第2話 隣から聞こえる声、夜勤の壁

 十二月初旬の夜、終電が動き終わった頃、遺失物センターの照明は半分だけ点いていた。窓口は閉まり、カウンターの上には「夜間作業中」の札。外は凍えるのに、室内は消毒液の匂いがまだ残り、手袋のゴムが指に吸いつく。


  プリンターの熱い匂いが、出力口からふわっと漏れた。紙が出てくるだけなのに、どこか『何かが生まれる』感じがして、惟月は余計に気まずくなる。

  結音は机の上のメモを指でトントンと整え、惟月の沈黙を責めずに、沈黙の置き場だけ作った。黙っている相手ほど、置き場が要る。惟月はその置き場に、ようやく言葉を落とした。


  受領台の縁に指を置くと、指先に薄い紙粉がついた。昨日の誰かの焦りが、ほんの少しだけ残っている。龍希はその粉を袖で払わず、手袋に収めるように握り込み、今日の自分の動きを落ち着かせた。


  換気扇の低い唸りと、隣室から漏れる椅子の軋みが、夜勤の境界線を作っていた。壁一枚なのに、こちらの息だけが大きく聞こえる。


  蛍光灯の白さが机の上のラミネートを浮かせ、消毒用アルコールの匂いが鼻の奥をすっと通った。紙の端を指で揃える音だけが、夜の空間を測っていく。


  夜勤の仕事は、客の相手ではなく、紙と棚と端末の相手だ。駅ごとに封印された袋を開け、内容を確認し、写真を撮り、消毒し、種類を分け、保管番号を付けて棚へ入れる。現金とカード類は別室の金庫へ、危険物は警備と連携して保管する。明日の窓口に並ぶ人が、番号を告げた瞬間に迷わないよう、夜のうちに道筋を整える。


  「夜勤、好きなんですか」

  龍希が言うと、惟月は返事をせず、手元の受領票を一枚ずつ揃えた。紙の端がぴたりと重なる。ホチキスの針が光る位置まで確かめ、棚の番号札を指で押さえる。押さえた指先が、必要以上に白い。


  その横で結音が、椅子に座っていられずに立ったり座ったりしていた。昼間の研修で覚えたはずの棚番を、声に出して復習している。

  「A列、上から二段目、ふたつ目……あ、今言いながら違うとこ見てた!」

  自分で自分に突っ込み、笑いを噛み殺すように口を塞ぐ。静かな夜に、笑い声が大きく響くのが怖いらしい。


  電話が鳴った。夜勤用の内線は、普段より音が尖って聞こえる。

  惟月が取ろうとした瞬間、結音が先に飛びつき、受話器を落としそうになって龍希に肘で支えられた。


  「遺失物センター、夜間担当です! はい!」

  受話器の向こうの駅員の声は早口だった。

  「終電後の清掃で、社員証が出ました。写真付き。明日、病院の夜勤に入るって本人が言ってて……今、駅まで来られるって」

  結音が「今!?」と口を開きかけ、龍希が指を立てて止める。


  龍希はメモを取りながら、淡々と言った。

  「返還窓口は閉まっています。けれど、駅で本人確認ができるなら、駅預かりで渡せます。氏名、勤務先、連絡先。本人が来る改札口と時間を」

  結音は目を丸くして頷き、メモに追記する。惟月はすでに端末で該当駅の拾得一覧を開いていた。社員証の写真、受領時間、封印番号。必要な項目を一つずつ、画面の上で指差し確認していく。


  「本人確認、駅で二点。顔写真と、生年月日。受け渡しは駅員さんが。こちらは記録だけ、残します」

  惟月の声は低い。言葉は少ないが、決めた手順は動かさない。

  結音が受話器へ向き直り、駅員へ伝えると、向こうで「助かります」と息を吐く音がした。


  通話が切れたあと、結音がぽつりと言った。

  「……今の人、助かったかな」

  龍希はメモをホチキスで留め、受領票の束の上に置いた。

  「助かるように、今夜の記録をきれいにします」

  結音は「うん」と短く返し、机の上の乱れたペンを揃えた。揃え方が雑で、龍希が一本だけ向きを直す。結音はそれを見て、肩をすくめて笑う。


  惟月は、机の端に置いた小さな砂時計を裏返した。落ちる砂の音が、耳の奥でこそばゆい。

  「昼は、声が混ざる。夜は、聞こえるものが少ない。だから……」

  そこで言葉が途切れ、代わりに壁が鳴った。


  ――返して……。


  三人の手が同時に止まった。結音は机の上のペンを落とし、慌てて拾い上げる。ペン先が床を転がる音さえ、今は大げさに聞こえる。

  壁は、隣室の備品倉庫との間にある。古い建物で、どこかに小さな隙間があると、先輩が昼間に笑って言っていた。


  「拾得物は物だけ、音は備品箱へ……って扱いにします?」

  龍希が真顔で言い、結音が吹き出しかけて両手で口を押さえた。惟月だけは笑わない。壁に視線を固定したまま、目だけがわずかに揺れる。


  結音は我慢できず、壁へ近づいた。耳を当てようとして、頬をぶつける。冷たい。痛いのに、顔を離さない。

  「ね、いまの、続き……」

  壁の向こうから、息を吸い込むような音がして、


  ――赤い。


  結音が目を見開いた。その言葉の余韻が消える前に、保管棚の一角が、かすかに光った。毛糸の繊維が、そこだけ月明かりを吸っているみたいに淡い。

  棚札は「C―12」。透明な袋の中に、赤いマフラーが丸めて入っていた。色は深いえんじ。端の編み目だけがほどけかけ、そこから細い糸が、空気に触れて震えた。


  惟月が、息を詰めた。

  「……この声、僕に向けてる」

  結音が「え?」と聞き返すより先に、惟月は棚へ手を伸ばした。触れる直前で止め、袋の外から目だけで編み目を追う。龍希が静かに隣へ立ち、手袋の箱をそっと差し出した。


  惟月は黙って手袋をはめ、袋の封を確かめた。封印テープは剥がれていない。けれど、棚のラベルが一枚だけ、欠けていた。


  「これ……番号札、どこいったの?」

  結音が声を潜める。欠けた場所は、マフラーのすぐ下の段だった。番号札がないということは、照会の線が途切れるということだ。返すための道筋が、紙の上から消える。


  惟月は棚卸し表を開き、指で追った。そこにあるはずの番号が一つ、空白になっている。空白の周りだけ、紙が妙に乾いて見えた。

  龍希が、棚の角に落ちている小さな黒い欠片を拾った。ハサミの刃先みたいに細い。指先でつまむと、すぐに粉のように崩れた。


  「欠番箱、見ます」

  惟月が短く言い、保管室の端に置かれた「欠番」の段ボールを引き寄せた。そこは、番号が読めない、札が剥がれた、袋が破れた――そういう「道が切れかけた物」だけを一旦集めておく場所だ。


  箱の底から出てきたのは、古い定期券入れだった。革はひび割れ、角が白く擦れている。透明窓の内側に、使い込まれた紙の定期券が挟まっていた。印字は薄いが、駅名だけは残っている。

  結音が定期券入れを持ち上げ、光に透かした。指先が震え、すぐに机へ戻す。触り方が、さっきの社員証より慎重だった。

  「……これ、ずっとここにいたの?」

  惟月は答えず、端末へ視線を戻した。


  照会画面に入れた文字列が、遅れて表示される。住所は都内ではなく、遠い県名だった。履歴の最終更新は二十年前で止まっている。

  電話番号欄は空白。メール欄も空白。


  結音は、赤いマフラーの袋へ視線を戻した。壁の向こうの声は、もう聞こえない。それなのに、胸の奥がざわざわする。返したいのに、返す先が見えない物が、棚で息をしているみたいだった。


  惟月が、受領票の端を爪でなぞった。紙が痛みそうなほど強く。龍希が視線だけでそれを止め、代わりにペンを差し出す。惟月はペンを受け取り、欠番の報告書の欄を埋め始めた。筆圧が高い。


  龍希が受領台の端を指で整え、言った。

  「道が切れてるなら、別の道を作るだけです。まず、今夜の手順を崩さない」

  結音は頷き、欠番の箱に蓋を戻した。惟月は砂時計をもう一度裏返す。砂が落ちる音が、さっきより少しだけ、まっすぐに聞こえた。


  壁の向こうで、かすかな衣擦れのような音がした気がした。三人は見ないふりをして、手を動かした。返すための夜が、静かに続いていく。


  結音は念のため、C―12の棚札を写真に撮り、欠けたラベルの位置を赤ペンで図にした。龍希は袋の封印番号を読み上げ、惟月が復唱して記録する。声が消えた壁だけが、何もなかった顔をして白く立っていた。


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