第6話 惟月の夜勤、ひとりで開けるロッカー
十二月中旬の深夜二時。駅のシャッターが下り、昼間の人波が嘘みたいに消えたころ、遺失物センターの蛍光灯だけが、白く床を照らしていた。
惟月は受付台の端に置いた小さな砂時計を、指先でくるりと回す。三分砂だ。電話の折り返しに使うのが、彼の癖だった。砂が落ちる音なんてしないのに、落ちるはずの粒が胸の奥でカリカリ鳴る気がする。
「……今日も、静かだな」
独り言は誰に向けたわけでもない。返事をしてくれるのは、隣室の壁だけだ。少し前から、そこは息をしているみたいに、薄く熱を持つ。
壁の向こうから、かすれた声が来た。
「……返して……」
惟月は椅子に深く腰を沈め、壁へ向けて、声を落とす。
「返す。そのための場所だ。……番号さえ、合えば」
ペン立ての横に積んだ照会結果の束。その上に、今夜分の紙が一枚、ぽつんと乗っている。拾得番号は正しい。拾得日時、拾得場所、物品の特徴、すべて書式通り。なのに、照会結果の欄だけが空白のままだ。
惟月はその紙を指で叩く。紙が、ひどく軽い。まるで、何かを「書かせない」ために薄くなったみたいだ。
「空白が増えてる」
その夜から、こういう紙が少しずつ混じり始めた。照会を回しても、連絡先が引っかからない。警察への引き継ぎ対象でもない。手順は合っているのに、次へ進めない。返還の道だけが、途中で途切れている。
惟月は保管棚へ歩き、鍵束を鳴らさないように、一本だけ抜き取る。棚の扉を開けると、保管箱の列が規則正しく並び、番号札が吊られている。規則の行列。瞭多が見たら、きっと満足する整い方だ。
……その整い方が、気に入らない。
惟月は欠番ではない箱を一つ引き出し、番号札を確認した。照会結果が空白だった拾得番号の箱。中には、黒い手袋が片方だけ。皮革の匂いに、ほんの少しだけ、紙の焦げた匂いが混ざる。
「これも、切られてる」
惟月は手袋を箱へ戻し、扉を閉めた。閉める瞬間、奥でカサ、と紙が擦れる音がした気がした。
棚じゃない。
惟月は視線を上げ、室内を見回す。受付台、書類棚、金庫、監視モニター。夜間の点検表。……そして、壁際に並ぶロッカー。夜勤者用の、銀色のロッカーが六つ。鍵はそれぞれ違うが、古いものは癖がある。
ロッカーの上には、誰が置いたのか分からない紙袋がひとつ。くる美が昼間に置き忘れた菓子袋だろう。舞也子なら、きっとメモを残して片づける。結音なら……置き忘れたあとに、なぜか別の物を上に乗せて「見えなくした」まま走り去る。
惟月は紙袋を持ち上げ、鼻先で匂いを嗅いだ。甘い粉の匂いに紛れて、さっきの焦げた紙の匂いが、確かにある。
「ここか」
ロッカーの一つ、右端。名札が付いていない。夜勤専用、と結音が勝手に呼んでいたやつだ。鍵穴には、細い紙片が挟まっている。誰かがいたずらで突っ込んだのか、と思うには、きれいすぎた。折り目が、定規でつけたみたいに真っ直ぐだ。
惟月は手袋をはめる代わりに、袖を少し下げた。……自分の指先が、妙に切れやすいのを知っている。けれど、今夜は急いだほうがいい。壁が、いつもより浅く息をする。
「返して……返して……」
声が、壁からロッカーへ移ったように聞こえた。
惟月は鍵束を握りしめ、鍵穴へ差し込む。……回らない。癖だ。少し上へ持ち上げるように、鍵を押し込む。すると、カチ、と軽い音がして、回った。
扉が、ゆっくり開く。
中は暗い。制服の予備も、コートもない。あるのは、白い封筒が数枚と、切り屑みたいな紙片。そして――小さな銀色のはさみ。
はさみは、ロッカーの中で、ちょこちょこ動いた。刃先が開いたり閉じたりして、まるで口を動かしているみたいだ。
「……紙切り」
惟月は声に出した瞬間、背筋の奥に冷たいものが走った。昔、国寿が昼休みに語った話を思い出す。落とし物の縁を、こっそり切ってしまうやつがいる。番号と持ち主の糸を、紙の端っこみたいに。
「返すものを、切るな」
はさみが、カチン、と鳴った。返事みたいに。
惟月はロッカーの前にしゃがみ、封筒を一枚取ろうとした。封筒の角が、妙に濡れている。消毒液ではない。紙が湿って、指に吸い付く感じだ。
その瞬間――。
はさみが、跳ねた。
刃先が、惟月の指へ向かってきた。彼はとっさに手を引く。けれど、遅い。薄い痛みが、爪のきわから走り、温かいものが指先に乗った。
「……っ」
血が、赤く、ゆっくり滲む。
はさみは満足そうに、カチ、カチ、と小さく鳴らした。切り屑が宙へ舞う。舞った切り屑は、紙というより、細い糸の欠片みたいで、光を受けて一瞬だけ白く輝き、すぐ落ちた。
惟月は目を細めた。糸が落ちる先は、封筒でもロッカーでもない。照会結果が空白になった紙の束の上だった。
「……やっぱり、お前だ」
惟月は受付台へ駆け戻り、用紙を一枚抜いた。拾得番号が書かれた行を指でなぞる。指先の血が、数字の上に小さな点を作った。瞬間、紙の中で何かが、ふっと息を止めた気がした。
壁が、うめく。
「……返して……」
惟月は紙を握りつぶさないように、強く掴む。
「返す。その前に、縁を繋ぎ直す」
はさみをどうする。放っておけば、また切る。けれど、力づくで壊せば、切られた糸が余計に散るかもしれない。国寿の話では、刃物の形をしたものは、粗末に扱うと逆に荒れる。
惟月は、ロッカーへ戻る。はさみはまだカチカチ鳴らしていたが、惟月が近づくと、ピタリと止まった。刃先がこちらを向く。警戒している。……そこは、人と同じだ。
惟月はロッカーの奥、封筒の下に、細い糸の束が絡まっているのを見つけた。糸は透明で、見ようとしなければ見えない。拾得番号の札から伸びて、照会結果の空白へ吸い込まれている。
惟月は、息を吸って、吐いた。
「切りたいなら、俺を切れ。だが、返す糸は切るな」
はさみが、カチン、と鳴った。今度は怒った音だった。刃先が開き、惟月の指先の血に、ふっと近づく。
惟月は、そこで動かない。手を引けば、はさみはまた糸へ向かう。だから、目を逸らさずに、刃先の行き先を受け止める。
刃先が、血の点へ触れた。
……痛みは、増えない。
血が、紙の上で広がる代わりに、糸へ染み込んだ。透明な糸が、ほんのり赤くなり、一本だけ、拾得番号の札から照会結果の欄へ戻っていく。
空白だった欄に、薄い文字が浮かぶ。住所の一部。電話番号の末尾。まるで、夜の底から、引っ張り出されるみたいに。
惟月は息を吐き、笑うでもなく、ただ頷いた。
「……これで、返せる」
はさみは、カチ、カチ、と小さく鳴らし、ロッカーの奥へ引っ込んだ。逃げるというより、居場所へ戻っただけに見えた。惟月は迷った末、ロッカーを閉め、鍵をかけた。鍵穴に挟まっていた紙片だけを抜いて、ポケットへ入れる。
指先の血は、まだ止まらない。ハンカチで押さえても、じわじわ滲む。夜勤の時間は長い。ここで包帯を巻くのは、少し面倒だ。惟月はそう思い、そう思った自分に、少しだけ腹が立った。
――翌朝。
始発が動き始め、遺失物センターの外がうっすら明るくなるころ、惟月は自分のロッカーへ戻った。ポケットの中で、紙片が指に当たる。はさみを、ここへ移しておく。昼間の誰かが見つければ、騒ぎになる。結音が見つけたら、絶対に「かわいい!」と言って触る。瞭多が見つけたら、絶対に「報告書!」と言う。くる美は……寝る。
惟月は鍵を回し、扉を開ける。その瞬間、背後で紙が擦れる音がした。
振り向くと、龍希が立っていた。出勤の時間より少し早い。手には、点検用の布と、救急箱。
龍希は何も言わず、惟月の指先を見る。血が滲んだままの包帯代わりのハンカチ。惟月は反射で手を背中へ隠そうとしたが、龍希の目は逃がさなかった。
龍希は救急箱を、受付台の端に、そっと置いた。置き方が静かで、音がしない。まるで、そこに最初からあったみたいだ。
惟月は喉の奥が、きゅっと締まるのを感じた。言い訳を探すより早く、龍希が布で椅子の座面を拭き、次に救急箱のふたを開けた。消毒液の匂いが、少しだけ広がる。
惟月は、昨日の結音の赤い顔を思い出し、妙な気持ちになる。夜の間、切られた糸を繋いでいたはずなのに、今、自分の中の糸のほうが、ほどけそうだ。
「……ありがとう」
それだけ言って、惟月は救急箱から絆創膏を取った。龍希は頷き、何も聞かないまま、点検表を開く。
隣室の壁が、静かに息をした。
「……ただいま」
惟月はロッカーの扉を、そっと閉めた。はさみの気配は、今はおとなしい。返すべき糸が一本、戻ったからだろう。
惟月は絆創膏を貼り終えると、砂時計をもう一度回した。三分砂が落ち始める。今度は、胸の奥のカリカリが少しだけ薄い。
朝の光が、受付台の端に差し込み、救急箱の白いふたを、やわらかく照らした。
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