第10話 彩末の福笑い、笑って返す眼鏡

 十二月下旬、クリスマス前の朝、遺失物センターの返還窓口には、折り紙の星が一つだけ吊るされていた。結音が昨日の帰り際に、脚立も使わず背伸びで貼ったやつだ。端が少し曲がっている。


  「見て見て、星! ほら、ここ、照明に当たると……」

  言いながら結音は、受付のアクリル板に映る自分の顔で遊び始める。眉が大きく見える角度を探して、左右に揺れた。


  龍希は、笑わない。代わりに、来客用の椅子を一脚ずつ三センチほど内側へ寄せた。通路がまっすぐになって、車いすが通りやすい。床に貼った誘導テープの端も、靴の先で押し直す。

  やっていることは地味なのに、動きだけは迷いがない。


  そこへ、彩末が段ボール箱を抱えて現れた。箱の側面に、太いマジックで「ふくわらい」と書いてある。

  持ち方が雑で、テープがはがれてぷらぷらしていたのに、落ちる前に彩末の指がすっと挟んだ。


  「朝から眉が立ってる人がいるから、薬を処方しに来ましたー」

  彩末が箱を机に置いた瞬間、瞭多の眉が本当に立った。


  「窓口に私物を置くのは……」

  「私物じゃないよ。紙だよ。紙って、ほら、燃えるから危険物じゃない」

  「危険物の話ではありません」


  言い合いが始まる前に、龍希が箱の角を軽く押して、置き場所をずらした。返還窓口の中央ではなく、待合の端。床のコンセントから遠い位置。来客の導線を塞がない。

  彩末はそれを見て、口笛みたいに短く息を吐いた。


  「龍希くん、分かってる。ここなら、迷子の子が触っても、怪我しない」

  「……目に入る場所。だけど、邪魔にならない」


  結音が段ボールを覗き込む。

  「うわ、福笑い! 鼻、でかっ! 口、曲がってる!」

  「曲げたのは、私。曲がってる方が笑えるでしょ」

  彩末は笑いながら、箱から台紙とパーツを取り出した。輪郭だけの顔に、目と鼻と口と眉が分かれている。糊もテープもいらない。載せるだけだ。


  瞭多は口を閉じたまま、机の端に「窓口使用中」の札をそっと置き直す。角度が二度ほど変わった。規程が頭の中で並んでいる顔だ。

  龍希は気づいても何も言わず、札の横に、手指消毒のボトルを一本増やした。


  午前の返還が落ち着いたころ、保管棚の方から、舞也子が書類を抱えて来た。

  「眼鏡が一つ、照会が……空欄なんだけど」

  舞也子の指先が、用紙の連絡先欄を叩く。そこだけ、紙の繊維が毛羽立っていた。


  結音が身を乗り出す。

  「え、書き忘れ? 拾得者さんが?」

  「拾得者の記載はある。けど、落とした人の連絡先を聞いた記録がないのは不自然」

  瞭多が言い、舞也子の用紙を受け取って目を走らせる。欄外のスタンプは押されている。手順は踏んでいるのに、肝心のところだけ消えている。


  龍希が眼鏡ケースを開けた。黒い縁の眼鏡。レンズに、拭いても取れない曇りがうっすら残っている。

  その曇りの奥で、声がした。


  ――見ない方が、楽だよ。


  耳で聞くというより、まぶたの裏に落ちる感じだった。結音が反射で目をこする。

  「今……誰か、言った?」

  彩末が、笑いを引っ込めたまま頷いた。くる美は椅子にもたれ、ポケットから飴玉を出し、口に放り込む。噛まずに転がして、返事の代わりに舌で小さく鳴らした。


  瞭多が机を指で二回叩く。

  「保管物品に対する私語は控えてください」

  「私語じゃない。眼鏡が言ってる」

  結音が思わず言い返して、すぐに口を押さえる。瞭多の視線が刺さった。


  龍希は眼鏡をケースに戻し、蓋の留め具を確かめた。カチ、と鳴った瞬間、声が少し遠のく。

  「……照会、進めよう。拾得場所は?」

  「南改札の外。ベンチの下」

  舞也子が答える。


  結音が、勢いよく立ち上がった。

  「監視カメラ! 私、担当に聞いてくる!」

  「走らない」

  龍希の声は大きくないのに、結音の足が止まる。彼は机の引き出しから、照会用の手続き票を一枚出して、結音に渡した。

  「これ。必要事項、先に書いて。窓口に戻ってきたら、すぐ回せる」

  結音は紙を受け取り、ペンを握りしめたまま一度だけ深呼吸をした。それから、歩く速度でドアへ向かった。


  彩末が台紙の顔を机に置いて、ぽんと叩いた。

  「ね、これ、待ってる間にやろ。瞭多さん、眉をここに載せたら?」

  「業務中です」

  「業務中に待ち時間を減らすのも、業務だよ。ほら、笑って待ってもらう。クレーム減る」

  理屈っぽく言ったのに、彩末の声は軽い。瞭多が反論しようと息を吸ったところで、返還窓口のベルが鳴った。


  「すみません……眼鏡、届いてるって……」

  立っていたのは、スーツの上着を腕にかけた男性だった。髪が少し乱れている。目の周りを細めて、窓口の案内表示を読み取ろうとしているのに、焦点が合っていない。


  龍希が椅子を引いた。

  「どうぞ。お名前と、拾得物の特徴を」

  男性は、椅子に腰を下ろす前に、机の端を探るみたいに触った。指先が震えている。


  瞭多が書類を出し、舞也子が保管番号を確認する。その手際は揃っているのに、眼鏡ケースの前で、声がまた近づいた。


  ――見たら、戻れなくなる。戻ったら、笑えなくなる。


  男性が、無意識に目を伏せた。眼鏡のない顔が、疲れているのに、どこかほっとしたみたいでもある。


  彩末が、机の端に福笑いの台紙をそっと滑らせた。

  「眼鏡が戻るまで、これ、やって待ちません? 目、閉じててもできる」

  男性が戸惑いながらも、指先で紙の輪郭を確かめる。


  「……子どもが、小さいころ、やりました」

  その一言が、少しだけ柔らかい。


  彩末は、目と鼻と口のパーツを手渡した。

  「じゃあ、今の自分の顔、作ってみて。怒ってるやつでも、泣いてるやつでも」

  男性は、目を閉じたまま、パーツを台紙に置いていく。口が頬に寄り、鼻が額に乗った。眉は左右逆で、目は片方が横向きだ。


  結音が戻ってきた。紙を抱えて、頬が赤い。

  「映像、見られた! 昨日の夜、ベンチで眼鏡ケース開けて……そのまま置いていった人がいた。顔、はっきり。これ、照会いける!」

  言い終えた瞬間、男性の福笑いが完成して、周囲の空気が一気に崩れた。


  「……これ、俺?」

  男性が目を開けた。台紙の顔と、自分の顔を見比べる。次の瞬間、喉の奥が鳴って、笑いがこぼれた。

  笑いながら、目尻が濡れた。


  龍希は、その涙を見て、書類の角を整え直した。見ないふりじゃない。場を壊さないための動きだ。

  「確認します。昨日、南改札外のベンチ。眼鏡は黒縁。ケースの内側に、白い糸くずが一本」

  男性の目が、ぱちりと上がる。

  「……あります。娘のマフラーの。昨日、喧嘩して……」

  言葉が、途中で詰まった。


  彩末が、台紙の口のパーツを指でちょんと叩く。

  「この口、ここに置いたの、わざと?」

  男性が首を振り、また笑う。

  「わざとじゃない。……でも、こういう顔、家族に見せたことなかった」


  瞭多が、静かに頷いた。

  「本人確認が取れました。保管物品を返還します」

  規程の言葉なのに、声は硬くない。舞也子が手続きを進め、龍希が眼鏡ケースを開けて差し出す。


  男性が眼鏡をかけた瞬間、レンズの曇りがふっと薄くなった。まるで、息を吐いたみたいに。

  ――見えたら、痛いよ。

  声はまだ残っている。でも、さっきより小さい。


  男性がゆっくり瞬きをした。結音が、思わず一歩寄った。

  「……見え、ます?」

  男性は笑って、頷く。

  「見えます。……見たくなかったのは、家の中の顔でした。自分の顔も」


  その言葉に、彩末が一瞬だけ目を逸らした。笑っているのに、まつげが濡れかける。くる美が、机の下から飴玉を一つ転がすみたいに差し出す。彩末は受け取って、指先で包み紙をくしゃっと鳴らした。


  男性は福笑いの台紙を持ち上げ、龍希たちに見せた。

  「これ……持って帰っていいですか。今日、家で写真、撮り直します。変な顔で」

  結音が、胸の奥を押されて、笑いながら頷いた。

  「いいです! 絶対、いいです!」


  男性が立ち上がるとき、福笑いの鼻のパーツが床に落ちた。結音が拾おうとして屈み、同時に龍希も手を伸ばした。

  指が触れて、結音の体が前へ傾く。


  「うわっ」

  結音の額が、龍希の顎に当たる前に、龍希が手首でそっと受け止めた。距離が近い。息が重なる。

  結音が言おうとした瞬間、紙の鼻が、二人の間でふわっと跳ねて、結音の口に貼りついた。


  「ぷっ……!」

  結音が吹き出した。龍希の唇も、笑いをこらえる形に崩れた。危うく触れたはずの場所が、紙一枚で間抜けに塞がれている。


  彩末が、わざとらしく手を叩く。

  「はい、今の、最高。リハーサル終了。次、本番ね」

  結音が鼻を剥がしながら、真っ赤になって首を振る。

  「本番って何!? 何の!?」

  瞭多が咳払いをした。

  「私語は控えてください」

  「はいはい、瞭多さんの眉も控えめにね」

  彩末は笑って、場を戻した。


  男性が去ったあと、返還窓口の空気は少しだけ温かいままだった。龍希は、眼鏡の保管台から糸くずを一つ拾い、ゴミ箱へ捨てる。指先に、紙の繊維が引っかかった。照会用紙の連絡先欄の毛羽立ちと、同じ質感。


  棚の奥から、かすかな金属音がした。刃先が、誰にも見られずに擦れたみたいな音。

  龍希は音の方を見ないまま、ペンを握り直した。机の上の書類を一枚、まっすぐに揃える。


  彩末は福笑いのパーツを箱に戻しながら、誰にも聞こえないくらい小さく言った。

  「笑えるうちに、笑っておこうね」


  返還窓口の照明に、折り紙の星が揺れた。端の曲がりはそのままなのに、そこだけ、きれいに光った。


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