第5話 ファーストキス失敗、消毒液の味
十二月中旬のその日、朝九時ちょうど。遺失物センターの扉が開いた瞬間、外の冷えた空気と一緒に、人の気配が雪崩れ込んだ。
「えっ、ちょ、もう並んでる!?」
結音がガラス戸の向こうを見て声をひっくり返す。窓口の前には、傘を三本抱えた男性、幼児用の手袋を握りしめた母親、スーツの胸ポケットを叩き続ける若い会社員――列が、きれいに曲がりながら伸びていた。
背表紙の色を見比べていると、色の差じゃなく、自分の目の疲れが見えてくる。結音は眉間を指で押し、笑いながら「受付終了までに目の焦点も返還したい」と呟いた。隣でくる美が「それ返ってくるの?」と返し、二人の間だけ空気が軽くなる。
受領台の横、順番札の箱は満タンだ。結音は箱を抱えて窓口へ走り、貼り紙を一枚追加する。
「番号札、取ってくださーい。……あっ、すみませーい! 取ってから、こっちに来てくださーい!」
言い終える前に、結音の肘が箱の角へ当たった。
カラカラカラ――。
薄い紙の札が床へこぼれ、まるで落ち葉みたいに散った。
「うそ! うそ、うそ、うそ!」
結音はしゃがみ込み、札を拾い集める。札の裏が床に張りついて、なかなか剥がれない。消毒したての床は、妙にすべる。
「番号、飛んだぞ」
瞭多が窓口の端から低い声を落とす。眉が上がったまま戻らない。
「飛んでない! まだ、地面にいる!」
結音が言い返し、札を指でぺりぺり剥がす。ぺり、ぺり。紙が泣くみたいな音がする。
龍希は何も言わず、窓口の前へ小さな立て札を置いた。
『順番札を取ったら、椅子でお待ちください。番号でお呼びします』
手書きの文字は、角が揃っている。立て札を置いたあと、龍希は落ちた札を拾う結音の手元へ、乾いた布巾を差し出した。
「これで、裏を拭くと、張りつきにくい」
結音は布巾を受け取り、勢いよく拭き始めた。紙の札がすべるように指に乗る。龍希は拾った札を十枚ずつ揃え、箱の中へ戻していく。数え間違いをしないように、指先だけで角を揃える。
その間にも列は増える。
「財布、昨日の夜です! 黒!」
「これ、子どもの帽子なんですけど、うちのは星のワッペンが――」
「あの、定期券入れだけでも……」
声が重なり、息が詰まる。結音は椅子の列を指さしながら、番号札の箱を持ち直す。
「番号札、すみません、拾ってます! 拾い終わったら呼びますから、まず座って――」
椅子の端では、くる美がすでに座っていた。スタッフ用の椅子に背中を預け、いつの間にか膝に抱えたクリップボードを枕にしている。まぶたが下り、口が少しだけ開いている。
「……くる美さん、電話……」
結音が小声で呼ぶが、返事はない。受話器のランプが点滅し続ける。
瞭多が椅子へ近づき、クリップボードの角を指でコツンと叩いた。
「起きろ。勤務中だ」
くる美のまぶたが一瞬だけ持ち上がり、視線が泳ぐ。
「……いま、夢で、全部返してた」
「夢でやるな。現実でやれ」
瞭多の声が少しだけ大きくなり、列の先頭が振り向いた。
龍希は窓口の内側から、消毒液のポンプを一回押した。シュッ、と霧が出る。手のひらを擦り合わせる音が、ざわめきの中でやけに目立った。
それから、列へ向かって頭を下げた。
「お待たせして、すみません。順番札を取り直します。先に、照会票だけお渡しします」
照会票の束をすっと差し出すと、先頭の男性が反射的に受け取った。紙が動くと、人も動く。列の呼吸が一拍だけ揃う。
結音は拾い終えた札を箱へ戻し、汗を袖でぬぐった。袖口が少し湿って、消毒液の匂いが濃くなる。
「ごめん……ごめんね、今、ちゃんと……!」
結音が窓口へ戻ると、龍希はすでに次の番号を読み上げていた。
「二十二番。傘、一本。青のライン」
声は大きくないのに、なぜか通る。番号札の紙が、龍希の指の間で静かに揃っていく。
昼過ぎ、列がようやく短くなったころ。結音は受領台の奥で、床に落ちたクリップを拾った。その瞬間、すぐ横のポンプから、ちいさな気配が跳ねた。
――きれいにして。きれいにして。
結音の耳だけに届く、泡の弾けるような声。思わずポンプを見ると、透明な液の中に、豆粒みたいな光がぷかぷか浮いている。
「……あ、あんた、ここに住んでるの?」
結音が囁くと、光がぷるん、と揺れた。次の瞬間、結音の指が勝手にポンプを押していた。
シュッ。
「うわっ、また!?」
慌てて両手を擦る。匂いが指に張りついて離れない。光は満足そうに、もう一度だけぷるんと揺れた。
閉館は午後六時。シャッターを下ろし、最後の照会票を箱に収めたところで、結音は椅子へ倒れ込んだ。
「今日、なんか、私、札ばっか落としてた……」
くる美は椅子に座ったまま、いつの間にかペットボトルのお茶を持っている。キャップを開ける手つきだけは早い。
「落としたら拾えばいいじゃん。床、あるし」
「床があるのは助かるけど!」
結音が反射で突っ込み、瞭多が腕時計を見る。
「反省会は、短く。明日も開ける」
言い切ってから、瞭多はコートを着てさっさと帰っていった。背中は真っ直ぐで、振り向かない。
残ったのは、結音と龍希とくる美。くる美は「寝る」と言い残し、休憩室へ消えた。
結音は自販機の前へ歩き、ボタンを迷いなく押した。缶が落ちる音がして、湯気の気配が手のひらに広がる。
「龍希、あったかいの、飲む?」
龍希は財布を出しかけて、結音の手の缶を見た。結音はもう一本、勝手に買ってしまっている。
「……ありがとう」
龍希が受け取った缶の温かさに、指先がほどける。
自販機の蛍光灯は少しチカチカして、駅の裏手の暗さを薄く照らす。遠くで終電案内のベルが鳴った。
結音は缶を抱え、ふっと笑った。
「今日さ。助かった。ほんと。……私、すぐ、わーってなるじゃん」
言いながら、結音は自分の手を見下ろした。指先が、まだツヤツヤしている。昼に勝手に押されたポンプのせいだ。匂いも、まだ残っている。
それでも、結音は顔を上げ、龍希へ一歩近づいた。
「だから……お礼」
結音は背伸びして、龍希の顔へ近づく。龍希も、たぶん同じ距離だけ近づいた。缶の温かさが手のひらから胸へ上がってくる。
「……結音」
名前を呼ばれた瞬間、結音の目が一回だけ瞬いた。
――きれいにして。
どこかで、泡の声がした気がした。
結音の指先が龍希の袖に触れた。消毒液の匂いが、ふっと広がる。
「……っ」
龍希の喉が鳴り、鼻がむずっと動いた。
次の瞬間だった。
「……へ、へくしゅんっ!」
盛大なくしゃみが夜気に響き、結音の缶が手から滑った。カン、と乾いた音がして、温い飲み物が少しだけ床へ飛ぶ。
「うわぁぁぁぁ!」
結音は真っ赤になって後ずさり、両手で口元を覆ったまま、逃げるように扉の向こうへ消えた。足音だけが廊下に残る。
龍希は片手で鼻を押さえ、もう片手で缶を拾った。床に落ちた飲み物のしずくが、消毒した床の上で丸く光っている。
龍希は黙って雑巾を取りに戻り、床を拭いた。拭いた跡を、もう一度、乾いた布でなぞる。匂いが薄くなっていく。
そのとき、保管棚の上で、赤いマフラーがふわりと落ちた。空調の風に押されたのか、結び目がほどけかけている。
龍希は拭く手を止め、マフラーを拾い上げた。手のひらに、柔らかな繊維と、誰かの体温の名残が残る。
そして、棚の棒へ掛け直し、結び目をゆっくり締めた。
扉の向こうから、結音の息を呑む音が聞こえた気がした。けれど、龍希は何も言わなかった。
ただ、赤いマフラーが落ちないように指で確かめ、最後にもう一度だけ、床の水滴を拭いた。
自販機の光は相変わらずチカチカしている。消毒液の匂いだけが、少しだけ、夜に残った。
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