第1章:黒鉄の檻

 血飛沫が舞う。

 それは鮮やかな紅い霧となって、採石場の澱んだ空気を切り裂いた。

 衛兵が一人、また一人と宙を舞う。

 天(テン)が振るうのは、刃こぼれした古びたつるはしだけだ。だが、その一撃は鍛え上げられた鋼の槍を飴細工のようにへし折り、鎧の上からでも人間の肋骨を粉砕する破壊力を秘めていた。


「う、うわぁぁぁッ!」


 悲鳴を上げながら逃げ惑う衛兵の背中に、天は躊躇なくつるはしを叩き込む。

 ドゴッ、という湿った音が響き、男が泥の中に沈む。

 天は荒い息一つ吐いていない。心臓の鼓動は早鐘を打っているが、それは疲労からではなく、抑えきれない昂揚感からだった。


(軽い)


 天は自分の掌を見つめた。

 一年間、来る日も来る日も巨大な岩を運び続けた。父・呂布から受け継いだ骨格は、過酷な労働によって極限まで圧縮されたバネのような筋肉を纏い、十三歳にして既に大人の戦士を凌駕する膂力(りょりょく)を生み出していた。

 これまで、その力を隠すことに必死だった。目立てば殺される。そう思っていたからだ。

 だが今、こうして解き放ってみればどうだ。

 自分を虫けらのように扱っていた大人たちが、まるで恐怖に怯える鼠のように逃げ回っている。


(親父。これが、あんたが見ていた景色か)


 圧倒的な強者から見る世界。そこには理屈も身分も関係ない。ただ力のある者が立ち、弱い者がひれ伏す。純粋で残酷な、真実の世界。


「化け物だ……こいつ、人間じゃねえ!」


 残った衛兵たちが、恐怖に顔を引きつらせて後ずさる。五十人いた包囲網は、すでに半数が地面に転がっていた。

 天はつるはしを肩に担ぎ、ゆらりと歩を進める。


「おい、どうした。さっきまでの威勢はどこへ行った」


 挑発ではない。純粋な疑問だった。父の教えでは、戦いとは相手の息の根を止めるまで続くものだ。なぜ彼らは武器を持っているのに、震えて動かないのか。


「ひッ! くるな! あっちへ行け!」


 一人の衛兵が錯乱し、弓を引き絞った。

 距離は十歩。至近距離からの矢は、回避不能の速度で放たれる。

 ヒュンッ!

 鋭い風切り音と共に、矢が天の眉間へと吸い込まれる。

 だが、天の世界では、時が泥水のように粘り気を帯びて遅くなった。

 父との組手を思い出す。呂布の突きは、矢よりも速く、雷よりも重かった。それに比べれば、この矢など止まっているも同然だ。

 天は首をわずかに傾けた。

 風が頬を撫でる。矢は髪の毛数本を切り飛ばし、背後の岩壁に突き刺さった。


「な……?」


 衛兵が信じられないものを見る目で天を凝視する。

 天は一瞬で距離を詰めた。


「遅い」


 つるはしの柄尻が、衛兵の鳩尾(みぞおち)に深々とめり込む。衛兵は声もなく崩れ落ち、白目を剥いて痙攣した。


 その時だった。


「――そこまでだ」


 凛とした、だが山のように重い声が戦場に響き渡った。

 その声を聞いた瞬間、天の背筋に氷柱を突き刺されたような寒気が走った。

 本能が警鐘を鳴らしている。

 今までの有象無象とは違う。決定的な「死」の気配が近づいてくる。

 天は弾かれたように振り返った。

 採石場の入り口、丘の上から続く坂道を、騎馬の一団がゆっくりと降りてくるところだった。


 先頭を行く男。

 立派な鹿毛の馬に跨り、豪奢な鎧を身にまとっている。背中には二本の短い鉄鞭(てつべん)を背負い、腰には強弓を佩(は)いている。

 年齢は三十代半ばほどか。精悍な顔つきに、短く刈り込んだ髭。その瞳は深い湖のように静かだが、底には決して消えることのない熾火(おきび)のような闘志が宿っていた。

 呉の猛将、太史慈(たいしじ)。

 その男が放つ威圧感は、天がかつて父・呂布から感じていたものと同質のものだった。


「将軍! 太史慈将軍!」


 生き残った監督官が、救世主を見たかのように叫び声を上げて駆け寄る。


「こ、こいつです! この奴隷が突然狂って、我々を襲ったのです! 早く殺してください! こいつは呂布の息子だと名乗る、呪われた悪魔です!」


 監督官の言葉に、太史慈の後ろに控える騎馬兵たちがざわめいた。


「呂布だと? あの中華を荒らした裏切り者の?」

「馬鹿な、下邳で一族は根絶やしになったはずだ」

「だが、あの強さは尋常ではないぞ」


 兵たちの視線が、好奇心と警戒心を含んで天に突き刺さる。

 天はつるはしを構え直し、太史慈を睨みつけた。


「……アンタが、こいつらの親玉か」


 天の問いに、太史慈は馬上から静かに天を見下ろした。値踏みするような視線。だが、そこには侮蔑の色はない。


「我は孫呉の将、太史慈子義(しぎ)。この採石場の管理は我が管轄ではないが、これほどの騒ぎを見過ごすわけにはいかぬ」


 太史慈は低い声で告げた。


「小僧。名はなんと言う」

「天だ。……それと、小僧じゃねえ」


 天は足元の泥を強く踏みしめた。


「俺は呂布奉先の息子だ。最強の血を継ぐ男だ」


 再びの宣言。

 太史慈はわずかに目を細めた。


「呂布、か。……確かに、その立ち姿、そして何よりその血に飢えた瞳。あの鬼神の面影がある」


 太史慈は馬を降りた。

 地面に降り立つと、その巨躯は天よりも頭二つ分ほど大きい。太史慈は部下に手綱を預け、ゆっくりと天の方へ歩み寄った。

 武器は抜かない。丸腰のまま、無防備に近づいてくる。

 それが天には、最大の挑発に思えた。


「武器を抜けよ」


 天が唸るように言う。


「俺を殺しに来たんだろ。なら、手加減は死を招くぞ」

「殺しに来たのではない。確認しに来たのだ」


 太史慈は歩みを止めない。間合いは既に、互いの剣が届く距離に入っている。


「お前が本当に、あの呂布の『武』を継ぐに値する者なのか。それとも、ただ力に溺れただけの『獣』なのかをな」


 獣。

 その言葉が、天の逆鱗に触れた。

 採石場での一年間、ずっとそう呼ばれてきた。言葉の通じない家畜。危険な猛獣。

 だが、自分は違う。父から最強の技を受け継いだ戦士だ。


「……舐めるなッ!」


 天が吠えた。

 地面を蹴る。爆発的な加速。泥を跳ね上げ、矢のような速度で太史慈の懐に飛び込む。

 手にしたつるはしを、下段から斬り上げるように振るう。

 父から教わった「死角からの一撃」。

 衛兵たちは反応すらできなかった速さだ。太史慈の首元を、鉄の爪が食い破る――その確信があった。


 ガィィィンッ!


 甲高い金属音が響き、天の手首に強烈な痺れが走った。


「な……ッ!?」


 つるはしは、太史慈の首元寸前で止まっていた。

 太史慈は剣を抜いてすらいない。背負っていた二本の鉄鞭。その片方を、鞘に収めたまま左手で抜き放ち、盾のようにして天の一撃を受け止めていたのだ。


「速いな」


 太史慈は表情一つ変えずに言った。


「踏み込みの鋭さ、迷いのない殺意。確かに常人の域ではない。だが」


 太史慈の手首が返る。

 ゴウッ!

 鉄鞭が風を巻き込み、天のつるはしを弾き飛ばした。

 天の体が泳ぐ。


「――雑だ」


 太史慈の右足が、天の腹部に突き刺さった。

 ドゴォォォッ!

 内臓が潰れるような衝撃。天の体は鞠のように吹き飛び、数メートル後ろの泥水の中へ転がった。


「がッ、はッ……!?」


 肺の中の空気が強制的に吐き出される。泥の味と鉄の味が口の中に広がる。

 何が起きた?

 蹴られたことさえ、痛みを感じるまで認識できなかった。


「立て」


 太史慈の声が降ってくる。


「呂布の武とは、その程度のものか? 力任せに振り回すだけの棒切れが、最強の武だと言うのか」


 屈辱。

 全身の血が逆流するような怒り。

 天は泥まみれの顔を上げた。視界が真っ赤に染まる。


(違う……親父の武は、こんなもんじゃない!)


 天は雄叫びと共に立ち上がった。つるはしは失った。だが、拳がある。牙がある。


「殺す……殺してやるッ!」


 理性が飛び、本能が身体の主導権を握る。

 天は獣のような四足歩行に近い姿勢で駆け出した。不規則な動き。予測不能な軌道。

 それは、幼い頃から父との殺し合いの中で培った、生存本能そのものの動きだった。

 太史慈の左、右、そして背後へ。目まぐるしく位置を変えながら、隙を窺う。


「死ねぇぇッ!」


 太史慈の背後から、首筋に食らいつくように跳躍する。

 だが。


「気配が漏れているぞ」


 太史慈は振り返りもせず、背中の鉄鞭を僅かに動かした。

 ドンッ!

 見えない壁にぶつかったような衝撃。太史慈の肘が、正確無比に天の喉元を捉えていた。

 天は空中で静止し、そのまま地面に叩きつけられた。


「が、ぁ……ッ」


 呼吸ができない。喉が焼けるように熱い。

 太史慈はゆっくりと振り返り、冷徹な瞳で天を見下ろした。


「力はある。速さもある。だが、それだけだ。お前の動きには『芯』がない」


 太史慈は鉄鞭を背中に戻した。


「呂布奉先は、確かに獣のような男だった。だが、奴の武には一本の強烈な信念があった。己が最強であるという、揺るぎない自負と覚悟だ。だからこそ、奴の戟は重く、誰にも止められなかった」


 太史慈の言葉が、物理的な痛み以上に天の胸を抉る。


「だがお前はどうだ? ただ怯えているだけではないか」

「……なに?」


 天は掠れた声で問い返す。


「周囲の視線に怯え、呂布の子という運命に怯え、だからこそ過剰に牙を剥く。お前の暴力は、強さの証明ではない。弱さの隠蔽だ」


 図星だった。

 この一年間、天はずっと周囲を威嚇し続けてきた。「俺は強い」「俺は特別だ」と言い聞かせながら、心のどこかで、社会から拒絶される孤独に震えていた。

 それを、この男に見抜かれた。


「ふざ、けるな……!」


 天は涙と泥にまみれた顔で、なおも立ち上がろうとする。膝が笑い、視界が霞む。それでも、父の誇りだけは汚されたくない。


「俺は……呂布の、息子だ……!」


 よろめきながら、拳を握りしめる。

 その姿を見て、太史慈の瞳に僅かな光が宿った。

 諦めない心。折れない闘志。

 技術は未熟。心も未熟。だが、その根底にある魂の輝きだけは、本物だ。


「……悪くない目だ」


 太史慈は初めて、微かに口元を緩めた。


「将軍! トドメを刺しますか!」


 衛兵たちが、弱った天を取り囲もうとする。


「控えろ」


 太史慈の一喝で、兵たちは凍りついたように動けなくなった。

 太史慈は懐から革袋を取り出し、監督官の足元に投げつけた。ジャラリと重い音がする。中身は金貨だ。


「この奴隷は私が買い取る。文句はあるか」

「は、はぁ!? いや、しかし……こいつは危険です! それに呂布の子など、生かしておけば災いが……」

「災いか。上等だ」


 太史慈は天の前に膝をつき、視線の高さを合わせた。


「小僧。いや、天よ」


 太史慈が手を差し出す。その手は大きく、無数の剣ダコに覆われた武人の手だった。


「このままここで腐り果てるか。それとも、私と共に来るか」


 天は荒い息を吐きながら、その手を見つめた。


「……どこへ、行くんだ」

「修羅の道だ」


 太史慈は言い放った。


「お前のその血は、平穏な世では毒にしかならぬ。だが、戦場ならば最強の武器になる。私が鍛えてやる。獣ではなく、一人の武人として生きる術を」


 武人として。

 その言葉が、天の心の琴線に触れた。父・呂布もまた、最期まで武人として死んでいった。

 天は震える手で、太史慈の手を握り返した。


「……俺は、誰にも負けたくねえ。親父よりも、アンタよりも、強くなりたい」

「ならば証明してみせろ。口先だけでなく、その生涯をかけてな」


 太史慈は力強く天の手を引き、立たせた。

 泥まみれの少年と、天下に名高い将軍。

 奇妙な師弟の誕生だった。

 周囲の冷ややかな視線の中、天は太史慈の背中を見つめた。その背中は、あの日見た父の背中とは違う、静かで温かい強さを放っていた。

 この男の元なら、あるいは。

 天の胸に、小さな希望の火が灯る。だがそれは同時に、新たな地獄への入り口でもあった。

 太史慈の下での修行は、採石場の労働など生温く感じるほど過酷なものになることを、天はまだ知らない。


 建安七年。

 天、十三歳。

 泥中の獣は檻を出て、広大な戦場という荒野へと解き放たれた。

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