第9話 国寿の安全点検、折れた傘の先
十二月下旬の雨の朝は、傘が増える。遺失物センターの搬入口に、濡れたナイロンの匂いがまとわりつく。結音は台車の箱を抱え、床に落ちた雫で靴を滑らせかけた。
傘の先端は、濡れると余計に光って、ちいさな牙みたいだ。結音はビニール手袋の上から距離を測り、誰かが踏んだらどうなるかを一瞬で想像して、背筋に冷たい線が走った。
雨上がりの傘立てから、濡れた布の匂いが立ちのぼった。先の折れた傘は、乾くほどに曲がりが目立ち、持ち主の焦りだけが置き去りになったみたいだった。
「うわっ……あっ、セーフ!」
両腕で箱を抱え直した結音の前に、片手がすっと差し出された。龍希が無言で箱の端を支える。視線だけで「足元」と告げ、結音の靴先の水たまりへ顎を向けた。
結音は慌てて一歩よけ、口だけで「ありがと」と言った。
今日の搬入箱には、傘が多い。透明袋の中で、柄と骨が絡まり合っている。その端に、黒い折り畳み傘が見えた。先端が、やけに光っている。
「その傘、止めろ」
声が低く落ち、結音の背中が反射で伸びた。国寿がチェック台の前に立っていた。手袋は既に装着済み。袖口のマジックテープまできっちり締まっている。
国寿は袋を引き寄せ、傘の先端だけをライトにかざした。折れていた。金属がむき出しになり、針のように尖っている。
国寿は拾得票を手に取り、備考欄へ短く書き足した。「先端折損 尖端露出」。
袋の口に赤い注意札を結び、保管棚ではなく、金属製のケースへ移す。蓋が閉まる音が、雨の匂いの中で妙に乾いた。濡れた光が一点で跳ね、刃物の光り方に似て見えた。
「……これ、触ったら刺さる」
結音が言うと、国寿は頷いただけで、引き出しから赤い樹脂のキャップを出した。傘先に被せ、さらに幅広テープでぐるりと巻く。最後に「危険」シールを貼り、袋の外側に注意札を差し込んだ。
「結音。持ち主が来たら、最初に謝るな。まず確認だ」
「え、でも……」
「謝ると、こっちが折ったと決まる」
言い切ってから、国寿は小さく息を吸い直した。瞭多が横でメモを取り、淡々と補足する。
「破損品は、受付時の状態を記録。写真があれば最優先で添付。国寿さんの言い方は……実務的です」
国寿は瞭多を見ずに「当たり前」と返した。
背後で椅子が軋み、くる美が大きく欠伸した。
「傘ってさ、増えるよね。雨の日は眠いし」
瞭多が眉を上げたが、くる美は気にせずカップの白湯をすすった。舞也子は棚札を貼り替えながら、視線だけを国寿の手元に送り、テープの巻き終わりが剥がれない角度になっているか確認している。
そのとき、袋の中の傘が、かすかに震えた。
結音は耳を澄ませた。骨が鳴った? 水が落ちた?
――さして。
そう聞こえた気がした。
「え、いま……『刺して』って言った?」
結音が口にすると、国寿の手が止まった。惟月が、少し離れた机から視線だけを上げる。誰とも目を合わせずに、淡々と紙をめくったまま言った。
「……『差して』じゃない。傘だから」
結音は「なるほど!」と頷きかけ、すぐに首を振った。
「でもさ、今の尖り方、差すっていうか刺すっていうか……」
国寿が短く「言葉遊びするな」と切り捨てた。
午前十時を回ったころ、返還窓口に男性が来た。コートの肩が濡れている。受付票を握りしめた手は力が入って白い。
「黒い折り畳み傘。返してくれ。子どもを迎えに行かなきゃいけない」
結音が棚へ走り出しかけ、国寿が肘で止めた。
「担当は龍希。お前は横で見て覚えろ」
龍希は窓口に立ち、男性の票を受け取った。言葉は少ない。視線と手順で場を整える。番号を読み、棚札を見て、保管位置を確認する。
国寿は拾得票の控えの番号と傘の特徴を復唱させ、身分証の氏名を手元の記録と合わせた。瞭多が横で頷き、結音はようやく肩の力を抜いた。
傘を持ってきた国寿は、袋の外側の「危険」シールを男性に見せた。
「先端が折れている。触らないでくれ」
男性の顔が一瞬で険しくなった。
「折れてる? 俺の傘は折れてない。……ここで折っただろ!」
声が大きくなり、窓口のガラスが軽く震える。結音は反射で「すみません!」と言いそうになり、口を両手で押さえた。
龍希は相手の視線を受け止め、首を少しだけ傾けた。
「受付時の状態を確認します。少々お待ちください」
それだけ言って、背を向けない。逃げずに、動作を続ける。
瞭多が記録フォルダを開き、受付票の番号から搬入記録を引き出した。舞也子が端末で写真データを探す。惟月は黙って傘の袋を横から覗き込み、留め具の内側を見た。
「ここ……タグ」
惟月が指さしたのは、傘のバンド裏に縫い付けられた小さな白い札だった。細い文字で、購入店名と「先端破損は交換可」と印字されている。さらに下に、受付担当者の筆跡で「破損あり」と書かれていた。
舞也子が端末を回す。
「写真、ありました。拾得時点で先端が折れてます」
画面には、駅員が撮影した傘の先端が写っていた。金属が尖り、濡れて光っている。いま国寿が貼ったキャップはない。つまり、折れていたのは最初からだ。
龍希は画面を男性に向けた。指で示すだけで、余計な言い訳をしない。
男性の眉間がゆっくりほどける。けれど唇はまだ固い。
「……じゃあ、俺が昨日……」
言いかけて、男性は目を逸らした。恥ずかしさと苛立ちが、肩に残っている。
結音が一歩前へ出た。口を開きかけ、国寿の視線を受けて、言葉を飲み込む。代わりに、窓口の下に置いていた柔らかいタオルをそっと差し出した。濡れた手を拭けるように。
男性は一瞬だけ戸惑い、受け取って手の甲を擦った。
国寿が続ける。
「この札がある。交換対象だ。店の窓口に持っていけば、新しい先端に替えてくれる。必要なら、こちらで証明書も出す」
「証明書……?」
瞭多がすかさず紙を用意した。
「破損状態の確認書です。受付番号、拾得日、写真の有無、担当者名。持ち主さんが不利にならないよう、必要項目だけ記載します」
規程どおりの言い方なのに、最後の一文が柔らかい。国寿が一瞬だけ瞭多を見た。
龍希は、袋の外側からテープの端を押さえ直した。剥がれそうな角を、指で潰す。動作が静かで、落ち着いて見えた。
男性が息を吐く。
「……悪かった。怒鳴るつもりじゃなかったんだ。昨日、駅の階段で、これ落としたろ。拾いに戻ったら無くてさ」
言葉が続く。
「先端が尖ってるの、気づいてた。子どもが目の高さで走るから、刺さったら……って、ずっと頭にあって。なのに、朝は時間がなくて、ついそのまま持って出た。で、なくして……誰かに刺さったらって思ったら、手が震えて」
結音は喉の奥がきゅっとした。さっき聞こえた「さして」が、別の意味に変わっていく。
国寿が、少しだけ声を低くした。
「刺さっていない。ここで止めた。だから、息をしていい」
男性は目を丸くし、それから、苦笑いした。
「……刺さなくてよかった。いや、差さなくてよかった、か」
自分で言って自分で笑う。結音がつられて「どっちでもいいけど、よかった!」と息を漏らし、くる美が欠伸の途中で「うん」とだけ頷いた。
瞭多が確認書を差し出し、舞也子が交換窓口の地図を添えた。惟月は何も言わず、傘先のキャップが外れないよう、さらに透明テープを一周巻いた。誰にも頼まれなくても手が動く。
男性は一人ずつに頭を下げ、袋を抱えたまま出口へ向かった。
扉が閉まった瞬間、国寿の肩がほんの少し落ちた。いつもなら背筋が固いままなのに、今日は短く、長い息を吐く。
結音が小声で言った。
「国寿さん、今、息した」
国寿は結音を睨み、しかし怒鳴らない。代わりに、引き出しの中のキャップを指で数え、補充欄に丸を付けた。
「危ない物は、放っておけない。それだけだ」
その言葉の終わりに、また、カチ、と小さな硬い音が混じった。
秒針ではない。切る音に似ている。
棚の奥で、傘のバンドの縫い糸が、一本だけふっとほどけ、床に落ちた。結音は気づき、龍希の袖を掴んだ。
龍希は視線を上げ、棚の影を見つめる。何も言わないのに、目だけが「また来た」と告げていた。
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