第13章「北の境界」

報告は、ある雨の夜にもたらされた。


「北の国境地帯で——瘴気が急増している」


 ガルディスが、清浄亭を訪れたのは深夜だった。いつもの堂々とした姿とは違い、その表情には——焦りが見て取れた。


「瘴気の急増——どの程度ですか」


「三ヶ月前の、五倍以上だ」


 洗一の目が、鋭くなった。


「五倍——」


「国境の砦に駐留している兵士たちが、次々と倒れている。体力の低下、慢性的な疲労、そして——穢れによる精神汚染」


「精神汚染——?」


「幻覚を見る者、悪夢に苦しむ者、理由もなく攻撃的になる者——瘴気が、心を蝕んでいる」


 洗一は、窓の外を見た。


 雨が、激しく降っている。その雨粒の一つ一つにすら、穢れが混じっているように見えた。


「俺に——何ができると」


「現地に来てほしい」


 ガルディスの目が、真剣だった。


「王国最高の穢れ浄化技術を持つのは——お前だ。現地の状況を見て、対策を考えてくれ」


「俺は——ただのクリーニング師だ。軍事的な問題には——」


「軍事の問題ではない」


 ガルディスは、首を振った。


「これは——衛生の問題だ。お前の専門分野だろう」


 三日後、洗一は北の国境に向かった。


 同行するのは、セラとトム。店の運営は、エマとルカに任せた。


 馬車で三日間。景色は、徐々に変わっていった。


 緑豊かな平野が、荒涼とした岩山に変わる。草木は枯れ、空は灰色に曇っている。


「セイイチさん——空気が、違いますね」


 セラが、不安げな声で言った。


「ああ。穢れが——濃い」


 【汚染鑑定】を発動する。


 視界に——灰色の靄が、浮かび上がった。


 空気中に、瘴気が漂っている。呼吸するだけで、体内に穢れが侵入してくる。


「マスクをしろ」


 洗一は、布製のマスクを三人に配った。


「これで——防げるんですか?」


「完全には防げない。だが、ないよりはマシだ」


 国境の砦に到着したのは、夕方だった。


 石造りの堅固な砦。だが、その壁には——黒い染みが、点々と広がっていた。


 瘴気の痕跡だ。


「よく来てくれた」


 砦の司令官——ハルトマン大佐という男——が、出迎えてくれた。


 だが、その顔色は——悪かった。目の下には隈があり、頬はこけている。


「状況は——」


「見ての通りだ」


 ハルトマンは、砦の中を案内した。


 兵舎では、多くの兵士が寝込んでいた。顔色は青白く、うわ言を呟いている者もいる。


「三百人の駐留兵のうち——百人以上が、戦闘不能だ」


「百人——」


「そして、毎日——新たな発症者が出ている」


 洗一は、寝込んでいる兵士の一人に近づいた。


 【汚染鑑定】を発動する。


 ——対象:人間(成人男性)

 ——汚染:瘴気(重度)。魂の深層まで浸透。

 ——症状:生命力低下、精神汚染、幻覚症状

 ——推奨処置:即時の浄化処理。放置すれば——死亡の可能性あり。


 死亡の可能性。


 洗一の背筋に、冷たいものが走った。


「これは——深刻だ」


「わかっている。だから——お前を呼んだ」


 洗一は、まず環境の調査を行った。


 砦の周辺、水源、食料庫、兵舎——あらゆる場所で、【汚染鑑定】を発動した。


 結果は——予想以上に深刻だった。


「瘴気が——どこから来ているのか、わかりました」


 夜、ハルトマンとガルディスを前に、洗一は報告した。


「どこからだ」


「北の山——あの山の向こうから、瘴気が流れてきています」


 洗一は、地図を指さした。


「風向きを考えると——瘴気の発生源は、国境の向こう側。魔王領との境界付近です」


「魔王領——」


 ガルディスの表情が、険しくなった。


「魔王軍が——何かを企んでいるのか」


「わかりません。ただ——このままでは、砦の兵士全員が、穢れに侵されます」


 洗一は、まず応急処置を行った。


 発症した兵士たちの浄化だ。


 一人ずつ、魔力溶剤を使って、体内の瘴気を抽出していく。


 だが——時間がかかりすぎた。


 一人あたり、二時間。


 百人以上を処理するには——二百時間以上。


 一人では、とても間に合わない。


「セラ、トム——手伝ってくれ」


「私たちにも——できるんですか?」


「基本的な浄化は——お前たちにも教えた。実践するときだ」


 三人で分担して、浄化作業を進めた。


 洗一が重度の患者を、セラとトムが軽度から中程度の患者を担当する。


 それでも——一日に処理できるのは、十人程度だった。


 三日目の夜、洗一は一人で砦の屋上に立っていた。


 北の山を、見つめていた。


 あの山の向こうから、瘴気が流れてくる。


 いくら兵士を浄化しても、瘴気が流れ続ける限り——また、汚染される。


 対症療法では——根本的な解決にならない。


「セイイチ殿」


 背後から、ガルディスの声が聞こえた。


「お前も——眠れないか」


「ああ」


 ガルディスが、隣に立った。


「考えていることが——ある」


「なんだ」


「瘴気の発生源を——叩くことはできないのか」


 洗一は、北の山を見つめたまま答えた。


「俺一人では——無理だ。だが——」


「だが?」


「仕組みを作れば——できるかもしれない」


「仕組み?」


 洗一は、ガルディスの方を向いた。


「俺が考えているのは——『浄化システム』の構築だ」


「浄化システム——?」


「個人の能力に頼るのではなく——仕組みとして、穢れを浄化する。そうすれば、俺がいなくても、浄化が続けられる」


 翌日から、洗一は新しい試みを始めた。


 「浄化フィルター」の開発だ。


 空気中の瘴気を、物理的に濾過する——そういう装置が作れないか。


 ゴルドから学んだ金属加工の知識と、エルフィナから学んだ魔力操作の技術を組み合わせる。


 試行錯誤を繰り返した。


 最初の試作品は、失敗した。フィルターが瘴気を吸い込みすぎて、すぐに飽和してしまう。


 二番目の試作品も、失敗。瘴気を分解する機能が弱すぎて、ほとんど効果がなかった。


 三番目の試作品——


「これは——うまくいくかもしれない」


 洗一は、小さな箱型の装置を見つめた。


 金属の筐体の中に、魔力を込めた特殊な布を何層にも重ねている。


 瘴気を含んだ空気が、この布を通過すると——瘴気が吸着され、浄化された空気だけが出てくる。


 「活性炭フィルター」の原理を、魔力で応用したものだ。


 テストは、成功した。


 浄化フィルターを設置した部屋では——瘴気の濃度が、半分以下に低下した。


「素晴らしい——」


 ハルトマンが、目を見張った。


「これを——砦全体に設置すれば——」


「ある程度の防御は可能です。ただ——」


 洗一は、フィルターを指さした。


「このフィルターは、定期的に交換が必要です。一週間ほどで、瘴気が飽和して、効果がなくなる」


「交換——お前がいなくても、できるのか?」


「交換自体は、誰でもできます。問題は——フィルターの製造です」


 洗一は、考えた。


「フィルターの製造には、特殊な技術が必要だ。俺か——俺の弟子にしか、作れない」


「つまり——定期的に、フィルターを供給し続ける必要がある、と」


「そうです。月に一度——新しいフィルターを届ける。それを続ければ、砦は守れる」


 洗一は、砦に十日間滞在した。


 その間に、発症した兵士の大半を浄化し、浄化フィルターを砦の主要な建物に設置した。


 そして——


「セイイチ殿」


 出発の朝、ハルトマンが見送りに来た。


「感謝する。お前のおかげで——砦は、持ちこたえられる」


「まだ、終わりじゃありません」


 洗一は、北の山を見つめた。


「瘴気の発生源を、止めない限り——根本的な解決にはならない」


「わかっている。だが——今は、これで精一杯だ」


「いずれ——あの山の向こうに、行かなければならない」


 洗一の言葉に、ハルトマンは何も答えなかった。


 帰路の馬車の中で、洗一は考え続けていた。


 瘴気の発生源。


 神が言っていた——この世界は、百年を待たずに滅ぶ、と。


 あの山の向こうに——その原因があるのではないか。


「セイイチさん」


 セラが、不安げな声で言った。


「私たち——いつか、あの山の向こうに——行くんですか?」


「いずれはな」


「怖くないですか……?」


 洗一は、しばらく黙っていた。


 怖い。


 正直に言えば、怖かった。


 あの山の向こうには、何があるかわからない。魔王軍がいる。強大な穢れの発生源がある。


 俺は——ただのクリーニング師だ。戦う力など、ない。


 だが——


「怖いさ」


 洗一は、正直に答えた。


「でも——やらなきゃいけないことは、やる。それが——俺の仕事だ」


 セラは、しばらく洗一の顔を見つめていた。


 やがて、彼女は——静かに頷いた。


「私も——行きます」


「危険だぞ」


「知ってます。でも——セイイチさんの弟子ですから」


 その声には、決意が込められていた。


【第13章・了】

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