雨、階段、石鹸。
サンズイモドル
第1話 カムジャタン
階段を上ると、暖房の暖かさに気付きます。地下、ミニシアターの空気は湿っていて、「シネコンとは違う」とちょっとだけ自慢げな、独特の匂いがしました。踊り場で、折り返し、バランスを崩すと。篤が手をとってくれて。冷たく澄んだ外気と、温まる指先。
「ありがとう。」は、目を合わせます。「気にしないで。」は目を逸らします。
無言で、歩く、線路沿い。上り坂。高めのヒールは坂道は辛そうに見えるかも。でも、実は。上りなら、歩きやすい。下りは、大変です。総武線の黄色いライン。夜でも、すぐ分かる色。心地いいときは、静かに、手をつないだまま歩きます。
彼の視線がちらちらと周囲を確認している。仄かな、違和感。そのまま、坂を半分上り、人の気配が消え。路地裏の静寂は、大事な話をする場所。
「すごかったね」
と、言ってみたら、彼は堪えきれず、噴き出しました。
私も笑いを抑えきれなくなって。でも、映画の内容を笑ったのではありません。同じことを感じたって、6文字で伝わったのが、嬉しい。という笑顔です。ほんの少しだけずれた、二つの笑顔。
「区長さん…、普段はあんな」
「ね。密着ドキュメンタリー、やばいね」
「選挙の時と全然違った」
「選挙、いった?」
「うん」
「誰?」
「え?」
「誰に入れたの?」
「…」
「あはははは」
大人なのに、からかって喜ぶ。好きです。「もー。」と拗ねて怒った顔をしましたが、実際にはとてもとても、嬉しいのでした。今日の空気は透き通っていて、距離がいつもより、ほんの少しだけ、縮まって見えます。思い切って聞いてしまおうか?悩んでいます。実は、この映画を選んだのは。見終わった後、ある宣言をする為でした。気を付けないといけません。慎重に。自然に。無印のメイクボックスみたいに。
「もうやだ」
「あはは」
「…引っ越したい」
「そこまで?」
篤はさらに笑ったけれど、笑い事ではありません。こういう時は、ほんの少しだけ目線を左下、黙ります。
「どした?」
と、彼はすぐに感じ取ります。嬉しいです。
「ううん。篤のとこは?」
「うちの区長、なんか、めっちゃ道路重視してる」
「へー」
「整備進んで。歩道、広くなった。緑化で、木も植わって。こんな狭くない」
と、歩道を示す彼の指。確かに、ここ、中野区の路地は街路樹もなく、歩道は狭いです。段差も不明瞭で、車と人の空間が分離されていない。私が住む杉並区は、もっと狭くて、街路樹どころか、反対から人が来たら、身を寄せるか、車道に降りなきゃいけません。いつも、これが嫌なんです。——って。本題は道路ではなくて。言うなら、今。
「いいな。引越そうかな」
言ってしまいました。言葉にしてみると、想像を遥に超える圧力。自然に言う練習を何回もしたのに、大失敗です。
「あー」
彼の表情が――曇って。私の温度が、下がります。つい、謝ってしまいます。
「あ、ごめん」
「ううん」
彼の視線は甲州街道の反対側、セブンイレブン。声はフラットで、輪郭がない。話題を変えなきゃ。でも、手の指が冷たくて、言葉が出てきません。
間。
「佳奈、韓国料理好きでしょ。予約したんだ」
「そうなんだ、ありがとう。あ、寒い」
手がさらに冷えたので、マフラーの中に手を入れました。
「カムジャタン、おいしいらしいよ。いこ」
と、彼は手をつなごうとします。でも、ここでつないではいけません。手をつながないと、どうなるか。えっ、という顔をして。私の目を見て。彼はしばらく慎重に言葉を選びます。
「ご飯食べた後、家行っていい?」
「どうしようかな」
「フライヤー。たくさんもらったから」
と、ミニシアターの上映予定と大きな手。しかも、13枚も。まずい、これは、まずいです。
「うーん」
「次、どれみたい?佳奈なら、これかな」
彼が選んだのは、自然教育を重視する幼稚園のドキュメンタリー。正解です。今時、ミニシアター好きだなんて言って、付き合ってくれる人はいません。しかも、13枚の中から、これを選ぶ人と出会える確率は。どれくらいでしょうか。
「子供、好き?」
「うん。こういうとこで、育ったら。…幸せだろうね」
「来月だね」
「見に行こ」
「いいの?」
「これは、佳奈と見たい」
優しい表情、嬉しそうな声。自分でも気づかないうちに、機嫌が直っています。でも、沈黙を挟みます。お店に向かって歩く、静かな時間。彼は何度も私の顔を伺っています。横目で、ちらり、ちらり。何かを期待しています。もちろん、気づいていますが、まっすぐ前を向いて歩きます。
そして、お店が見えてきた時、まるで何でもないように、突然答えます。
「明日、予定ないの?」
「あ、うん。…でも、夜リモートで。ちょい仕事」
「じゃ、いいよ」
「やった」
「カムジャタン、美容にいいけど。食べる時は不細工だよ」
「え?」
「骨の周りのコラーゲン、こそげとるの」
「うわ。めっちゃききそう」
今日はこれでよし。だって、とても幸せだから。
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