第3話 マフラーに包まれて、泣く定期券

 十二月初旬の午前十時四十分。遺失物センターの返還窓口は、平日より人が少ない。外は乾いた北風で、駅前の自動ドアが開くたびに冷たい空気がすべり込んでくる。

  結音はカウンターの上に湯気の立つ紙コップを二つ並べ、間違えないように「お茶」「白湯」と油性ペンで大きく書いた。書き終わった瞬間、ペン先が滑って「お茶ぁ」と伸びてしまい、ひとりで肩をすくめる。


  定期券入れの口は、ぎゅっと閉じられているのに、そこから冷たい息みたいなものが漏れてくる気がした。結音は手袋越しに革の硬さを確かめ、落とした日の体温がまだ残っていないか探す。

  「これ、泣くんですよ」

  女性が笑う。笑ったはずなのに、目尻の水だけが遅れて落ちた。壁の向こうの声が、ほんの一瞬だけ遠くなる。


  硬貨の触れる音が、受領台の上で小さく跳ねた。音の高さだけで、落とした人の慌て方が少し分かる気がする。結音はそれを口に出さず、手の平で音を包むようにして、次の説明をゆっくり始めた。


  「伸びた。……でも読めるから、よし」

  自分に言い聞かせたところで、受付台の引き出しから「返還確認スタンプ」を出そうとして、間違えて「領収印」をつかんだ。慌てて戻し、今度はスタンプ台の蓋が外れて「ぽん」と机に転がる。

  龍希が無言で蓋を拾い、元の位置へ戻してから、結音に視線だけで「落ち着け」と言った。結音は肩をすぼめて、指をそろえる。


  入口の鈴がちりんと鳴った。


  ベージュのコートに、くすんだ青のトートバッグ。髪はきちんとまとめられているが、目尻のあたりだけ、眠りが足りない朝の影がある。片腕には小さな子どもを抱いていて、もう片方の手には子ども用の手袋が片方だけぶら下がっていた。もう片方はポケットから覗いている。

  女性は窓口の前で一度息を整え、受付票を差し出した。

  「……二十年前の、定期券入れ。ここに、あるって……」


  龍希が受領台の奥から照会書と保管台帳を持ってきて、静かに頷く。

  「照会の結果、保管番号はC―12。ご本人確認をさせてください。お名前と、生年月日を」

  龍希の声は低くないのに、空気の角が丸くなる。結音がいつもより声を小さくして、椅子を引いた。抱っこされた子は、椅子の背を指でつつきながら「これ、つめたい」と言い、結音が「冬だもんね」と笑う。


  瞭多が手順書を机の端に置き、確認項目を指でなぞった。

  「身分証の確認、照会番号の一致、返還書の署名。順番を飛ばすな」

  結音は「はーい」と小さく返事をし、ペン先を女性の前へ揃えた。


  本人確認が終わり、封印袋が開けられる。中から出てきたのは、革の角が擦り切れた定期券入れ。表面に、爪で押したような小さな星の跡が残っている。古い革の匂いが、ひと息だけ室内に広がった。

  女性が両手で受け取った瞬間――

  いつも夜勤の壁から漏れていた「返して」という声が、ふっと遠のいた。


  結音が目を見開き、口を開きかける。

  「いま、静か――」

  「業務に関係のない感想は、あと」

  横から淡々と止めたのは瞭多だった。今日はその日でも書類確認の当番で、背筋が折れない。けれど視線だけは、壁の方へ一瞬だけ泳いだ。惟月も同じ方向を見たが、表情は変えずに紙を揃え直した。紙の端が、少しだけ震えている。


  女性は定期券入れを胸の前に抱え、薄く笑った。

  「ごめんなさい。……こういうの、ずっと、返事できないままで」

  「返事?」

  結音が首をかしげると、女性は戸惑いながらも言葉をほどいた。


  「高校生のとき、この駅のホームで……告白されたんです。帰りの電車が来て、乗らなきゃって思って。『はい』も『いいえ』も言えないまま走って……それで、定期券入れも落として」

  笑っているのに、目の奥が濡れている。二十年分の寒さが、息に混じっているみたいだった。抱っこされている子は、母親の頬に触れて「ぬれてる?」と小さく聞く。女性は「だいじょうぶ」と言って、口角だけ上げた。


  結音は思わず身を乗り出し、指で机をとんとんと叩いた。

  「じゃあ、今日、返事しません? いまの、あなたの返事!」

  「えっ」

  女性が驚き、瞭多が眉をひそめる。龍希は結音を止めず、紙コップの白湯を女性の前にそっと置いた。手のひらを温めるように、と。


  「相手の人、今どこに……」

  結音が続けようとして、口を止めた。二十年前の相手の顔も名前も、女性は覚えていないと言う。覚えているのは、駅の電光掲示板が赤く点滅していたことと、冬の匂いと、胸の中が熱くて痛かったことだけ。

  結音は「そっか」と小さく言い、代わりに椅子の背を優しく押した。

  「じゃあ、別の返事。帰る前に、ひとつだけ」

  「ひとつ?」

  「『あのときの私、よく走った。えらい』って言うやつ」

  結音が真面目な顔で言い切ったので、女性が吹き出した。笑い声は小さく、けれど肩から固いものが落ちる音がした。

  瞭多が「……返還書に署名を」と紙を差し出す。タイミングが妙にきっちりで、結音が「空気読んでるのか読んでないのか分かんない」と囁いた。瞭多は聞こえないふりをした。


  龍希が定期券入れの受領書に目を通し、押印を済ませる。

  「忘れ物は、責められるためにあるんじゃないです。……戻ったら、それで」

  女性は頷き、定期券入れをバッグへ入れた。バッグの口を閉じる手が、さっきより軽い。抱っこされていた子が、星の跡を指さして「おほしさま?」と言うと、女性は「うん。昔の私がつけたやつ」と笑った。


  外へ出ると、風がいっそう強くなっていた。駅前のビル風が、コートの隙間から入り込む。女性が子ども用の手袋を片方落としそうになり、慌てて押さえる。

  結音が後ろから「手袋ー!」と叫び、走り出す寸前で、龍希が静かに腕を伸ばした。


  「首、寒いです」

  龍希は自分のロッカーから持ってきた赤いマフラーを、女性の肩へふわりと掛けた。結び目は作らず、風が抜ける方向だけを読んで、端を重ねる。布が揺れて、赤が一瞬だけ空の灰色を押し返す。

  女性は驚いて手を止めた。

  「え、でも……」

  「ここから駅の出口まで、三十秒。返すのは、そのあとでいい」

  龍希が言い切ると、結音が「秒で返すシステムだ!」と妙に感心し、瞭多が小さく咳払いをした。


  駅の出口まで歩く間、女性は赤いマフラーの端を指でつまみ、言った。

  「……あのとき、返事できなかったの、ずっと引きずってました。でも今日、定期券入れが戻って、なんか……『もういいよ』って言われた気がします」

  龍希は返さずに、視線だけを合わせた。目が垂れているのに、逃げない。

  結音は後ろから小声で「返事、したね」と言い、女性は「うん」と頷いた。


  出口のところで、女性はマフラーを丁寧に外し、両手で返した。

  「ありがとうございます。……今度は、落とさないようにします」

  龍希は受け取り、首を振る。

  「落としても、戻します。ここが、そういう場所です」

  女性は笑って、子どもの手袋を握りしめたまま、人波の中へ消えていった。


  その日の夜。遺失物センターの棚卸しは、静かに進む。惟月が砂時計を裏返し、結音が番号札を読み上げ、龍希が棚札の欠けをチェックする。瞭多は別紙の照会記録をまとめ、端をぴしりと揃えて置いた。

  C―12の棚の隣、赤いマフラーが入った保管袋が、わずかにずれていた。誰も触っていないはずなのに、袋の口が、呼吸するみたいに開いた。


  次の瞬間、赤い布がすべり落ちる。

  結音が「わっ」と手を出すより早く、龍希が受け止めた。布は冷たいのに、掌の中央だけ、ほんのり温い。

  龍希が結び糸の部分を目にしたとき――

  結び目から、細い光が一本、空中へ伸びた。天井へでも壁へでもなく、未来の誰かの指先へ向かうように、まっすぐに。


  結音は首をかしげた。

  「今の、静電気?」

  惟月は何も言わず、砂の落ちる音を聞いている。瞭多は書類から目を上げないふりをした。

  龍希だけが、赤い糸の光を、短い瞬きの間だけ見ていた。


  龍希は光が消えた結び目を指で整え、保管袋へ戻す。封印テープを貼り直し、番号札を正しい位置へ揃えた。

  「返す先が、まだ先でも。……道は、つながる」

  声は自分にだけ届くほど小さい。けれど壁の向こうは、今夜も静かだった。


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