慈は一刀両断した。
「採石場での動きを見た。お前は膂力に任せて武器を振り回しているだけだ。それでは鎧の薄い雑兵は殺せても、一流の武人は傷一つつけられん。刃の鋭さに甘え、技術を磨くことを怠っている証拠だ」
「なんだと……」
「不服か? ならばその棒切れで、私に一撃でも入れてみろ。それができれば、真剣を与えてやる」
太史慈は腰の剣を抜き放ち、切っ先を天に向けた。
ギラリと光る白刃。その輝きが、天の闘争本能に火をつけた。
「言ったな。後悔すんなよ、オッサン!」
天は木刀を構え、地面を蹴った。
速い。採石場の時よりもさらに踏み込みが鋭い。怒りが原動力となり、全身のバネが弾けた。
真正面からの唐竹割り。単純だが、それゆえに回避が難しい剛剣。この重い木刀で頭蓋を割れば、いかな将軍とて死ぬ。
だが、太史慈は動かない。
刃が額に届く寸前、太史慈は半歩、左足を引いた。
フッ。
木刀が空を切る。いや、切っていない。太史慈の剣の峰(みね)が、絶妙な角度で木刀の側面に触れ、軌道を逸らしたのだ。
天の体が泳ぐ。
「力が入りすぎだ」
太史慈の冷徹な声と共に、剣の柄尻が天の脇腹に叩き込まれた。
ドゴッ!
「がはッ……!?」
息が詰まる。天は赤土の上を転がった。
「もう一度だ」
天はすぐに起き上がり、泥を吐き捨てて再び突っ込む。
今度は横薙ぎ。腰の回転を使ったフルスイング。
(……恐ろしい小僧だ)
太史慈は表情こそ崩さないが、内心では舌を巻いていた。
この木刀には鉛が仕込んであり、重さは通常の剣の三倍はある。歴戦の兵士でも、十回も振れば腕が上がらなくなる代物だ。それを、この少年は小枝のように振り回している。
しかも、ただの馬鹿力ではない。踏み込みの深さ、体幹のブレなさ、そして獲物を捉えた時の殺気の集中度。どれをとっても、訓練を受けていない素人の域を遥かに超えている。
(こいつが十三歳だと……? 冗談ではない)
太史慈は天の連撃を最小限の動きで捌きながら、戦慄を覚えていた。
通常の兵卒など、束になっても相手にならぬだろう。いや、下手な百人将クラスでも、初見でこの剛剣を受ければ腕ごと叩き斬られる。並外れた骨格。異常発達した速筋。そして何より、戦いの最中にすら成長しようとする貪欲な獣の嗅覚。
(さすがは、あやつの息子か……)
かつて戦場で見た、呂布奉先の姿が脳裏をよぎる。
理屈を超えた暴力の化身。天の剣には、確かにあの魔王の影がある。
だが、今のままでは脆い。力任せの剣は、搦め手や老獪な技に弱い。
この原石を磨き上げ、もし「理」という名の鞘(さや)を与えることができれば――。
こいつは、私すら超える「最強」になるやもしれぬ。
「殺気が漏れている。次は右から来ると顔に書いてあるぞ」
「うるせぇぇッ!」
天は吠え、立ち上がり、振るう。
何度でも。何度でも。
だが、一度も当たらない。掠りもしない。
まるで大人と子供の遊びだ。圧倒的な「間合い」の支配。天が攻撃しようと思った瞬間、既に太史慈はその対策を終えている。
十分後。
天は大の字になって地面に倒れていた。
指一本動かせない。肺が焼けるように熱く、全身が打撲で悲鳴を上げている。
太史慈は息一つ乱さず、剣を鞘に納めた。
「力とは、ただ放出するものではない。制御し、一点に凝縮してこそ破壊力を生む。お前の剣は、洪水のようだ。勢いはあるが、堤防(わざ)があれば容易に防げる」
太史慈は天を見下ろした。
「今日から、その木刀を肌身離さず持て。寝る時も、飯を食う時もだ。その重さが腕の一部になるまで、絶対に手放すな」
そう言い残し、太史慈は踵を返そうとした。
だが、その足が止まる。
天が、這いつくばったまま、近くにあった練習用の弓に手を伸ばしたからだ。
「……剣は負けた。だが」
天はふらつく足取りで立ち上がる。泥だらけの手で弓を握りしめ、矢筒から一本の矢を引き抜いた。
「弓なら、負けねえ」
太史慈は眉をひそめた。
「ほう? 剣もまともに振れぬ者が、弓を語るか」
「親父は……呂布は、最強の武人だった。だが、一番凄かったのは剣でも槍でもねえ。弓だ」
天の脳裏に、幼き日の記憶が蘇る。
百五十歩離れた場所にある戟の小枝を、一矢で射抜いてみせた父の姿(轅門射戟)。あの時の父の背中は、神そのものだった。
「俺は三歳の頃から、親父に弓を持たされた。寝てる鳥の羽毛だけを掠め取るまで、飯を食わせてもらえなかった」
天は矢をつがえた。
構えに入った瞬間、場の空気が変わった。
先ほどまでの荒々しい獣の気配が消え、静寂が訪れる。呼吸が深くなり、全身の力が抜け、弓と身体が一体化する。
太史慈の目が大きく見開かれた。
(なんだ、この構えは……!)
完璧だった。
肩の位置、肘の角度、指先の力加減。教えられてできるものではない。数万回、いや数十万回と繰り返した者だけが辿り着く、無我の境地。
天は狙いを定めた。五十歩先にある的の中心ではない。そのさらに奥、修練場の端にある木に止まっていた、一匹の蝉を。
ヒュンッ!
弦音すら置き去りにするような、神速の一射。
矢は的を貫通し、さらにその奥の木に突き刺さった。
太史慈が無言で歩み寄り、木を確認する。
矢の先端には、蝉の羽が一枚だけ、綺麗に縫い付けられていた。胴体は傷ついていない。羽だけを射抜いたのだ。
(……紛れもない、天才か)
太史慈は戦慄した。
呂布の剛力だけでなく、あの神懸かり的な弓の才までも受け継いでいるのか。
この少年は、磨けば光る原石などではない。泥の中に埋もれていた、既に完成された宝剣だ。
「……悪くない」
太史慈は短く告げた。
「だが、お前の弓は『狩り』の弓だ。獲物を殺すことしか考えていない。戦場の弓とは、敵の心を射抜くものだ。明日からは、その違いを教えてやる」
天は弓を下ろし、不敵に笑った。
「へっ……望むところだ」
その日から、地獄が始まった。
太史慈の訓練は、常軌を逸していた。
朝は夜明け前に叩き起こされ、三十キロの石を背負っての山駆け。戻ってくれば、休む間もなく一千回の素振り。
素振りが終われば、太史慈との組手。毎日ボロ雑巾のように叩きのめされ、気絶するまで終わらない。
そして弓の稽古では、動く標的――走る馬上の太史慈を狙うという無茶な課題が課された。
「私の兜の房を射抜け。外せば飯抜きだ」
天は空腹で目が眩む中、震える腕で弓を引き絞り続けた。
軍営内での生活も、過酷なものだった。
天は奴隷身分から解放されたわけではない。「将軍の私兵」という扱いだが、周囲の兵士たちからは完全に孤立していた。
ある日の夕食時。
兵舎の食堂で、天が麦粥を受け取ろうと列に並んでいると、後ろから足を掛けられた。
「おっと、すまないね」
ニヤニヤと笑う若手の兵士たち。彼らは天を取り囲み、嘲るような目で見下ろした。
「呂布の息子様は、俺たちと同じ飯を食うのが不満かな? 裏切り者の血肉になるなんざ、麦が可哀想だ」
兵士の一人が、天の器に唾を吐いた。
ドッと湧く周囲。
天は器を見つめ、それから兵士たちを見上げた。
右手がピクリと動く。殺そうと思えば、一瞬だ。この程度の雑魚、瞬きする間に喉笛を食いちぎれる。
だが、天は動かなかった。
――お前の暴力は、弱さの隠蔽だ。
太史慈の言葉が脳裏をよぎる。
ここでコイツらを殺せば、俺はただの獣に戻る。太史慈の言った通りになってしまう。それが何よりも癪だった。
「……腹が減ってるんだ。邪魔するな」
天は唾の吐かれた粥を、無表情で啜った。
味などしない。ただの燃料だ。
「なっ……気味の悪い奴だ」
兵士たちは天の反応の薄さに気勢を削がれ、捨て台詞を吐いて去っていった。
天は一人、粥を啜り続けた。屈辱で胃が煮え繰り返りそうだ。だが、この怒りもまた、明日への力に変える。
深夜。
兵たちが眠りについた後、天は一人、修練場にいた。
月明かりの下、鉛入りの木刀を振り続ける。
千回。二千回。三千回。
掌の皮はとうに剥け、柄は血で赤黒く染まっている。腕の感覚はない。ただ、振るという意志だけで肉体を動かしている。
「まだ起きているのか」
背後から声がした。太史慈だ。
天は手を止めず、荒い息のまま答える。
「……アンタに、一撃入れるまでは、寝ねえ」
太史慈は無言で天の素振りを見つめていた。
最初に出会った時の、力任せの軌道とは違う。体の軸が安定し、無駄な力が抜けつつある。
この少年は、学ぶことに貪欲だ。呂布の才能を持ちながら、呂布にはなかった「持たざる者のハングリーさ」を持っている。
「呂布は、なぜ死んだと思う」
唐突に太史慈が問うた。
天の動きが止まる。
「……曹操が、卑怯な手を使ったからだ。水攻めで……」
「違う」
太史慈は首を横に振った。
「奴が死んだのは、誰も信じなかったからだ。己の力のみを信じ、他者を道具としか見なかった。だから孤立し、足元をすくわれた」
太史慈は天に近づき、木刀の切っ先を指先で押さえた。
「天よ。強くなれ。だが、孤独な強さは脆い。真の将軍とは、万の兵の命を背負い、その恐怖すらも力に変えて導く者のことだ。お前が目指すのは、呂布のような『個の最強』か? それとも、国をも動かす『将の最強』か?」
天は言葉に詰まった。
父は最強だった。だが、負けた。死んだ。
俺がなりたいのは、負けない最強だ。
「……わかんねえよ、まだ」
天は正直に答えた。
「でも、俺はもう負けたくねえ。親父みたいに、袋叩きにされて死ぬのは御免だ」
「ならば振れ。その迷いが晴れるまで」
太史慈は踵を返した。
「明日は騎射(きしゃ)の稽古だ。馬から落ちても泣くなよ」
天は去りゆく師の背中を睨み、再び木刀を構えた。
月が雲に隠れる。
暗闇の中で、風を切る音だけが響き続ける。
こうして、天の修羅の如き修行の日々は過ぎていった。
季節が巡り、一年が経ち、二年が経った。
少年の体は青年のそれへと変わり、筋肉は鎧のように強固になり、身長は太史慈に迫るほど伸びた。
そして、運命の時が近づいていた。
建安十一年。
天、十六歳。
呉の運命を左右する「合肥(がっぴ)の戦い」の足音が、すぐそこまで迫っていた。
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