第8話 舞也子の棚割り、忘年会帰りの山

 十二月中旬のその日。朝の七時台なのに、遺失物センターの受領台は山になっていた。透明袋、紙袋、駅係員が封をした封筒。中身の種類がばらばらで、貼られた拾得メモには「終電後」「改札口付近」「駅ナカ飲食店」と同じ言葉が並ぶ。


  「今日、来る。絶対、来る。忘年会帰りの人たち、あとで一気に来る」

  結音が手袋のまま腕をぶんと振って言い、台車に袋を積もうとして、自分のマフラーの端を車輪に巻き込んだ。

  「ほどけ。巻き込むな」

  瞭多が低い声で言い、結音のマフラーを指一本で外した。結音が「はい……」と背筋を伸ばす。


  舞也子は返還窓口の横で、棚の前に立っていた。棚板の縁に貼った小さな色テープが、今日だけ増えている。衣類、貴重品、書類、雑貨。いつもより細かい。

  舞也子は紙一枚をラミネートした表を、棚の柱に磁石で留めた。上段に「混雑時の優先」、下段に「本人確認の手順」。矢印が多いのに、目が迷わないように太字の線が引かれている。


  「まず、傘はここ。尖ってる先は、別箱。衣類は乾かす。湿ってるものは袋の口を開ける。携帯は充電しない。電源は入れない。……結音さん、走るのは、表を見てから」

  「え、私のこと見てた?」

  「見てました。床、滑るので」

  舞也子は言い切って、床に敷いた滑り止めマットの端を足で押さえた。結音が「うわ、私より速い指示」と笑い、少しだけ台車の速度を落とす。


  惟月は入口横の端末の前で、照会番号の入力を黙々と進めていた。キーボードの音だけが規則正しく、周りの雑音から離れている。くる美はその隣で、椅子に深く座り、袋の角を指でつまんで重さを確かめている。

  「中、なに」

  結音が覗くと、くる美は袋を振らずに言った。

  「硬い。割れ物じゃない。……たぶん、時計とか」

  「当たり?」

  「当たっても、うれしくない」


  九時。返還窓口が開くと、予想通り、人の波が来た。スーツの上着、名刺入れ、ピアス片方、ネクタイ。袋の中からふわりと酒の匂いが立つ。

  「すいませーん。俺の時計、ある? 銀の。えっと、丸い。これこれ」

  中年の男性がカウンターにもたれ、手首をくるくる回して見せた。顔が赤い。胸元のネクタイがゆるい。

  舞也子がすぐに立ち上がり、笑顔を作った。

  「銀色の腕時計ですね。拾得場所は、どちらでしたか」

  「改札のとこ。たぶん。いや、ホーム……どっちだっけ。昨日、飲んで」

  「分かりました。こちらでお探ししますね」


  舞也子は棚へ向かい、色テープの「貴重品」の段を一つずつ指で追った。番号札を外し、透明袋の中の時計を確認する。銀色。丸い。ベルトに小傷。確かに似ている。

  袋を持って戻ると、男性はほっとした顔で手を伸ばした。

  「それそれ。助かった」

  舞也子は受領票と照会結果を机に広げた。だが、本人確認欄の空白にペン先が止まる。身分証の提示。連絡先の照合。特徴の一致。――手順は、棚の柱に貼った表の二段目に書いてある。


  「お名前と、ご住所を――」

  舞也子が言いかけたところで、男性が財布を開け、カードの束をばさっと落とした。

  「ほら、これ。なんかあるでしょ。……早く、返して」

  カードが床に散り、結音が反射で拾おうとして止まる。瞭多の靴が一歩だけ前に出たからだ。


  「止めろ」

  瞭多の声が、窓口の空気を一段冷やした。

  「本人確認ができていない。あなたの時計だと証明できない。拾得場所も曖昧だ。今ここで返還はできない」

  男性の顔から笑いが消える。

  「は? 俺のだって言ってんだろ」

  「言うだけなら誰でも言える」

  「おい、こっちは困ってんだよ!」


  カウンターの前の列が、ぴたりと静かになった。結音が唇を噛み、舞也子の手が袋を握ったまま固まる。くる美が椅子の背から体を起こし、惟月の手が一瞬だけ止まった。


  そのとき、透明袋の中の時計が、かすかに鳴った。カチ、と硬い音。秒針の音とは違う、焦った小さな合図みたいな音。

  結音の耳に、ひそひそと声が届く。


  ――ちがう。ちがう。ここ、ちがう。


  結音は「えっ」と言いかけ、すぐ咳払いでごまかした。視線だけを龍希へ飛ばす。龍希は受領台の端で、返還記録の束を揃えていた。目が合うと、龍希は一度だけ頷いた。


  龍希はカウンターへ出て、舞也子の手元の書類を受け取った。ペンも、袋も、いったん机の中央へ置かせるように、指先で場所を示す。

  「すみません。こちらで、手順を最初からやります」

  声は大きくない。けれど、言い方に迷いがないので、周りの耳が自然に向いた。


  「お客様。お名前、フルネームで。生年月日。身分証が出せるなら一枚。出せないなら、時計の特徴を三つ。拾得場所は思い出せる範囲で。昨日の移動経路も」

  「そんなの、いちいち……」

  「焦ると、返せません」

  龍希は受領票の欄を指でトントンと叩き、空白を埋める順番を示した。結音がすっと横に立ち、床のカードを拾い集めて、まとめて返した。舞也子は何も言わず、棚の柱の表を見つめている。


  男性は舌打ちしながらも、免許証を出した。龍希は番号と住所を確認し、照会端末の結果と照らし合わせる。拾得票には、拾得場所が「改札内 上りホーム ベンチ付近」と書かれている。男性の言った「改札のとこ」とも「ホーム」とも半分は一致するが、決め手にならない。


  「時計、裏の刻印、読めますか」

  龍希が袋越しに時計の裏を見せる。小さな文字が彫られている。男性は眉間を寄せ、首を傾げた。

  「そんなの、知らねぇ」

  結音が目を丸くする。舞也子の肩が少し沈む。


  ――ちがう。ちがう。


  時計の声が、今度ははっきり結音の耳をつついた。結音は叫びたいのを飲み込み、舞也子の表へ視線を落とす。そこに、太字で書かれていた。


  「似ている場合:照会情報を追加で取得」


  結音は息を吸い、走る代わりに指を上げた。

  「龍希さん、照会の追加! これ、修理票とか、箱とか、保証書とか、あったら一発だよ!」

  瞭多が眉をひそめたが、龍希は否定しなかった。

  「舞也子さん。保管袋の備考、見てください。付属品の有無」

  舞也子は「はい」とだけ言い、棚へ戻る。走らない。表を見てから動く、まっすぐな歩幅。透明袋の番号を確認し、同じ番号の紙袋を探し出す。中から出てきたのは、時計の箱。さらに、細い紙が一枚。時計店の修理受付票。そこには、持ち主の名字が印字されていた。


  舞也子は戻ってきて、紙を龍希へ差し出した。龍希はそれを読み、男性の免許証の名字と見比べる。違う。

  「申し訳ありません。別の方の時計です」

  「はぁ? じゃあ、俺のはどこだよ!」

  男性の声が荒くなる。瞭多が再び一歩前に出かけ、龍希が手のひらを軽く上げて止めた。


  「探します。今日受領した分と、昨日分も照会します。いま返せないのは、返す相手を間違えたくないからです」

  龍希は受領台の端にあった番号札の束を取り、男性の前に一枚だけ置いた。

  「これ、控えです。電話番号も書いてあります。折らないでください」

  結音が横で「折ると怒られるやつ」と小声で言い、くる美に肘でつつかれて黙った。


  男性は番号札を見て、少しだけ肩の力を抜いた。

  「……分かった。……すまん、酔ってる」

  龍希は頷き、男性が去る背中へ短く会釈した。


  列が動き出し、窓口の空気が戻る。だが舞也子は、机の端でうつむいたままだった。ペン先が動かない。

  結音が舞也子の横へ行き、指で表の角をちょんと叩いた。

  「ね。これ、舞也子の表、すごいね。今日、これなかったら、私、転んでた」

  舞也子は顔を上げない。

  「でも、返しかけた」

  「返してない。瞭多さんが止めて、龍希が整えた。舞也子が箱、見つけた。……で、私、これから走るけど」

  結音は一歩後ろへ下がり、わざと大げさに敬礼した。

  「走る前に、舞也子の表を見る。約束!」


  舞也子が、ほんの少しだけ口元を動かした。笑うのを我慢しているみたいな形だった。瞭多がカウンターの端で、掲示用のチェックリストを新しく貼り直している。字は角ばっているが、項目の並びは舞也子の表に合わせてある。

  惟月は照会端末の前で、いつの間にか追加照会の入力を進めていた。くる美は袋の重さを確かめながら、ぽつりと言った。

  「返す相手、間違えたら、ずっと残るからね」

  それだけ言って、また椅子にもたれた。


  舞也子はペンを握り直し、返還記録の欄へ、丁寧に日付を書いた。外では、駅の構内放送が流れている。忘年会の季節は、まだ続く。けれど、ここは回る。表と手順と、少しの呼吸で。


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