マフラーの結び目は、未来へつながる 東都地下鉄・遺失物センター日誌
mynameis愛
第1話 タレ目の新人、遺失物センターへ
十二月初旬のその日、朝七時三十分。下町の駅の裏手にある「東都地下鉄株式会社 遺失物センター」の扉を、龍希は名札を指で押さえながら開けた。空調の乾いた匂いと、消毒液の甘い刺激が混ざって鼻の奥に残る。制服の袖を一度引き、前髪を直し、受付カウンターの角で立ち止まった。
制服の袖口の糊が、肘を曲げるたびにわずかに突っ張る。龍希はそれが頼もしい鎧にも、邪魔な板にも見えて、ひとまず腕を振って馴染ませた。振った拍子に名札がぱたぱた鳴り、背後の舞也子が「拍手してるみたい」と言って、龍希の耳が少し熱くなる。
鍵を回す音は、毎朝同じはずなのに、初日だけ別の音に聞こえる。龍希は自分の呼吸が金属に触れている気がして、息を短くしてから、もう一度だけ深く吸った。
名札の角が指の腹に当たり、硬さだけがやけに残った。扉の取っ手を握ると金属が冷たく、握り直すたびに自分の手の温度が逃げていく。龍希は息を一つ、制服の襟の内側へ落としてから、鍵を回した。
改札を抜けたところで冷たい空気が頬に触れ、コートの袖口に駅の鉄の匂いが移った。床のゴムマットはまだ湿り気を抱え、靴底がきゅっと鳴る。
「おはよーございまーす! ちょ、箱そこじゃないって! あ、名札……あれ、逆っ」
段ボールが山になっている受領台の向こうで、結音がひとりで渦を巻いていた。名札は上下逆、髪は寝ぐせのまま。けれど足だけは早い。台車の車輪がガタンと鳴っても止まらず、段ボールの角を肩で押して、棚の前へ滑り込む。
「新しく来た人? 名札、ちょっと見せて。りゅ……りゅう……」
結音が名札を覗き込み、息を切らしながら顔を上げる。龍希の目はやわらかく垂れていて、ぱっと見ただけだと眠そうに見える。
龍希は慌てずに、入口横の掲示板へ目を走らせ、今日の受領予定の便数と担当表を確認してから言った。
「龍希です。今日から。……箱、落ちます。」
言い終えるより早く手が伸び、結音が積んだ段ボールの一つを支える。ぎりぎりで崩れず、結音が「おおっ」と声を上げた。
遺失物センターの朝は、終電後に駅や車内で回収された落とし物が一気に流れ込む。駅係員が封をした袋、駅ナカの店舗が預かったもの、清掃員が拾ったもの。受領台で受け取り、外装の状態を写真に残し、手袋をして消毒し、種類ごとに仕分け、保管番号を付けて棚へ入れる。現金や危険物は別室へ、個人情報が見える書類は封筒へ。返還窓口が開く九時までに、できるだけ照会の準備を整えておく。
「保管番号って……この札、首から下げるんですか?」
結音が真顔で番号札を自分の首元へ当てた。龍希は一拍置いてから、番号札の紐を指で弾き、棚のフックを示す。結音は「あ、棚の子なんだ」と言って赤くなり、後ろで先輩が笑いをこらえて咳払いをした。
結音は説明するより先に動くタイプらしく、受領台へ次々と箱を引き寄せては、ラベルを貼ろうとして、貼り間違えて自分で剥がし、また貼っていた。
「このシール、剥がしやすいやつに変えません? ほら、こうやって……」
龍希は声を荒げず、結音の手元のシール台紙をすっと差し替え、剥がす角だけ先に折って見せた。結音が目を丸くする。
「え、なにそれ、めっちゃ早い……!」
龍希は返事の代わりに、受領台の端へ予備の台紙を揃えて置いた。結音はそれを見て、少しだけ動きが落ち着く。
八時過ぎ、段ボールの山の中に、小さな透明袋が一つ混ざっていた。中身は子ども用の手袋。左右ちぐはぐで、片方は青、もう片方は黄色。指先に、まだ新しい毛玉がついている。
結音が袋を持ち上げた瞬間、袋の内側がほんのり曇った。
「……いま、なんか、言った?」
結音が袋を耳に近づける。龍希が手を止める。
「ちょ、ちょっと待って。いま、ちっちゃい声、したよね? ね? 『さむい』って……!」
結音の声が一段上がる。棚の奥にいた先輩が顔を出し、「またか」とため息をついた。
結音は袋を振りそうになって、龍希に手首をそっと押さえられた。龍希は言葉を足さない。代わりに、受領台の下から小さな毛布を出し、手袋の袋ごと包み込むように置いた。
結音が顔を近づける。毛布の中から、かすかな擦れる音がして、次に、ほんの小さな息のようなものが漏れた。
「……き、聞こえる……。やばい、これ、しゃべる……!」
結音が両手で口を覆った。驚いているのに、笑いそうな顔をしている。
龍希は受領票の欄を一つずつ埋め、拾得場所を確認する。駅係員のメモには「改札内 上りホーム ベンチ下」とある。拾得時刻は昨夜二十二時四十分。保管期限の開始日、照会方法、備考。手袋は衣類扱いで、保管棚は「冬物・小物」の段。だが、袋の中の気配が落ち着かない。
結音が小声でささやいた。
「ねぇ、これ……怖くないの?」
龍希は毛布の端を整え、袋が外気に触れないようにしてから、結音の視線だけ受け止めた。
「怖がると、もっと震えます。」
言い方が淡々としているせいで、結音が「うわ、やさしいこと言ってるのに、顔が眠そう」と吹き出した。
九時。返還窓口が開くと同時に、母親らしい女性が駆け込んできた。コートの前を閉じる手が震えている。隣には幼い男の子。片手が素手で、もう片方だけ手袋をしていた。
「すみません! 昨日、子どもの手袋を……! 青いのを片方だけ……!」
息が上がって、言葉が切れる。
結音が飛び出しかけたが、龍希の手が先に動いた。窓口前の椅子を引き、女性が座りやすい角度へ置く。湯飲みにお茶を注ぎ、熱すぎない位置まで冷ましてから差し出す。子どもには、テーブルの端に置いていた小さな紙コップの白湯を出した。
「まず、落ち着いて。お名前と、拾得した日付を確認します。」
声は低く、急かさない。結音は横で書類を準備しながら、勢いで動けない自分に気づいて唇を噛んだ。
本人確認は手順どおり。身分証の提示、連絡先、拾得物の特徴、色、メーカー名。母親が言う「青い方」に、龍希は「袋の中にもう片方もあります」とだけ告げた。
結音が毛布の包みを窓口の奥へ運ぶ。袋を開ける前に、消毒済みの手袋をはめる。袋の外側を一度拭き、番号札を見せ、照会票と照らす。そこまでしてから、そっと袋を開いた。
その瞬間だった。
「……ただいま」
子どもの手袋の奥から、かすれた声がした。大きな声ではない。けれど、窓口の空気が一瞬止まるほどにははっきりしていた。
結音が固まった。母親も、子どもも、目を見開く。子どもが青と黄色の手袋を両手にはめると、指先がぴたりと揃った。毛布の中に残っていた温もりが、すっと消える。
袋の内側の曇りも消え、そこにはただの手袋だけが残った。
「よかったぁ……!」
母親が肩から力を抜き、深く頭を下げる。子どもは照れたように手を振って、手袋の指をもぞもぞ動かして見せた。
結音は笑って返すつもりだった。けれど喉の奥がつまって、息が熱くなる。目尻を指でこすって誤魔化そうとしたが、龍希が黙って紙ナプキンを一枚だけ差し出した。
結音は受け取り、鼻の頭を押さえた。
「……あ、ありがとうございます。いや、違う、ありがとうはこっちだ」
言い直そうとして舌がもつれ、結音は思わず目を閉じた。
語尾がほどけて、涙が一つ落ちた。恥ずかしいのに、止まらない。
母親が帰ったあと、結音は窓口の奥でこっそり深呼吸した。龍希は返還記録の欄を丁寧に締め、保管棚の該当スペースに「返還済」の札を差し替える。手順の最後まで、手が迷わない。
結音が小さく言った。
「ねぇ、さっきの……聞こえたよね。わたしだけじゃないよね。」
龍希は返還記録をファイルに綴じ、背表紙を揃えて棚へ戻した。その動作の途中で、ほんの少しだけ口角が上がった。
「聞こえました。」
「……そっか」
結音は泣き笑いのまま、名札を直した。今度は上下を間違えない。
遺失物センターの朝は、次の段ボールを待っている。誰かの忘れ物が、今日もここへ来る。結音は毛布を畳み直し、龍希は受領台の角を指でなぞって整える。二人の手が、同じ方向へ動き始めた。
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