獣になるまで、あと何人 ー夜を手放した記録ー

SeptArc

第一夜 よく眠れた夜

夜は、音を吸っていた。

雨が降っているはずなのに、石畳を打つ音がしない。


剣を持つ手が、わずかに震えている。

寒さのせいではない。

血のせいだ。


刃には、まだ温度が残っていた。

ついさっきまで――

それが人の中にあった証だ。


足元には倒れた影がある。

人の形をしている。

だが、顔を見ようとは思わなかった。


見る必要がない。

もう十分、見てきた。


呼吸を整えようとして、失敗する。

肺が空気を欲しがるより先に、

身体の奥が“次”を求めていた。


おかしい、と思う。

自分は、終わらせに来たはずだった。

怪物を殺し、この夜を閉じるために。


なのに――

剣を握る感触が、懐かしい。


初めて触れたはずの重さ。

初めて持ったはずの刃。

それなのに、

「知っている」としか言いようがなかった。


影が、遅れて動いた。


自分の足が一歩引いたあと、

地面に伸びた黒い輪郭だけが、

半拍遅れて、前に踏み出す。


……今のは、見間違いだ。


そう思った瞬間、

月が雲の切れ間から顔を出した。


赤い。


なぜか、その色を

ずっと前から知っていた気がした。


倒れた体から、血が流れてくる。

本来なら広がるはずのそれは、

途中で止まり、

まるで迷うように揺れてから――


こちらへ滲んだ。


靴先に触れた瞬間、

胸の奥で、何かが静かにほどける。


安堵だった。


理由のない、説明できない安堵。


「ああ……」


声が漏れた。

誰に向けたものでもない。


この夜は、終わらない。

そう、確信してしまった声だった。


剣を下ろす。

血が滴り落ちる。


その雫が地面に落ちる前に、

影が、もう一度だけ揺れた。


今度は――

獣の形で。


ーーーーーーーーーー


パン屋の灯りは、まだ消えていなかった。

それだけで、胸の奥が少し軽くなる。


今日は、遅くなった。

雨が降りそうで、降らない夜だった。


急ぐ理由は、たいしたものじゃない。

明日の朝に食べるパンが欲しい。

それだけだ。


硬くなり始めた石畳を踏みながら、

コートの前を閉じる。

風が冷たい。

冬が近い。


この街は、夜になると妙に静かになる。

人が消えるわけじゃない。

息を潜めているだけだ。

みんな、同じことを知っている。


――夜に、出会ってはいけないものがいる。


でも、今日は大丈夫だと思っていた。

狩りの鐘も鳴っていない。

月も、まだ白い。


角を曲がったときだった。


そこに、立っていた。


人だ。

少なくとも、形は。


長い外套。

濡れた髪。

手には剣。


「……すみません」


声をかけたのは、

道を譲ってもらおうと思ったからだ。

それ以上の意味はない。


返事はなかった。


相手の目が、こちらを見た。

いや、見ていない。

焦点が合っていないのに、

こちらの位置だけは正確だった。


一歩、近づいてくる。


その歩き方を見て、

なぜか、安心してしまった。


迷いがない。

怒りもない。

憎しみもない。


ただ、決まった動作。


「あ……」


言葉が、喉で止まる。


逃げようと思った。

足も、そう命令された。


でも体が動かない。

それは恐怖じゃない。


理解だった。


――ああ、この人は、

自分を殺すことに、

何の意味も見出していない。


だから、躊躇わない。


剣が振り上げられる。

速さに、感情がない。


最後に思ったのは、

パン屋が、まだ開いているかどうか。


刃が胸に入る。


痛みは、一瞬遅れて来た。

その前に、奇妙な感覚があった。


血が抜けていくのに、

何かが向こうへ渡っていく。


剣を持つ手が、

ほんのわずかに震えたのが見えた。


それだけだ。


相手は、自分を見下ろし、

何も言わず、剣を引き抜く。


その横顔を見て、

なぜか、確信する。


――この人は、

きっと前にも、

同じように人を殺している。


――そして、

そのたびに、

少しずつ、人でなくなっている。


石畳が近づく。

冷たい。


視界の端で、

相手の影が揺れた。


人よりも、

少しだけ、

獣に近い形で。


ーーーーーーーーーー


血は、もう冷えていた。

靴底にまとわりつく感触だけが、やけに生々しい。


剣を下ろしたまま、動かない。

倒れた人間を見ているはずなのに、

視線は少しだけ、そこから外れていた。


――違う。


見ていない。

確認している。


呼吸。

脈。

動き。


どれも、もう無い。


それで十分だった。


胸の奥に、何かが溜まっている。

痛みではない。

罪悪感でもない。


名前のつかない、重さ。


それをどう扱えばいいのか、

自分は知っている気がした。


剣を拭う。

布が血を吸い、色を変える。


この動作を、

何度目かだとは思わなかった。

数えようともしなかった。


必要なことをした。

それだけだ。


そう結論づけた瞬間、

背後の影が、わずかに遅れて揺れた。


……またか。


舌打ちはしない。

驚きもしない。


月が見える位置へ、自然と体が向く。

赤くはない。

まだ、白い。


「まだだな」


独り言が、夜に溶ける。


倒れた人間のことを、

思い出そうとはしなかった。


代わりに、

次に向かうべき道が、

頭の中に浮かんでいた。


理由は、わからない。

だが――

間違っていない、という確信だけがある。


私は、歩き出す。

夜の奥へ。


影は一歩遅れて、

獣に近い形を取りながら、

それに従った。


ーーーーーーーーーー


――まだ、人だった頃


朝は、音から始まった。

鐘ではない。

誰かが戸を開ける音。

水を汲む音。

遠くで荷車が軋む音。


それらを聞きながら、彼は目を覚ました。


狭い部屋だった。

寝台と机、それから壁際に積まれた紙の束。

特別なものは何もない。

だから安心できた。


彼は、剣を持っていなかった。

この頃の彼の仕事に、武器は不要だった。


机に向かい、紙を整える。

昨日書き写した名前の続きだ。

日付、所属、処分内容。

決められた欄を、決められた文字で埋めていく。


誰かの生死は、

この紙の上では、等間隔の行でしかなかった。


窓の外を見る。

通りを歩く人々は、皆、普通の顔をしている。

恐怖も、不安も、ここでは見えない。


彼は思っていた。


――世界は、思っているより、ちゃんと動いている。


だから自分の役目は、

それを乱さないことだ。


昼前、役所の奥で声をかけられた。


「今日、処理が一つ増えた」


渡されたのは、一枚の通行許可証だった。

危険区域へ入るためのもの。

狩人が向かう予定だった場所。


だが、狩人は来ないらしい。


「代わりに誰か行かせるんですか」


彼は、そう聞いた。

それは確認であって、拒否ではなかった。


「誰か、じゃない。お前だ」


一瞬、言葉が理解できなかった。

彼は剣を振れない。

訓練も受けていない。


だが、書類は揃っている。

許可もある。

決まりも、理由も、すべてそこにあった。


「……わかりました」


そう答えた自分の声が、

驚くほど平坦だったのを覚えている。


その日の夕方、

彼は倉庫から古い剣を渡された。


錆びてはいない。

だが、重い。


持ち方だけ教えられた。

振り方は教えられなかった。


「使う必要はないかもしれないからな」


そう言われた。


夜、街を出るとき、

振り返りはしなかった。


怖くなかったわけじゃない。

ただ――

ここで立ち止まる理由が、見つからなかった。


怪物を見たとき、

彼は思った。


――なるほど、これは危険だ。


人肌に姿をちらつかせる毛皮、骨格が変わったかのような動きをする四肢、そして何より、その牙ーー。


怒りも、憎しみもなかった。

ただ、

「放置してはいけない」と理解した。


剣を振った。


偶然だった。

だが、致命的だった。


怪物は倒れ、

夜は、ほんの少しだけ静かになった。


帰り道、

彼は不思議な感覚に包まれていた。


何かを失った感じはない。

何かを得た感じもない。


ただ、


――やるべきことを、やった。


それだけだった。


正しいことだと、

その時は、信じていた。


その夜、

彼はよく眠れた。


それが、

すべての始まりだった。


ーーーーーーーーーー

あとがき


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


第一話は、

「誰かが怪物になる前」の話です。

まだ血も、夜も、騒がしくありません。


この物語では、

怒りや憎しみよりも、

躊躇いが消えていく過程を大切にしています。


正しさは、

いつも静かに人を壊します。


次話から、

少しずつ夜が濃くなっていきます。

主人公も、同じように。

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2026年1月13日 22:00
2026年1月14日 22:00
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