第4章「呪われた外套」

それは、黒い布に包まれて運び込まれた。


 依頼人は、中年の商人だった。恰幅のいい体躯を高級そうな服で包み、首には金の鎖をかけている。だが、その顔色は土気色で、額には脂汗が浮いていた。


「これを——頼む」


 商人は、布の包みをカウンターに置いた。


 その瞬間、洗一の背筋に悪寒が走った。


 【汚染鑑定】が、自動的に起動する。


 ——警告:高濃度穢れ検出

 ——分類:呪術汚染(生命吸収型)

 ——危険度:極めて高い

 ——直接接触を避けよ


 赤い警告が、視界に浮かび上がった。


 これまで見たどの穢れよりも、強い。


「セラ、下がれ」


 洗一は、静かに言った。


「え——?」


「今すぐ。奥の部屋に行って、ドアを閉めろ」


 セラは、洗一の表情を見て、何かを察したらしい。無言で頷き、足早に奥へ消えた。


 商人は、不安げな顔で洗一を見ていた。


「……やはり、危険なものか」


「ああ。これは——呪いだ」


 洗一は、包みに手を伸ばした。


 直接触れるのは避け、布越しに中身を確認する。


 外套だった。


 深い紺色の、立派な外套。仕立ては上等で、裏地には絹が使われている。おそらく、かなりの高級品だろう。


 だが、その表面には——黒い靄が、這うように渦巻いていた。


 普通の人間の目には見えないだろう。だが、【汚染鑑定】を持つ洗一には、はっきりと見える。外套全体を覆うように、呪いが——生きているかのように蠢いている。


「どこで手に入れた」


「三週間前だ。隣国との国境にある、古道具屋で——」


 商人の声が、震えていた。


「店主が言うには、ある貴族の遺品だと。確かに、素晴らしい品に見えた。値段は高かったが——」


「着たのか」


「……ああ。一度だけ」


 商人は、自分の首元を無意識に触った。


「その夜から、おかしくなった。悪夢を見る。朝起きても疲れが取れない。体重が——三週間で十キロ以上落ちた」


 洗一は、商人を観察した。


 【汚染鑑定】を商人自身に向ける。


 ——対象:人間(成人男性)

 ——汚染状況:軽度の穢れ浸透(魂の表層)

 ——症状:生命力低下、慢性疲労、精神的不安定

 ——処置推奨:汚染源からの隔離、自然回復を待つ


 軽度——とはいえ、放置すれば悪化する。


 だが、今のところは「自然回復を待つ」ことが可能なレベルだ。呪いの本体である外套から離れれば、時間と共に回復するだろう。


「外套を手放してから、体調は」


「少しだけ——マシになった気がする。だが、完全には——」


「三週間も持っていたんだ。回復には、同じくらいの時間がかかる」


 洗一は、包みを持ち上げた。


 重い。


 物理的な重さではない。呪いの「質量」が、手のひらに伝わってくる。


「これを——落とせるか?」


 商人の目が、縋るように洗一を見つめていた。


「教会に持っていったが、浄化の儀式は——効かなかった。神殿の司祭に見せたら、『これは我々の手に負えない』と。処分しようとも思ったが、燃やしても——」


「燃やしても、燃えなかったか」


「……どうしてわかる」


「呪いは物理的な存在じゃない。火で焼いても、水に沈めても、消えはしない」


 洗一は、外套を作業台に置いた。


 呪い。


 前世には存在しなかった概念だ。


 だが——この世界では、確かに存在する。


 そして、洗一の【万物洗浄】は、穢れを「汚れ」として認識できる。


 なら——


「やってみる価値はある」


 洗一は、そう言った。


「ただし、保証はできない。呪いの浄化は——俺も初めてだ」


 商人は、しばらく黙っていた。


 やがて、深く頭を下げた。


「……頼む。どうか、頼む。あの外套さえなくなれば——私は——」


「落ち着け。必要以上に期待するな」


 洗一は、冷静な声で言った。


「できることはやる。だが、無理なら無理だと言う。それでいいか」


 商人は、顔を上げた。


 その目には、涙が浮かんでいた。


「……ありがとう。本当に——ありがとう」


 商人が去った後、洗一は店を閉めた。


 セラを呼び戻す。


「今日の依頼は、これで終わりだ。明日まで、この外套には近づくな」


「セイイチさん——あれ、呪いなんですか」


「ああ」


「……大丈夫、ですか?」


 セラの目には、不安が浮かんでいた。


 洗一は、少し考えてから答えた。


「正直に言えば、わからない。だが——やってみなければ、わからないままだ」


 それは、職人としての信条だった。


 未知の汚れ、未知の素材、未知の技術。


 三十年間、そういうものと向き合ってきた。


 わからないなら、わかるまでやる。


 それしか、方法はない。


 夜、店の奥で、洗一は外套と対峙した。


 作業台の上に広げられた外套。


 黒い靄が、ゆっくりと脈動している。まるで、生きているかのように。


 【汚染鑑定】を発動する。


 今度は、より深く、より詳細に分析する。


 ——対象:外套(呪術汚染)

 ——素材:羊毛(高級品)、裏地:絹

 ——呪いの構造:

   表層:接触吸収型(触れた者の生命力を吸収)

   中層:蓄積型(吸収した生命力を蓄積)

   深層:自己保存型(破壊を防ぐ自己修復機能)

 ——起源:不明(人為的呪術と推測)

 ——経過年数:推定50年以上


 三層構造。


 洗一は、その情報を噛みしめた。


 表層——触れた者から生命力を吸収する。


 中層——吸収した生命力を蓄積する。


 深層——自己を守るために、破壊を防ぐ。


 なるほど。


 火で燃やしても燃えなかったのは、深層の「自己保存機能」のせいか。呪いが自らを守っている。


 では、どうすれば——


 洗一は、考えた。


 シミ抜きの基本。


 汚れは、構造を持っている。その構造を理解し、適切な順序で処理することで、落とすことができる。


 呪いも——同じではないか?


 構造がある。


 表層から順に、処理していけば——


 だが、問題がある。


 シミ抜きでは、「油性処理→タンパク系処理→タンニン系処理→漂白」という順序がある。これは、汚れの性質に基づいている。


 呪いの場合は?


 何から始めればいい?


 洗一は、外套を観察した。


 黒い靄が、表面を這っている。


 ——表層は、「接触吸収型」だ。


 つまり、触れるものから何かを「吸い取る」性質。


 なら——逆に、「与える」ことはできないか?


 吸収するものに、吸収させたくないものを与える。


 それによって、吸収機能を飽和させる——


 いや、それでは根本的な解決にならない。


 別のアプローチを考える。


 汚れを落とすとは、何か。


 それは、「汚れと素材を分離する」ことだ。


 汚れが素材にくっついている。その「くっつき」を解除し、汚れだけを取り除く。


 呪いも——外套にくっついている。


 なら、その「くっつき」を解除できれば——


 洗一は、【溶剤生成】を発動した。


 魔力溶剤。穢れを溶かす液体。


 それを、外套の表面に塗布する。


 ——反応なし。


 黒い靄は、溶剤を無視するように脈動を続けている。


 やはり、単純な穢れとは違う。


 呪いは——もっと「構造化」されている。


 単に溶かすだけでは、落ちない。


 では——


 洗一は、記憶を辿った。


 前世で、最も落としにくかった汚れは何か。


 インク。


 特に、油性インクは厄介だった。繊維の奥まで浸透し、乾燥すると固着し、通常の方法では落ちない。


 だが、落とす方法はあった。


 アルコールを使う。


 インクの溶剤はアルコールだ。だから、アルコールを使えば、インクは再び溶け出す。


 つまり——汚れを「作った」ものを使えば、汚れを「解除」できる。


 呪いは——何で作られた?


 人為的呪術。


 誰かが、意図的にかけた呪い。


 その「意図」は——何だ?


 生命力の吸収。


 蓄積。


 自己保存。


 ——執念。


 誰かの、強烈な執念が、この外套に込められている。


 五十年以上前に。


 その執念を——「溶かす」ことができれば——


 洗一は、目を閉じた。


 【溶剤生成】を発動する。


 今度は、単なる魔力溶剤ではない。


 「執念を溶かす溶剤」を——イメージする。


 手のひらに、液体が生まれた。


 だが、それは——これまでの溶剤とは違っていた。


 透明ではない。淡い金色に輝いている。


 温かい。


 そして——優しい。


 不思議な感覚だった。これが「溶剤」なのかどうか、洗一にもわからなかった。


 だが、直感が告げている。


 これが——正解だ。


 洗一は、金色の溶剤を外套に塗布した。


 ゆっくりと、丁寧に。表面全体に、ムラなく広げていく。


 そして——変化が起きた。


 黒い靄が、震えた。


 脈動が乱れる。規則正しかったリズムが、不規則になる。


 そして——靄の一部が、浮き上がってきた。


 溶剤に溶け出している。


 金色の液体の中に、黒い糸のような何かが混じっていく。


「……いける」


 洗一は、作業を続けた。


 溶剤を追加し、外套全体を浸す。


 黒い靄が、次々と溶け出していく。


 だが——完全には落ちない。


 表層の靄は消えた。だが、中層と深層が残っている。


 【汚染鑑定】で確認する。


 ——表層:浄化完了

 ——中層:蓄積型(未処理)

 ——深層:自己保存型(未処理)


 予想通りだ。


 表層だけでは、呪いは落ちない。


 中層——蓄積されている生命力。


 これを、どうにかしなければ——


 洗一は、考えた。


 蓄積されているものを、「取り出す」方法は?


 シミ抜きでは、汚れを「吸い出す」ことがある。溶剤で溶かした汚れを、布やバキュームで吸い取る。


 同じ原理が、使えないか?


 洗一は、新しい布を用意した。


 そして、外套を布で覆った。


 【プレス&フォーム】を発動する。


 熱と圧力を加え、中の「蓄積物」を外に押し出す——


 布が、黒く染まった。


 何かが、外套から布に移っている。


 ——成功だ。


 洗一は、布を取り替え、作業を繰り返した。


 三回、四回、五回——


 やがて、布は黒く染まらなくなった。


 【汚染鑑定】で確認する。


 ——表層:浄化完了

 ——中層:浄化完了

 ——深層:自己保存型(未処理)


 残るは、深層のみ。


 自己保存機能。


 呪いが自らを守るための——最後の砦。


 これを突破すれば——


 洗一は、外套を観察した。


 黒い靄は、ほとんど消えていた。だが、繊維の奥——最も深い部分に、何かが残っている。


 核。


 呪いの核が、そこにある。


 それを取り除かなければ、呪いは再生する。


 では、どうやって——


 洗一は、記憶を辿った。


 最も深い汚れを落とすとき、何をするか。


 浸透。


 溶剤を繊維の奥まで浸透させ、汚れを内側から溶かし出す。


 だが、自己保存機能がある。外からの侵入を防いでいる。


 なら——内側から攻める方法は?


 洗一は、ふと思いついた。


 蓄積されていた生命力。


 それは、五十年以上かけて、多くの人間から吸い取られたもの。


 その中には——呪いをかけた本人の生命力も、含まれているのではないか?


 呪いは、かけた者の「執念」で作られている。


 なら、その執念を——「浄化」することはできないか?


 洗一は、目を閉じた。


 【溶剤生成】を発動する。


 今度は——「執念を溶かす」のではなく、「執念を昇華させる」溶剤を。


 恨み、憎しみ、悲しみ——そういった負の感情を、別の形に変える。


 浄化ではなく——昇華。


 手のひらに、新しい液体が生まれた。


 今度は——銀色だった。


 月の光のような、静かな輝き。


 洗一は、その溶剤を外套に塗布した。


 そして——祈った。


 祈りなど、柄ではない。前世では、宗教に関心を持ったことなどなかった。


 だが、この瞬間——洗一は、確かに祈っていた。


 この呪いをかけた者の魂が——安らかに眠れますように。


 五十年以上前の執念が——解き放たれますように。


 変化は、静かに起きた。


 外套の奥から——光が滲み出てきた。


 黒ではない。


 淡い、金色の光。


 それは、ゆっくりと上昇し、天井に向かって——そして、消えた。


 魂が——解放された。


 洗一は、そう直感した。


 【汚染鑑定】を発動する。


 ——呪術汚染:検出されず

 ——素材状態:良好

 ——浄化:完了


 落ちた。


 呪いが——落ちた。


 洗一は、深く息を吐いた。


 手が——震えていた。


 疲労ではない。


 何か別の感情が、体の奥から湧き上がってきていた。


 達成感。


 そして——畏怖。


 呪いを落とせた。


 だが同時に、洗一は理解していた。


 これは——ただの汚れ落としではない。


 誰かの魂を——解放したのだ。


 五十年以上前に呪いをかけた誰か。その人の執念を、怨念を、悲しみを——


 洗一は、自分が「何をしたのか」を、完全には理解できていなかった。


 だが、一つだけ確かなことがあった。


 この力は——世界を変えられる。


 穢れを落とす。呪いを落とす。


 もしかしたら——この世界を覆っている「穢れ」そのものを——


 洗一は、窓の外を見た。


 夜空には、星が輝いていた。


 神が言っていた。この世界は穢れに侵されている、と。


 百年を待たずに滅ぶ、と。


 なら——俺がすべきことは、決まっている。


 落とすのだ。


 この世界の穢れを、全て。


 一つずつ、一着ずつ、一人ずつ——


 清浄にする。


 翌日、商人が外套を受け取りに来た。


 彼の顔色は、昨日よりも良くなっていた。呪いの影響から回復し始めているのだろう。


「これは——」


 商人は、外套を手に取った。


 そして、目を見開いた。


「軽い……」


「呪いが落ちた。もう危険はない」


「本当に——本当に落ちたのか?」


「ああ。だが、念のため、しばらくは着ないでおけ。素材に残留している穢れが、完全に抜けるまで」


 商人は、しばらく無言で外套を見つめていた。


 やがて、その目から——涙がこぼれた。


「ありがとう……本当に、ありがとう……」


 彼は、洗一の手を握りしめた。


「恩人だ。あなたは——私の命の恩人だ」


「大げさだ。俺は——汚れを落としただけだ」


「汚れ? これが、ただの汚れだと?」


 商人は、首を振った。


「いや——あなたには、わからないのかもしれない。あの呪いが、どれほど恐ろしかったか。毎晩、悪夢を見た。自分が死んでいく夢を。体が冷たくなって、心臓が止まって——」


 彼は、深呼吸をした。


「でも、今は——何も感じない。体が軽い。頭がすっきりしている。生きている、という実感がある」


 洗一は、何も答えなかった。


 商人は、懐から財布を取り出した。


「いくらだ。いくらでも払う」


「金貨三枚でいい」


「三枚? そんな——」


「それ以上は受け取れない。俺は、仕事に見合った対価しか取らない」


 商人は、しばらく言葉を失っていた。


 やがて、金貨を三枚——そして、それ以上をカウンターに置いた。


「三枚は、仕事の対価だ。残りは——贈り物として受け取ってくれ」


「贈り物は——」


「頼む」


 商人の目が、真剣だった。


「命を救ってもらったんだ。せめて、これくらいは——」


 洗一は、しばらく考えた。


 そして、頷いた。


「……わかった。ありがたく受け取る」


 商人は、安堵したように笑った。


「この店のことは、広めさせてもらう。清浄亭——呪いすら落とせる、奇跡の店だと」


「大げさな宣伝はいらない。普通のクリーニング店だ」


「普通? とんでもない」


 商人は、首を振りながら去っていった。


 外套を大切そうに抱えて。


 セラが、奥から顔を出した。


「終わりましたか?」


「ああ」


「呪い——落ちたんですね」


「ああ」


 セラは、洗一の顔をじっと見つめていた。


「セイイチさん——大丈夫ですか?」


「何がだ」


「なんだか——疲れているように見えます」


 洗一は、自分の手を見た。


 確かに、疲れていた。


 昨夜の作業は、これまでのどの仕事よりも消耗した。魔力を大量に使ったせいもあるだろうが、それだけではない。


 精神的な疲労。


 誰かの執念と向き合い、それを解放するという作業は——想像以上に重かった。


「少し休む。午後の依頼は、お前が対応しろ」


「わかりました」


 セラは、真剣な顔で頷いた。


「任せてください」


 洗一は、奥の部屋に向かった。


 簡素な寝床に横たわり、目を閉じる。


 疲れている。


 だが——充実している。


 呪いを落とせた。


 誰かの命を救った。


 それは——前世では経験したことのない達成感だった。


 クリーニング。


 汚れを落とす仕事。


 だが、この世界では——それ以上の意味を持つ。


 命を救う。


 魂を救う。


 世界を——救う。


 そういう可能性が、この仕事にはある。


 洗一は、眠りに落ちる前に、そう思った。


 俺は——正しい道を歩いている。


 たぶん、きっと。


【第4章・了】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る