第3章「クリーニング師の日常」

朝は、水槽の水を入れ替えることから始まる。


 清浄亭を開業して二週間が経った。洗一の一日は、夜明けと共に目を覚まし、井戸から水を汲むところから始まる。大きな桶を両手に持ち、店と井戸を三往復。若返った三十歳の肉体でも、それなりに堪える作業だった。


「セイイチさん、私がやります」


 セラの声が、背後から飛んできた。


「お前にはまだ重すぎる」


「でも——」


「お前の仕事は、受付と検品だ。水汲みは俺がやる」


 セラは、不満げな顔で黙った。


 試用期間の一週間はとうに過ぎ、今では正式な従業員として働いている。住み込みだ。店の奥に小さな部屋を設え、そこが彼女の寝床になっている。


 最初の数日、セラは何をやらせても不器用だった。桶を運べばこぼし、布を絞れば腰を痛め、字を書かせれば読めない文字が並んだ。


 だが、三日目から変わり始めた。


 彼女には、観察力があった。


 洗一が鎧を検品する様子を、食い入るように見つめていた。汚れの種類を判別する方法、素材を見分けるコツ、処理の優先順位——説明されなくても、見て盗むことができた。


 一週間後、セラは簡単な衣類の検品を任せられるレベルになっていた。


「セイイチさん、今日の依頼品です」


 セラが、カウンターに三つの品物を並べた。


 一つ目は、麻のシャツ。農夫が持ち込んだもので、襟元に土の汚れがこびりついている。


 二つ目は、絹のスカーフ。貴族の娘が落とした赤ワインの染みが、淡い青の生地に広がっている。


 三つ目は、革のブーツ。冒険者のもので、魔獣の血と泥が混ざり合った複合汚染。


「検品結果を報告しろ」


「はい。一番目——麻のシャツ——表面の土汚れと、襟の皮脂汚染。水洗いと前処理で対応可能。二番目——絹のスカーフ——タンニン系のワイン染み。浸透度は中程度。酢酸処理と漂白が必要。三番目——革のブーツ——油溶性とタンパク系の複合汚染。穢れの痕跡あり。処理難度は高」


 洗一は、頷いた。


 正確だった。二週間前の彼女には、不可能だった分析である。


「合格だ。一番目と二番目は、お前がやれ」


 セラの目が、大きく見開かれた。


「私が——ですか?」


「見て学んできただろう。やってみろ」


「でも、絹は——」


「失敗したら、俺がカバーする。それより、いつまでも見ているだけでは上達しない」


 セラは、しばらく黙っていた。


 やがて、小さく頷いた。


「……わかりました」


 その声には、緊張と——かすかな高揚が混じっていた。


 午前中は、依頼品の処理に費やされた。


 洗一は、革のブーツに取り組んだ。


 複合汚染は、クリーニングにおける難題の一つである。異なる種類の汚れが混在している場合、処理の順序を間違えると、かえって汚れを定着させてしまう。


 まず、【汚染鑑定】で詳細な分析を行う。


 ——表層:土 ite(魔物生息域由来)。水溶性。

 ——中層:油脂(魔獣の体液)。油溶性。酸化進行中。

 ——深層:タンパク質(血液)。凝固開始。

 ——付着物:穢れ(微量)。革の縫い目に浸透。

 ——素材:牛革。耐久度良好。軽度の乾燥あり。


 四層構造。


 処理の順序は——水溶性の土から始め、油溶性の体液、タンパク系の血液、そして最後に穢れ。


 洗一は、作業を開始した。


 まず、ブラシで表面の土を払い落とす。乾いた状態で落とせる汚れは、濡らす前に除去するのが基本だ。


 次に、ぬるま湯で全体を濡らし、土の残りを洗い流す。


 ここからが本番だった。


 油溶性の体液を処理するため、【溶剤生成】で石油系溶剤を精製する。革を傷めない濃度に調整し、汚染部分に塗布。ブラシで軽くこすり、溶剤と汚れを布で吸い取る。


 油のぎらつきが消えた。


 次は、タンパク系の血液。


 酵素溶液を精製し、血液の染みに塗布。十五分待つ。


 その間に、セラの作業を確認しに行った。


 彼女は、絹のスカーフと格闘していた。


「どうだ」


「酢酸を塗布しました。でも、染みがまだ——」


「濃度は」


「1%です。セイイチさんがワインの染みに使っていたのを見て——」


「絹は繊細だ。0.5%から始めろ。時間をかけて、少しずつ」


 セラは、頷いた。


 洗一は、自分のブーツに戻った。


 酵素が働いた。血液の染みが浮き上がっている。蒸気を当て、布で吸い取る。


 最後に、穢れの処理。


 魔力溶剤を精製し、ブーツ全体に塗布する。縫い目の奥に浸透した穢れを、少しずつ引き出していく。


 三十分後。


 ブーツは、元の状態を取り戻していた。


 革本来の艶が戻り、乾燥による硬化も解消されている。穢れの気配は——ない。


「完了だ」


 洗一は、ブーツを検品台に置いた。


 そして、セラの方を見た。


 彼女は、スカーフを光にかざしていた。


 ワインの染みは——消えていた。


「やった……」


 セラの声が、震えていた。


「やりました、セイイチさん。落ちました」


「見せろ」


 洗一は、スカーフを受け取った。


 【汚染鑑定】で確認する。


 ——タンニン汚染:検出されず

 ——繊維損傷:なし

 ——色褪せ:なし


 完璧だった。


「よくやった」


 洗一の言葉に、セラの顔がパッと輝いた。


「本当ですか? 間違いないですか?」


「嘘は言わない」


 それは、洗一の信条だった。


 できることは「できる」と言う。できないことは「できない」と言う。そして、うまくできたら「よくやった」と言う。


 シンプルだが、それが——職人の教え方だった。


 昼過ぎ、予想外の来客があった。


 ドワーフだった。


 身長は洗一の腰ほどしかないが、肩幅は広く、腕は丸太のように太い。顔には豊かな髭が生え、その髭には金属の粉が絡みついている。


「おい、ここが噂の清浄亭か」


 低く響く声だった。


「ああ。何か依頼か」


「これだ」


 ドワーフは、背負っていた布袋を床に下ろした。中から出てきたのは、革の前掛けと、分厚い布の作業着だった。


 ——金属粉の匂いが、鼻を突く。


 鉄、銅、そして——何か別の金属。見覚えのない、銀色の光沢を持つ粉末。


「鍛冶師か」


「ああ。この町で唯一の鉄鍛冶だ。名はゴルド」


 ゴルドは、作業着を広げて見せた。


 全体が金属粉にまみれている。特に胸元と袖口は、粉が繊維の奥まで入り込んで、まるで金属で染められたかのようだった。


「普通の洗濯屋じゃ、手に負えないと言われた。お前なら落とせるって、冒険者のカイルから聞いてな」


 カイル。最初の顧客だ。彼の口コミが、こうして広がっている。


 洗一は、作業着を手に取った。


 【汚染鑑定】が起動する。


 ——表層:鉄粉。酸化進行中。繊維に固着。

 ——中層:銅粉。酸化緑青あり。

 ——深層:ミスリル粉末(微量)。魔力を帯びた金属。浸透度高。

 ——素材:綿と麻の混紡。耐久度やや劣化。


 ミスリル。


 この世界の金属についての知識は、まだ乏しい。だが、「魔力を帯びた金属」という情報から、特殊な処理が必要だと推測できる。


「落とせるか?」


 ゴルドの目が、洗一を見据えていた。職人の目だった。自分の道具を預ける相手を、見極めようとしている目。


「落とせる。ただし、ミスリル粉の処理には時間がかかる。三日くれ」


「三日? 長いな」


「普通の金属粉なら一日で済む。だが、ミスリルは魔力を帯びている。通常の方法では繊維から引き剥がせない」


 ゴルドは、しばらく黙っていた。


 やがて、深く頷いた。


「……わかった。三日だな。信じてやる」


「いくらかかる? 先に言っておいてくれ」


「銀貨五枚」


「高いな」


「ミスリルを扱う作業着だろう。新品を買えば、銀貨二十枚は下らないはずだ」


 ゴルドの目が、わずかに見開かれた。


「……お前、ミスリルの価値を知っているのか」


「推測だ。魔力を帯びた金属なら、希少で高価だろう」


 洗一の推測は、当たっていたらしい。ゴルドは、髭の奥で笑った。


「気に入った。五枚だな。三日後に取りに来る」


 ドワーフは、銀貨を置いて去っていった。


 セラが、不安げな顔で訊いてきた。


「ミスリルって——落とせるんですか?」


「やってみなきゃわからない」


 正直な答えだった。


 だが、洗一には自信があった。


 三十年間、「落とせない」と言われた汚れと向き合ってきた。インク、ワイン、血液、油、金属粉——不可能と言われた染みを、何度も落としてきた。


 この世界の金属が、どれほど特殊でも——原理は同じはずだ。


 汚れには、構造がある。


 構造がわかれば、落とし方がわかる。


 夕方、また別の来客があった。


 今度は、エルフだった。


 長い銀髪、尖った耳、そして——優雅な所作。彼女は、店の入口で一瞬足を止め、周囲を見回した。


 品定めをしている、と洗一は思った。


 この店が、自分の品を預けるに値するかどうか。


「いらっしゃいませ」


 セラが、慣れた様子で出迎えた。


「清浄亭へようこそ。ご依頼は何でしょうか」


 エルフの女性は、セラをちらりと見てから、洗一に視線を移した。


「店主は、あなたですね」


「ああ」


「噂は聞いています。穢れを落とせるクリーニング師、と」


 洗一は、答えなかった。


 エルフは、懐から布を取り出した。


 絹だった。


 だが、普通の絹ではない。光にかざすと、虹色の光沢が浮かび上がる。繊維の一本一本が、魔力を帯びているかのような——


「エルフ絹」


 エルフは、布を広げた。


「我が一族に伝わる織物です。百年以上の歴史があります。しかし——」


 彼女は、布の一部を指さした。


 黄ばんでいた。


 端の方から、茶色がかった黄色い染みが広がっている。古い染みだ。長年の蓄積によるもの——


「これは——」


 洗一は、布を受け取った。


 【汚染鑑定】が起動する。


 ——表層:酸化物(経年劣化)。繊維表面に沈着。

 ——中層:油脂(皮脂由来)。20年以上の蓄積。

 ——深層:タンパク質残留物。繊維に固着。

 ——魔力層:魔力劣化(微量)。織物本来の光沢を阻害。

 ——素材:エルフ絹。極めて繊細。熱・酸・アルカリに弱い。


 難題だった。


 経年劣化と、長年の使用による汚れの蓄積。しかも、素材は「極めて繊細」。通常の処理では、繊維を傷める可能性が高い。


「これは——」


 エルフの目が、洗一を見据えていた。


「落とせますか」


 洗一は、考えた。


 正直に言えば、自信がなかった。


 エルフ絹という素材を、洗一は知らない。繊維の構造、魔力との関係、適切な処理法——全てが未知数だ。


 だが——


「やってみる価値はある」


 洗一は、そう答えた。


「ただし、条件がある」


「条件?」


「この素材について、教えてくれ。繊維の構造、魔力の性質、過去にどんな手入れをしてきたか。情報があればあるほど、成功の確率は上がる」


 エルフは、少し驚いた顔をした。


「……普通の職人なら、そんなことは聞かない」


「俺は普通の職人じゃない」


 洗一は、布を丁寧にカウンターに置いた。


「汚れを落とすには、汚れのことを知らなければならない。同じように、素材を傷めずに落とすには、素材のことを知らなければならない。それが——クリーニングの基本だ」


 エルフは、しばらく黙っていた。


 やがて、彼女は——かすかに、笑った。


「面白い人間ですね。いいでしょう。教えます」


 彼女は、店の椅子に腰を下ろした。


 そして、エルフ絹について語り始めた。


 エルフ絹は、魔力を帯びた蚕から紡がれる糸で織られるという。


 通常の絹よりも繊維が細く、光を複雑に屈折させるため、虹色の光沢が生まれる。その光沢こそが、エルフ絹の価値の源泉だった。


「魔力が劣化すると、光沢も失われます」


 エルフ——名をエレナといった——は、静かな声で説明した。


「この織物は、私の曾祖母が織ったものです。百二十年前。以来、我が家の宝として受け継がれてきました」


「百二十年……」


「人間には、長いでしょう。エルフにとっては——三代です」


 洗一は、布をもう一度観察した。


 百二十年の間、大切にされてきた織物。しかし、時間の経過には抗えない。繊維は劣化し、汚れは蓄積し、本来の輝きは失われつつある。


「過去に、手入れはしたことがあるか」


「何度か。水で軽く洗い、日陰で乾かすだけです。それ以外の方法は——エルフ絹には使えないと言われています」


「水で洗っても、この黄ばみは落ちなかったと」


「はい。年々、ひどくなっています」


 洗一は、考えた。


 黄ばみの原因は、酸化と皮脂の蓄積だ。水洗いでは、表面の汚れは落とせても、繊維の奥に浸透した皮脂は落とせない。そして、落とせなかった皮脂が酸化し、黄変する。


 通常の絹なら、酸素系漂白剤で処理する。だが、エルフ絹は「酸に弱い」とエレナは言った。漂白剤は使えない。


 では、別のアプローチはないか。


「魔力が劣化している、と言ったな」


「はい」


「その魔力は——どこから来ている?」


 エレナは、首を傾げた。


「どこから——というと?」


「蚕から紡がれた時点で、魔力を帯びていたんだろう。その魔力は、時間と共に減少するのか? それとも、何かに吸収されるのか?」


 エルフは、しばらく考えていた。


「……正直に言えば、わかりません。エルフ絹の魔力について、詳しく研究した者はいないので」


「なるほど」


 洗一は、布を手に取った。


 【汚染鑑定】をもう一度発動する。


 今度は、汚れではなく、魔力の流れを見ようとした。


 ——魔力層:繊維に沿って分布。一部、汚染物質に吸着。


 見えた。


 魔力が、汚れに「吸着」されている。


 つまり、黄ばみの原因である皮脂や酸化物が、エルフ絹本来の魔力を奪っているのだ。だから、汚れが蓄積するほど、光沢が失われる。


「わかった」


 洗一は、布をカウンターに置いた。


「やり方が見えた」


「本当ですか?」


「汚れを落とすだけじゃダメだ。汚れに吸着された魔力を、繊維に戻す必要がある」


 エレナの目が、わずかに見開かれた。


「そんなことが——できるのですか?」


「やってみなきゃわからない。一週間くれ」


「一週間……」


「百二十年の汚れを落とすんだ。それくらいはかかる」


 エレナは、しばらく洗一の顔を見つめていた。


 その目には、疑いと——かすかな希望が混じっていた。


「……わかりました。一週間。お願いします」


 彼女は、立ち上がった。


「料金は?」


「成功報酬でいい。落とせなければ、金は取らない」


 エレナは、驚いた顔をした。


「そんな条件で——」


「自信があるわけじゃない。だが、やる価値はある」


 洗一は、布を丁寧に折りたたんだ。


「百二十年の歴史がある品だ。金のために無理して傷つけるわけにはいかない」


 エレナは、しばらく黙っていた。


 やがて、深く頭を下げた。


「……ありがとうございます」


 その声には、感謝と——何か別の感情が混じっていた。


 敬意、だろうか。


 洗一には、よくわからなかった。


 夜、店を閉めてから、洗一は一人で作業を始めた。


 ゴルドの作業着。エレナのエルフ絹。


 どちらも、これまでに経験したことのない素材と汚れだった。


 だが——怖くはなかった。


 むしろ、心が躍っていた。


 新しい汚れ。新しい素材。新しい挑戦。


 前世では、毎日が同じことの繰り返しだった。ワイシャツ、スーツ、コート、ダウンジャケット——決まった素材、決まった汚れ、決まった処理法。三十年間、同じことを繰り返してきた。


 もちろん、それにも意味があった。繰り返しの中で、技術は磨かれる。効率は上がる。品質は安定する。


 だが——


 この世界には、未知がある。


 魔力を帯びた金属。百二十年の歴史を持つ織物。そして——穢れという、概念的な汚染。


 全てが、新しかった。


 洗一は、ゴルドの作業着を広げた。


 まず、ミスリル粉の性質を調べる。


 【汚染鑑定】で観察する。


 ミスリル粉は、繊維に物理的に絡みついているだけでなく、魔力によって「接着」されているようだった。通常の方法——水や溶剤——では、物理的な絡まりは解消できても、魔力による接着は解消できない。


 では、魔力を中和すれば——


 洗一は、【溶剤生成】を発動した。


 今度は、物理的な溶剤ではなく、「魔力を溶かす溶剤」を精製しようとした。


 手のひらに、淡く光る液体が生まれた。


 前に穢れを落とすのに使った、あの「魔力溶剤」だ。


 洗一は、その溶剤を作業着の一部——目立たない裏側——に塗布した。


 五分待つ。


 確認する。


 ミスリル粉が——浮き上がっていた。


 繊維との接着が解消され、粉末が溶剤に溶け出している。


「いける」


 洗一は、静かにつぶやいた。


 原理は——わかった。


 あとは、全体に処理を施し、粉末を完全に除去するだけだ。


 三日あれば——十分だ。


 次は、エルフ絹。


 こちらは、より繊細な作業が必要だった。


 洗一は、布を作業台に広げた。


 まず、汚れを特定する。


 黄ばみの原因は、酸化した皮脂と、経年劣化による繊維の変色。これらが、魔力を「吸着」している。


 通常のアプローチ——漂白——は使えない。では、別の方法は?


 洗一は、考えた。


 汚れを「落とす」のではなく、汚れを「分離」する方法はないか。


 汚れと魔力が結合しているなら、その結合を解除し、汚れだけを取り除き、魔力は繊維に戻す——


 ——そんなことが、可能なのか?


 わからない。


 だが、やってみなければ、わからないままだ。


 洗一は、【溶剤生成】を発動した。


 今度は、「魔力と汚れの結合を解除する溶剤」を精製しようとした。


 イメージしたのは、酵素だった。


 タンパク質を分解する酵素のように、特定の「結合」だけを切断する——


 手のひらに、透明な液体が生まれた。


 見た目は水に近いが、わずかに——虹色の光沢がある。


 エルフ絹の光沢に、似ていた。


 洗一は、その溶剤を布の一部——黄ばみの最も薄い部分——に塗布した。


 十分待つ。


 確認する。


 黄ばみが——薄くなっていた。


 そして、その部分の光沢が——わずかに、回復していた。


「……成功だ」


 洗一は、深く息を吐いた。


 まだ、完全ではない。一部だけの処理で、全体がどうなるかはわからない。


 だが、方向性は——見えた。


 一週間。


 その期間で、百二十年の汚れを落とし、本来の輝きを取り戻す。


 不可能ではない。


 難しいが——やりがいがある。


 深夜、作業を終えた洗一は、店の窓から夜空を見上げた。


 月が、丸く輝いていた。


 この世界にも、月があるのだ。


 前世の月と、同じなのか、違うのか。それすらも、わからない。


 だが——


 汚れを落とす。


 その仕事は、同じだった。


 どんな世界でも、汚れは生まれる。使えば汚れ、放置すれば劣化し、時間が経てば変色する。


 それを——清潔にする。


 元の状態に戻す。


 それが、洗一の仕事だった。


 前世でも、この世界でも。


「セイイチさん」


 セラの声が、背後から聞こえた。


 振り返ると、彼女が廊下に立っていた。眠そうな目で、こちらを見ている。


「まだ起きていたのか」


「目が覚めて——セイイチさんの気配がしたので」


「寝ろ。明日も朝から仕事だ」


「はい……」


 セラは、頷いた。


 だが、すぐには去らなかった。


「セイイチさん」


「なんだ」


「私——クリーニングって、すごい仕事だと思います」


 唐突な言葉だった。


「汚れを落とすだけじゃなくて——大切なものを、守る仕事ですよね」


 洗一は、何も答えなかった。


「あのエルフの人——あの布、すごく大切にしてるって、わかりました。百二十年も——家族で受け継いできたものって」


 セラの目が、月明かりに照らされていた。


「それを——セイイチさんは、きれいにしようとしてる。大切なものを、守ろうとしてる」


「……」


「私も——そういう仕事がしたいです」


 セラは、小さく頭を下げた。


「おやすみなさい、セイイチさん」


 そして、廊下の奥に消えていった。


 洗一は、しばらく窓の外を見つめていた。


 大切なものを、守る仕事。


 そんなふうに考えたことは、なかった。


 ただ、汚れを落とす。それだけを考えてきた。


 だが——


 確かに、そうかもしれない。


 汚れの向こうには、いつも「持ち主」がいる。


 その人にとって大切なもの。思い出の品。家族の形見。仕事の道具。


 それを——清潔にする。


 元の状態に戻す。


 持ち主の手に、返す。


 それは——「守る」という言葉で表現しても、間違いではないのかもしれない。


 洗一は、月を見上げた。


 この世界で、俺は何を守れるだろうか。


 衣服を。道具を。思い出を。


 そして——


 穢れに侵された、この世界を。


 守れるだろうか。


 答えは、まだない。


 だが——


 やってみる価値は、ある。


 洗一は、そう思った。


【第3章・了】

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