第11話 赤いマフラー、編み目から落ちた名刺
十二月二十八日。年末の棚卸しで、遺失物センターの裏通路は段ボールと台車で埋まっていた。返還窓口は正午まで。午後は保管期限の確認と、棚札の見直しが続く。
舞也子が腕時計を一度見てから、白い手袋をはめ直す。机の上には保管台帳の束、端末の画面には「C列・冬物」の一覧。文字列の最後が、すこしだけ空白になっている行が混じっている。
「……この空白、増えてない?」
誰に向けたでもない声だったのに、近くの彩末がすかさず首を突っ込んだ。
「増えてる増えてる。空白ってさ、見つけた人の心が先に走ってる感じがして、ちょっとこわいよね」
「こわいとか言う前に、確認する。まず、台帳と照合」
瞭多が淡々と紙を受け取り、蛍光灯の下で日付と棚番を指で追う。規程の文章を読むときの視線と同じ速さだ。
結音は、棚の前で片膝をついていた。膝をつくたびに制服の裾が危ない角へ触れそうで、龍希が後ろから静かにタオルを差し込む。結音は気づかずに「ありがと!」とだけ言い、勢いよく棚札をひっこ抜きそうになって「わっ」と声を上げた。
「……抜く前に、棚番を声に出して」
龍希が言うと、結音は口をとがらせ、だけど言われた通りにする。
「C、じゅ、十二……あ、C―12! 赤いマフラーのところ!」
声が大きすぎて、彩末が手で口元を隠して笑った。くる美は台車の陰で欠伸をしていたが、「赤」と聞いた瞬間だけ目が細くなる。
透明な袋の中で、赤い毛糸が静かに丸まっている。深いえんじ色。端の編み目だけがほどけかけて、糸が一本、空気に触れて震えていた。
結音が袋の上から指でそっと触れた。ひやりとしたビニール越しなのに、なぜか指先だけが少し温くなる。
――ここにいる。
耳の奥で、誰かがそう言った気がした。
「取り出し記録、書いて」
舞也子がペンを差し出す。結音は受け取ろうとして落としそうになり、龍希が先にペンを受けて、結音の手首の下へそっと添えた。落とさない角度だけを作って、黙って渡す。結音の頬が赤いマフラーより先に赤くなる。
「……はい。落としません。今日は」
「今日は、ね」
彩末の声に、結音が「うるさい!」と小さく返す。
作業台へ移し、袋の封を開ける。再消毒の噴霧は細かく、毛糸の匂いを一瞬だけ飛ばす。けれど次の瞬間、冬の衣替えの引き出しみたいな、乾いたウールの匂いが戻ってきた。
龍希が編み目のほつれを指先で確かめる。強く引けば切れてしまう。切れた糸は、戻らない。
そのとき、糸の間から、硬い紙の角が覗いた。
「え、なにこれ?」
結音が身を乗り出す。龍希は「触らない」と言わず、先にピンセットを取った。金属の先で紙片を挟み、ゆっくりと引き出す。毛糸の編み目に引っかからない角度だけを探して、呼吸を合わせるみたいに動く。
出てきたのは、小さな名刺だった。角が少しだけ丸くなっている。紙の表面に、コーヒーの染みみたいな薄茶が残り、黒い文字がそこだけかすれていた。
「喫茶……『こ』までしか読めない」
結音が覗き込み、眉を寄せる。
瞭多が言う。
「個人情報です。口に出さない」
「うっ……はい」
結音は舌を引っ込めた。代わりに、名刺の裏の白い余白へ目をやる。鉛筆で、乱れた字が一本だけ書かれている。
『届けて』
舞也子が端末の画面を指で叩く。C―12の登録情報が開く。拾得年月日は「五年前の一月」。ところが、連絡先欄の一部が、まるで切り取られたみたいに空白になっていた。
「……また。ここも空白」
舞也子は顔を上げ、誰かを責める目をしない。ただ、確認が足りなかった自分の呼吸を整えるみたいに、ゆっくり息を吸った。
「五年前の冬。拾得場所は……駅ナカ。返還の照会、進んでない。なんで」
「当時の担当が、紙を残してない可能性」
国寿が言い、すぐに続けて自分で首を振った。
「……いや、残してないじゃない。残せなかった、かも」
「残せなかった?」
結音が聞き返すと、国寿は一枚の古い照会用紙を引き出しから出した。連絡先欄が、毛羽立っている。文字が消えた跡だけが残っていた。
「こうなる。こすれて、消える。あるいは……」
最後の言葉を、国寿は飲み込む。
棚の奥で、かすかな金属音がした。刃先が紙の上を滑るような、乾いた音。
結音が振り向くより早く、龍希が机の上の名刺を、クリアケースに入れて蓋を閉じた。音が途切れる。まるで、見られたことを嫌がったみたいに。
「……見つかった。手がかり」
結音が小さく言った。
龍希は頷き、名刺ケースの上から、赤いマフラーを一度だけ撫でた。毛糸は動かないのに、そこに“待っていた”感じが残る。
「照会、やり直します。まず、喫茶店。廃業してても、商店会に記録がある」
結音がすぐに身構えた。
「行く! いま行く!」
「……窓口の閉鎖確認、先」
瞭多が言うと、結音は「はい!」と手を挙げたが、足がもう動いていた。
結音は結局、跡地へ走った。
下町の商店街は正月飾りの準備で騒がしく、魚屋の前に氷が積まれ、八百屋の箱からみかんが転がっていた。結音は「すみませーん!」と言いながら避け、息を切らして角を曲がる。
そこにあったのは、シャッターが下りたままの小さな店舗だった。看板の文字は剥げ、ガラスに貼られた「貸店舗」の紙だけが新しい。
結音がガラスへ額を近づける。
「……ここ、だったのに」
返事はない。けれど胸の奥がきゅっと縮む。誰かが待って、待って、やっと諦めた場所みたいで。
遺失物センターでは、龍希が走らなかった。
電話機の前に座り、まず番号を調べた。舞也子が商店会の名簿を引っ張り出し、彩末が「年末のあいさつ」を一言添える文を考える。龍希は頷き、用件を短くまとめて受話器を取った。
「東都地下鉄の遺失物センターです。五年前の冬に拾得されたマフラーに関する照会で……喫茶店のことで伺いたいのですが」
相手の返事を聞き、龍希はメモを取り、要点だけを確認する。
「はい。店主のお名前、現在の連絡先。……ありがとうございます。面会の可否まで、わかりますか」
電話を切ったあと、龍希はメモを舞也子へ渡した。舞也子は目を見開き、それからすぐに台帳へ書き写す。
「老人ホーム……『なぎさ苑』。面会は予約制。家族以外も可。ただし、曜日と時間が決まってる」
「やった! 行ける!」
結音が戻ってきたのは、その直後だった。頬が冷えて赤い。息はまだ整っていないのに、目だけがまっすぐだ。
「跡地、あった。もう……何もなかった」
龍希は結音の肩へ、タオルをそっとかけた。走ってきた汗が冷える前に。結音はタオルの端を握り、ようやく息を吐いた。
「……行きましょう。年明けの休み。予約を取る」
龍希が言うと、結音は一度だけ頷き、赤いマフラーへ視線を戻した。
マフラーは、ケースの中で静かに丸まっている。けれど編み目の奥に、ほんの少しだけ灯りが残っている気がした。誰かに届くはずだった温度が、まだ消えていない。
棚の奥で、また金属音がした。
今度は、紙を切る音ではない。切ったあとに、刃を閉じる音。龍希はその方向を見ないまま、机の上の書類を一枚、まっすぐに揃えた。
結音も黙って、順番札の箱を正しい位置へ戻した。二人の指先が、箱の縁で一瞬だけ触れそうになり、触れずに離れる。
彩末が、名刺ケースに貼るラベルを手渡しながら、小さく笑った。
「結び目ってさ、ほどけそうな方が、結び直しやすいんだって」
結音が鼻で笑い、でも声は震えないように喉の奥で押さえた。
「……じゃあ、結び直す。絶対」
龍希は返事の代わりに、ラベルの位置を一ミリだけ整えた。まっすぐ。誰かが迷わないように。
赤いマフラーは、今日も返還棚の中で待つ。
待つ相手の顔が見えなくても、編み目の中の名刺が、行き先を指していた。
次の更新予定
マフラーの結び目は、未来へつながる 東都地下鉄・遺失物センター日誌 mynameis愛 @mynameisai
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