第7話 くる美の仮眠、起きたら狐面
十二月最初のその日。昼の十二時四十分、遺失物センターの奥の仮眠室は、消毒用アルコールの匂いと、暖房の乾いた熱で、眠気だけが濃くなる部屋だった。
くる美は、折りたたみ式のベッドに横向きになり、制服の上着を顔にかぶせている。返還窓口の午前枠が終わった合図に、誰かが廊下を走った。結音の靴音だ。規則正しい歩幅のもう一人は、瞭多だろう。
「……うるさ」
そう言いながら、くる美は、もう少しだけ眠りの側へ落ちようとした。
そのとき、椅子の上で、何かがこすれる音がした。紙袋でも、段ボールでもない。硬い、乾いた音。
「退屈だ」
低い声が、面倒くさいほどはっきり、くる美の耳に入った。
くる美は上着をずらし、片目だけ開けた。仮眠室の椅子の背に、白い狐面がひっかけてある。赤い目の縁取り。鼻筋の朱。耳が、ちょっとだけ尖っている。祭りの屋台で売っていそうな、安っぽいのに、やけに目が合うやつだ。
「知らん」
くる美は、また上着をかぶせた。だが、狐面は、聞こえないふりを許さなかった。
「退屈だ。ここ、静かすぎる」
「静かなの、いいじゃん」
「退屈だ」
「しつこ」
くる美は、枕元のポーチを探った。指先に当たったのは、個包装の飴玉。昼の眠気対策に買っておいたやつだ。袋の音を立てないように、ゆっくり取り出し、狐面の裏側へ、ぽとり、と落とした。
「……甘い」
「でしょ」
自分でも意味が分からない会話をしている、と気づいた瞬間、くる美は起き上がった。ベッドの端に座り、狐面を両手で持つ。内側の紙のざらつきが、指の腹にひっかかった。
遺失物センターの仕事は、「拾得物」を「返せる形」に戻すことだ。拾われた場所の控えを確認し、消毒し、種類ごとに仕分けし、保管番号を振り、照会票の内容を端末へ入れる。返還窓口で本人確認をして、手渡す。毎日それを繰り返すだけ――のはずなのに。
狐面の内側から、別の匂いがした。甘いソース。焼けた粉。冬の夜の冷たい空気。人の肩が擦れ合う熱。ざわざわした声。
「……あんた、どこから来たの」
狐面は、少し間を置いて、吐き捨てるように言った。
「祭りだ」
くる美は鼻で笑った。
「十二月に?」
「祭りは、終わってても、心は残る」
くる美は、狐面を持ったまま、仮眠室を出た。廊下の蛍光灯がまぶしい。受付台の奥では、龍希が消毒液の補充をしている。結音は、箱を抱えたまま、何かを説明していた。舞也子は、棚の前で、手帳を開いている。
「くる美さん、今、仮眠――」
瞭多の声が、廊下の角から飛んできた。
くる美は返事をしないまま、狐面をひょいと掲げた。
「落とし物。しゃべる」
「しゃべる? また?」
結音が目を丸くし、龍希は手を止めた。
瞭多は眉間にしわを寄せたが、狐面のほうへは目を向けない。見ないふりをして、現実の手順に戻るのが、この職場の癖だ。
「拾得物なら、受領票を見ろ。勝手に置くな。消毒して登録しろ」
「はいはい」
狐面は、くる美の手の中で、小さく震えた。まるで、笑いをこらえているみたいに。
龍希が受領票の束をめくり、該当の紙を引き抜いた。
「東都線、下町口改札。昨夜二十一時十五分。拾得者は駅係員。形状は『狐面、白、赤の縁』。付属品なし」
「付属品、あるよ」
くる美は、狐面の内側を軽く傾けた。飴玉が、ころん、と鳴った。
「私物混入は禁止だ」
瞭多の声が即座に落ちてくる。
くる美は肩をすくめた。
「混入じゃない。退屈そうだったから」
「理由にならない」
「でも、しゃべるの、機嫌よくなる」
結音が、くる美の背中を指でつついた。
「ね、ね、くる美さん。今の、あやかし? どんな声?」
「退屈だって。あと、甘いって」
「可愛い!」
「可愛いのは、やめて。勘違いする」
狐面は、内側からぼそりと言った。
「勘違いなんて、してない」
龍希は、ふっと息を吐き、消毒用のトレーを差し出した。
「まず消毒。紙が弱いから、布で拭く。噴霧は少なめ」
「はいはい、まじめ」
くる美は、布にアルコールを含ませ、狐面の表を拭いた。赤い縁取りが少しだけ滲む。拭くたびに、狐面の声が小さくなる。だが、消えるわけじゃない。
「……泣きたかった」
狐面が、さっきよりも低い声で言った。
くる美の手が、止まった。
「誰が」
「中のやつ。泣いたら、置いてかれると思って、泣けなかった」
くる美は、布を置き、狐面の裏側を覗いた。飴玉が、内側のくぼみに落ちて、そこだけ丸く光っている。
「泣けないなら、顔を隠せばいいじゃん」
くる美が言うと、結音が「それ、名案!」と勝手にうなずいた。
瞭多は「規則の話をしている」と小声で言い、舞也子は手帳に何かを書き足した。誰も、狐面の本当の話には触れない。触れたら、今日の仕事が止まるから。
くる美は端末へ向かい、保管番号を入力した。分類は「衣類・装飾品」じゃない。「玩具・祭具」にするべきだ。棚の場所も考える。紙は湿気に弱い。ビニール袋で密封して、乾燥剤を入れて、ラベルを貼る。
「はい。保管番号、TK―D―0327」
龍希が読み上げると、結音が「メモ! 書いた!」と叫び、瞭多が「叫ぶな」と返した。
午後三時。返還窓口に、親子が来た。
父親は、コートのポケットから、照会票の控えを出した。母親は、子どもの肩をそっと押して前へ。子どもは、帽子のつばを握りしめている。目が、狐面の白を探して泳いでいた。
「昨夜、下町口で。帰りに……落として」
父親が言い、龍希が丁寧にうなずいた。
「身分証をお願いします。お名前と、ご住所。照会票と一致するか確認します」
手順は淡々と進む。氏名、生年月日、住所。拾得場所、時刻、特徴の確認。狐面の縁の赤い色、鼻筋の朱、耳の尖り具合。父親の言葉が一致し、龍希が保管棚へ取りに行った。
狐面を入れた透明袋を受け取ったのは、くる美だった。自分が拭いた布の感触が、指先にまだ残っている。袋の中の狐面は、静かだった。さっきまでの「退屈だ」は、どこにもない。
くる美は、窓口の小さな隙間から、袋を差し出した。
「これ」
子どもは、両手で袋を受け取った。袋が揺れ、狐面の表が光る。次の瞬間、子どもの肩が、ぶる、と震えた。
泣き声は、すぐには出なかった。喉の奥で、飲み込む音がする。歯を食いしばる。目だけが、赤くなっていく。
母親が慌てて言った。
「ほら、よかったね。泣かない、泣かない」
父親も、笑わせようとしたのか、わざと明るい声を作る。
「よし。帰ったら、また――」
くる美は、袋越しに見える狐面の内側に、さっき落とした飴玉を思い出した。退屈だ、と言っていた声の奥に、夜の人混みで小さく丸まった背中が見える気がした。
くる美は、窓口の内側から身を乗り出し、膝を折った。子どもの目線まで降りると、ちょうど、狐面の目の高さと同じになる。
「泣いていい」
くる美は、淡々と言った。面倒くさそうに見える声のまま、けれど、視線は逸らさない。
「顔、隠せるし」
子どもは、ぱちぱちと瞬きをした。涙が一粒、頬を伝って落ちる。次に、もう一粒。止めようとしていたのが、あっさり崩れて、肩が揺れた。
子どもは袋を開け、狐面を両手で取り出した。小さな手で、狐面を顔へ当てる。白い面の向こうで、泣き声がふわっと丸くなる。顔は見えないのに、泣いているのが分かる。不思議なくらい、安心した泣き方だった。
母親が息を呑み、父親が口を閉じた。二人とも、何か言いかけて、言えなくなっている。
狐面が、内側から小さく言った。
「……退屈じゃない」
くる美は、肩をすくめた。
「そりゃ、よかった」
瞭多が後ろから近づき、低い声で注意した。
「窓口の外へ身を乗り出すな」
「はいはい」
くる美は立ち上がり、さっと引っ込んだ。
父親が深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
母親も「助かりました」と続け、子どもは狐面を抱えたまま、こくん、と頭を下げた。
親子が去ったあと、結音が窓口の内側でくる美に肘を当てた。
「くる美さん、いまの、すっごくよかった! 泣いていいって言えるの、かっこよかった!」
「黙って。恥ずい」
「でも、飴入れたのは規則違反だよね?」
「そこは黙って」
「瞭多さんにバレてた?」
「たぶん、バレてる」
くる美は、返還記録の欄へ、淡々とチェックを入れた。返還完了。署名確認。日付。時間。いつも通りの作業。けれど、指先は少しだけ軽い。
仮眠室へ戻ると、ベッドの上着がまだ落ちていた。くる美はそれを拾い、肩にかける。
「退屈じゃない、か」
誰にも聞かせない声でつぶやき、くる美は袋の中身を確認する癖を、ほんの少しだけ真似してみた。
廊下の向こうで、結音がまた走っている。舞也子の声が「棚、ここ」と指示を出す。龍希が「消毒液、残り」と数える。瞭多が「叫ぶな」と怒る。
くる美は、口元だけで笑って、歩き出した。
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