第2話 レモスカティー
5週間後の金曜日。あのフライヤーに載っていた、ドキュメンタリーを観ました。舞台は、神奈川県、郊外の森の中、とある幼稚園。裸足でフローリングを歩き回る子供たち、森へ出かけ、ドングリを拾って、芋を掘り起こし、自分でリュックに詰めて、持って帰る。そんな一日。先生たちは、悪いことをしたら、はっきりと叱ります。自分で使ったものは自分で片付けさせます。
コンビニのセルフレジ、自分のレシートを取らない人が続く。「1秒でも損したら終わり」といった風情です。酷い時には、レシートの綴りが床に届いてしまって。私はそれが大嫌いで、自分とは関係なくても、取ってごみ箱に捨てます。
「この長さは、社会の心の距離」。なんだか偉そうな言葉が浮かんで。
でも、今は、その苛立ちはすっかり消えました。篤とふたりきりのとき、どんな嫌な感情も消えます。怖いくらいに。テイクアウトしたカオマンガイをさっと食べた後、片付けもせずにソファで抱き合いました。灯りを消して、お互いの汗が肌にしみ込んだ後。暗い部屋で篤が、ぼそり。
「芋ほりで、泣くとか」と、つぶやく。
ずっと、待ってたの。声を。
「リュック、パンパンだったね」わたしも少しだけおどけて、返します。
「パンパン。重すぎ」
「持って帰れないの」
「あははは。かわいかった」
「かわいかったね」
生涯で何万文字の言葉を交わすのでしょう。知る由もありませんが、このたった3往復が、他の全部より価値があるって。直感して。
だから、わたしは、恐る恐る、質問をしました。心から喉を通って言葉になる途中。ほんのわずかな違和感があったけど。でも、それはきっと気のせいだから。
「もし、だよ。ほんとうにもし」
「なに?」
「……子供がいたとして」
「うん」
「ああいう時、なんていう?」
「…」
カーテンを突き抜けてくる街灯の灯り。LEDです。見えるか見えないか微妙な明るさの中だったのに、彼の眉が歪んで、鼻の奥が濡れてしまったのがわかりました。私は慌ててしまい、また謝りました。
「ごめん」
「ううん、考えただけ」
「嫌だった?」
「そんな訳ない。…俺なら」
「うん」
「自分の分だけにしな、って言う」
「…」
今度は、私が黙ってしまいました。だって、だって、それは一番欲しい言葉だったから。いつも悩んでいることを打ち明けてもいいかもしれない。って、初めてそう思ったから。
「あ、強すぎ?」
「ちがう」
周りに対して持っているネガティブな感情を、好きな人の前で語るのは、怖いけれど。
「嬉しいの」
「どうして?」
「嫌かもだけど、いっていい?」
「いいよ。聞きたい」
「ちゃんと…、叱れる親になりたくて」
「うん」
「ダメなことをダメって言えない人が多いって。…時々。本当に時々ね。そう思うの」
「…」
勇気の弱点は沈黙です。せっかく、せっかく、打ち明けたのに。これで、終わってしまうのでしょうか。生真面目さは、毎日を一緒に過ごすには、不適切な、強すぎる重力なのかも。
「ごめん。気持ち悪い?」
「ちがう」
「え?」
「ほんと、その通りだ」
わたしは、この時、彼がこの言葉をくれたから、ずっと生きていけると感じました。さらに、凄いことに、なんだか自分のことを好きになれるかもしれないと。1秒前と、自分が全く違う存在に思えて。この暗い部屋。彼の目が涙に濡れている。そして、なんだかドキドキして、暑い。暑い。熱い?
―少しだけ、気持ち悪い。
視界が歪んだ瞬間に、彼がふと立ち上がって、シーリングライトのスイッチを押して、灯りを付けました。もう、真暗でもスイッチの位置がわかるんだなって、ぼんやり考えていました。
「佳奈。どした?」
私の頬に両手を当てて、目をのぞき込みました。
「やっぱり。え。気分、悪い?」
とても心配そうに見つめられて、気分が良くなってしまいました。が、このまま気分が悪い振りをします。
「なんか、ちょっと、疲れたのかも」
と、ぐったりしているふり。実際には、とても元気ですが、このようなチャンスはめったにないので、渾身の演技を続けます。 彼は、あたふたして、目が白黒した後、スマホで指を滑らせて、なにかを調べている。 たぶん、「夜に急な熱 下げる方法」って、検索しています。
「待ってて」
彼はリカバリーウェアのまま、スマホだけをもって、私のクロックスを勝手に履いて、玄関から出ていきました。ガチャガチャ、ガチャンと音がして、外からちゃんと鍵を掛けています。その後、階段を駆け降りる音がして、タンッタンッタッタッ。階段を、一段飛ばして降りている。危ないです。やり過ぎてしまいました。薬とか、買ってきたらどうしよう。ただ、ふざけただけなのに。
彼が居なくなった部屋。ひとりでいる部屋。一緒に居る時は存在を忘れているスマホが、テーブルに置きっぱなしになっていました。ふと、最近ルナルナさんを見ていないことに気付きました。
5週間。5週間?5週間。―5週間!
前回の卵マークの日、ハートが付いていました。でも、まだ、周期がずれているだけの可能性があります。あと、1-2週間は様子を見ないと。ぬか喜びから転げ落ちるより、恐ろしいことはこの世にないのですから。
——ガチャリ。
閉める時はガチャガチャするのに、開ける時は一瞬なのは、彼の特徴です。
驚くほど冷静にスマホを隠しました。たぶん、彼はルナルナさんの意味を知らないので、そんな風に隠す必要はないのですが。
サンドラッグのビニール袋を持って、彼が隣に座ります。視線が、独特の月色の背景のカレンダーに気づいた気がして、ついクッションの下に隠しました。
「風邪薬と、熱上がったら困るから、冷えピタ、買ってきた」
「ごめん。大丈夫なのに、ありがとう。いくらだった?」
この冷えピタは一生冷凍保存しておきたい。代金を支払おうとします。
「いらない。あと、これ」
財布を出そうとする私を止め、彼はキレートレモンの小瓶?とアイスティーのペットボトルを出しました。そして、一度シンクでコップを洗って、アイスティーと氷をグラスに入れて、カラン、カラン。そこにキレートレモンをガムシロップ代わりにゆっくりと注ぎ、トポトポッ、ストローの袋をぺりぺりと空け、差し込んで、クルクル、しゅわっと、混ぜてくれました。
「疲れた時、飲むんだけど」
といって、差し出されたレモンティー?のような、何か。ビタミンCとクエン酸が豊富そうです。
「あ、気持ち悪かったら、やめといて」
「いただきます」
ストローに口をつけて、スッと吸い込むと、ちょうどいい具合に冷たい、レモンティーのような味と、割と強めの炭酸を感じました。不思議な味です。レモンスカッシュティー?
「…どう?味覚やばい?」
「おいしい」
「ほんと?まずいって言われたことある」
「えっと。レモスカティーが?」
「レモスカティーガ?」
「レモスカティーが。」(と、指をさして)
「レモスカティーガ?…スキル?」
あと一週間、望みが繋がったら、いいな。そしたら、ちゃんと話そう。一生に一度の決心をさせてくれたのは、酸っぱくてほんのりと甘いのに、妙に強炭酸な、アイスティーでした。
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