第4話 金は天下の回りもの、落ちていた封筒
十二月初旬の朝八時二十分。遺失物センターの受領台へ、駅ナカの警備員が茶色い封筒を抱えて入ってきた。外はまだ乾いた寒さで、扉が開くたびに改札側の喧騒が一瞬だけ流れ込む。消毒液の匂いと、紙袋の擦れる音が混ざって、その日らしい落ち着かなさになる。
小銭の入った封筒は、紙なのに妙に重い。龍希は指先で角を揃えながら、落とし主の祖母の病室の白さを想像してしまい、喉の奥が少しだけ乾いた。
封筒の角は少し潰れ、表に油性ペンで「病院へ」とだけ書かれている。拾得票には「ATM付近 床 8:05」。結音は椅子を引くより先に封筒へ手を伸ばし、耳を寄せた。紙から、かすかな擦れる音がした。
「……聞こえた」
「何が?」
隣で伝票を揃えていた瞭多が、顔も上げずに釘を刺す。
「封筒は開ける前に撮影。現金物は、二人確認。勝手にやるな」
結音は「は、はい」と返事だけは良い。けれど視線は封筒に吸い付いたままだ。封の糊のあたりが、呼吸でもしているみたいに、ぴく、と震えた。
龍希は受領台の端に透明トレーを置き、封筒をその上へ滑らせた。スマホで表裏を撮り、拾得票の番号を画面に映してから、カッターと定規を並べる。作業の順番が机に出るだけで、空気が少し整う。
結音はその横で、ゴム手袋を片手に「どっちの手からはめるんだっけ」と小さく迷い、結局両手で同時に引っ張って、指先が変な方向を向いてしまった。瞭多がため息をつくが、龍希は何も言わず、予備の手袋を一組、トレーの横へ置いた。
国寿が奥の金庫室から戻ってきた。腕まくりをしたままの白い手袋が、きっちり手首まで揃っている。
「現金?」
「たぶん。……外側に、メモ」
結音が指で「病院へ」をなぞると、封筒の中から細い声が漏れた。
――急げ、急げ、急げ。
結音の耳の奥だけをくすぐる声だった。紙が擦れる音に混じって、誰かが小走りしているみたいに、せわしない。
「今、すぐ、返しに行かなきゃ」
結音は立ち上がり、すでに出口の方へ身体を向けていた。
「戻れ」
瞭多の一言は短い。怒鳴らないのに、足が止まる。
「現金は、警察連携が先だ。持ち出したら、拾得物じゃなくなる」
結音は唇を噛んだ。頭の中では、病院の白い廊下と、会計窓口の「本日締切」の札が勝手に立っている。
国寿が封筒をトレーごと抱えた。
「中身、数える。二人目、誰だ」
龍希が静かに横へつき、結音にも顎で合図した。結音は慌てて手袋をはめ、三人で金庫室へ入る。扉の鍵がかかる音が、やけに重い。
封筒の口を開けると、札束が二つ、輪ゴムで留められていた。白いメモ用紙が一枚、折り畳まれている。国寿は計数機へ札を通し、ピッ、ピッ、と機械音を響かせた。結音はそのたびに肩をすくめる。急げと言われているのに、数える音が妙に落ち着いて聞こえて腹が立つ。
「病院へ。会計。至急」
結音が声に出した瞬間、糊のあやかしが封筒の縁から顔を出した。糊が小さく固まったような、半透明の豆粒。声だけが大きい。
――急げ! 遅れるな! 閉まるぞ!
結音は「うるさい!」と反射で返し、すぐ口を押さえた。国寿が眉をひそめる。
「……独り言?」
「ち、違う。たぶん、紙の、あの……」
説明が詰まる。結音の肩が上がって、息が浅くなる。
龍希は、計数結果を記録する国寿の横で、メモの裏をひっくり返した。走り書きの角に、病院名の頭文字みたいなものが見える。アルファベットが一つ、丸で囲まれていた。龍希はそれを指で押さえ、写真を撮り、封筒へそっと戻した。
金庫室を出ると、龍希はすぐ端末席へ向かった。結音が追いかける。
「龍希くん、走らないの?」
龍希は椅子を引き、座ったまま電話帳の検索画面を開いた。指が止まらない。
「走るのは、持ち主」
そう言って、病院の候補を二つ三つ絞り、代表番号をメモ帳へ貼り付けた。次に、会計窓口の受付時間を調べ、駅からの最短ルートを印刷設定に回す。結音の頭の中の白い廊下が、少しだけ輪郭を持った。
龍希は代表番号へ電話をかけ、受話器を肩で挟みながら、紙に短い文を並べていく。結音は横で「私も話す!」と手を伸ばしたが、龍希は受話器の口元を指で塞ぎ、首を横に振った。結音は不服そうに頬をふくらませ、代わりにメモ用紙を一枚ずつ綺麗に切って並べ始めた。怒られないための方向へ、手が動く。
瞭多が横から書類を差し込んできた。
「警察への連絡票。ここ、拾得場所を詳しく。ATM番号も」
結音は「はいっ」と返事し、警備員に頭を下げて聞きに行く。ついでに監視カメラ室へも寄り、受付の人に「今、混んでますか」と声を掛け、順番札を受け取ってから戻った。走る代わりに、段取りを増やす。
戻ると、龍希の机に小さな紙が増えていた。病院の会計窓口の直通番号、受付担当者の名前、そして「本人確認の手順の要点」。いつの間に。
結音が紙を指で弾くと、龍希はプリンタから出た地図を重ね、端を揃えてトレーに入れた。見せ方まで整っている。
午前十時過ぎ、返還窓口に若い男性が駆け込んできた。帽子が半分ずれていて、息が切れている。
「封筒……茶色い封筒、届いてませんか。祖母の入院費で……」
言葉の途中で喉が詰まり、目が泳ぐ。結音は思わず椅子を引いた。座れ、と言う前に、龍希がコップの水を置いていた。水面が揺れ、男性の指先も同じように揺れている。
国寿が保管番号を読み上げ、瞭多が免許証と照合する。男性の手は震えていた。財布から出した診察券の角が、くしゃりと折れている。
「病院が、今日の午前中までに会計をって。遅れたら手術が……」
結音は背中をさすりかけて、途中でやめ、呼吸を合わせるように自分もゆっくり息を吐いた。泣きそうな人の前で、走る代わりに、落ち着く。
龍希が一枚の紙を差し出した。
「ここ。会計窓口。担当の人の名前。これ、言えば通ります」
男性が紙を受け取るとき、指が一瞬止まった。紙の上には、電話で確認した受付時間と、事情を簡潔に伝える文が箇条書きで並んでいる。結音は「こんなの、いつ書いたの」と目で訴える。龍希は答えず、次の書類に印を押した。
返還手続きが終わり、封筒が男性の手に戻った瞬間、糊のあやかしはぷる、と一度震えた。
――間に合え。間に合え。……間に合ったら、静かにしてやる。
結音だけに聞こえる声は、さっきより小さい。結音は封筒の角へ小声で言った。
「うん。静かにして。……頼むから」
男性が駆け出す背中を見送り、扉が閉まったところで、皆の肩が同時に落ちた。国寿が金庫室の鍵を握り直し、指の力を抜く。
「……現金物、寿命が縮む」
「縮ませるな。手順通りなら縮まない」
瞭多が言いながらも、ほんの少しだけ口元が緩んだ。
結音は受領台に戻り、拾得票の角を揃えた。走りたい衝動が、まだ足首に残っている。けれど、紙と番号と確認が、誰かの時間を守ることも、今日は分かった。
保管棚の上では、先週から掛けてある赤いマフラーが、空調の風でわずかに揺れた。結音は気のせいだと思って目を逸らす。龍希だけが、結び目の奥に小さな光が伸びるのを、見ないふりをした。
夕方、男性がもう一度現れた。今度は帽子をきちんと被り直し、手には領収書のコピーを握っている。
「祖母、間に合いました。……ありがとうございました」
深々と頭を下げると、結音は思わず両手をぶんぶん振った。
「よかった! ほら、ね、私、すぐ行こうって――」
「行ってないだろ」
瞭多が即座に切る。結音は「うっ」と詰まり、くるりと龍希の方を見る。
龍希は領収書を受け取り、書類に綴じ、背表紙を揃えて棚へ戻した。それから、誰にも聞こえないくらいの声で言う。
「金は、回る。……けど、戻るのが先」
結音は笑って、目の端をこすった。糊のあやかしは、封筒から離れた瞬間、ただの乾いた糊に戻った。聞こえる「急げ」も、もうない。
窓口の時計は、午後六時二分を指している。次の袋が届く。結音は名札を直し、椅子を引いた。
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