第3話「白銀の訪問者と一食の温もり」

 アレクセイがスプーンを口に運んだ瞬間、部屋の空気が張り詰めた。

 給仕係は息を呑み、ガストンは厨房で祈っているだろうか。

 私は努めて冷静に、その反応を見守った。

 彼が口に含んだ瞬間、眉間のしわがさらに深くなる。

 吐き出されるか、怒鳴られるか。

 しかし、現実はそのどちらでもなかった。


 ごくり。

 喉が動く音が、静寂な部屋に響いた。


 アレクセイは目を見開き、自分の手元にあるスプーンと土鍋を交互に見つめた。

 そして、信じられないものを見るように、自分の胸元に手を当てる。

 そこには、確かな「熱」が生まれていた。


「……味が、する」


 彼は独り言のようにつぶやいた。

 それは掠れた、今にも消え入りそうな声だった。

 呪いによって失われていた味覚。

 砂を噛むようだった食事が、今は明確な輪郭を持って舌の上に存在している。

 鶏の濃厚な旨味、生姜の爽やかな刺激、米の優しい甘み。

 それらが渾然一体となって、彼の枯渇した体に染み渡っていく。


「熱い……腹の底から、熱が広がる」


 アレクセイは再びスプーンを動かした。

 今度は迷いなく、次々と口へ運んでいく。

 カチャカチャと食器が触れ合う音が、心地よいリズムを刻む。

 給仕係が信じられないという顔で私を見た。

 私も内心でガッツポーズをする。

 やはり、私の仮説は正しかった。

 彼の呪いは「冷気による拒絶」。

 ならば、その冷気を上回る「陽の気」を持つ食材と、私の魔力(微弱だが浄化作用があるらしい)を込めた料理なら、呪いを突破できる。


 あっという間に、土鍋の中身は空になった。

 アレクセイは名残惜しそうに最後の一滴まですくい取ると、深い息を吐きながら背もたれに体を預けた。

 その蒼白だった顔には、微かに血の気が戻っている。


「……美味かった」


 それは、この城に来て初めて聞く、彼の人間らしい言葉だった。

 彼は鋭い視線を私に向けたが、そこには以前のような殺気はなく、代わりに探究心が宿っていた。


「お前、何を入れた?」


「特別なものは何も。ただ、閣下の体に合う食材を選んで、丁寧に煮込んだだけです」


「嘘をつけ。俺の呪いは、高名な治癒師でも匙を投げたものだ。ただの粥で中和できるはずがない」


「信じていただけなくても構いません。ですが、現に閣下は完食なさいました」


 私はにっこりと微笑む。

 アレクセイはバツが悪そうに視線を逸らし、指先で机を軽く叩いた。


「……明日の朝も、持ってこい。ただし、今日と同じ味がしなかったら、その時は覚悟しておけ」


 それは事実上の、料理番への任命だった。

 私は深くお辞儀をした。


「承知いたしました、閣下」


 部屋を出た瞬間、給仕係の少女が私の手を取り、涙目で感謝を伝えてきた。

 だが、戦いはまだ始まったばかりだ。

 彼に必要なのは継続的な食事療法。

 食材の確保が急務となる。

 私はその足で、城の裏手にある荒れ果てた庭園へと向かった。

 温室があるはずだ。

 もしそこが使えれば、新鮮な薬草や野菜を育てられるかもしれない。


 温室は、期待通りボロボロだったが、骨組みはしっかりしていた。

 ガラスは割れ、雪が吹き込んでいるが、魔法で補修すればなんとかなるだろう。

 中に入ると、枯れた植物の残骸の中に、奇妙なものがうずくまっていた。

 真っ白な毛玉?

 いや、呼吸をしている。


「……犬?」


 近づいてみると、それは犬よりも一回り大きな、白い獣だった。

 銀色の毛並みは美しいが、薄汚れて所々毛玉になっている。

 さらに、後ろ足を引きずっており、怪我をしているようだった。

 獣はこちらに気づくと、グルルと低い唸り声を上げ、牙を剥いた。

 青い瞳が、警戒心で鋭く光る。


「大丈夫、何もしないわ」


 私は両手を広げ、敵意がないことを示す。

 だが、獣の殺気は消えない。

 これは普通の野生動物ではない。

 漂う魔力の質が高い。

 もしかして、魔獣?

 いや、この神聖な気配は……聖獣の類かもしれない。

 アレクセイのような強大な魔導師の領地には、高位の存在が集まりやすいという。


『お腹が空いているのね』


 獣の肋骨が浮き出ているのが見えた。

 私はポケットから、朝の残りの干し肉を取り出した。

 薬草入りの特製ジャーキーだ。


「これ、食べる?」


 ポイと少し離れた場所に投げる。

 獣はビクリと反応し、鼻をひくつかせた。

 いい匂いには抗えないらしい。

 警戒しながらも、素早い動きで干し肉をくわえ、一瞬で飲み込んだ。

 そして、もっとよこせと言わんばかりにこちらを睨む。


「ふふ、食いしん坊ね。いいわよ、まだあるから」


 私は残りの干し肉を手のひらに乗せ、じっと待った。

 獣は迷っていたが、空腹には勝てなかったようだ。

 恐る恐る近づき、私の手から直接肉を食べた。

 ざらりとした舌の感触。

 温かい。

 食べ終わると、獣は私の指先を一度だけ舐め、それから私の足元にすり寄ってきた。

 さっきまでの殺気が嘘のようだ。


「いい子ね。怪我をしているの?」


 後ろ足を見ると、魔獣にでもやられたのか、深い傷を負っていた。

 私はハンカチを取り出し、傷口を縛って止血する。

 そして、手のひらをかざし、なけなしの魔力を注いだ。

『治癒』の魔法だ。

 聖女と判定されなかった私だが、傷を塞ぐ程度の力はある。

 光が消えると、傷はふさがっていた。


『ありがとう』


 頭の中に、幼い少年の声が響いた気がした。

 驚いて周囲を見回すが、誰もいない。

 目の前の獣が、クリクリとした瞳で私を見上げているだけだ。


「まさか、あなたが喋ったの?」


「ワン!」


 獣は尻尾を振り、私の足に頭を擦り付けた。

 どうやら気に入られたらしい。

 その毛並みは驚くほど柔らかく、触れているだけで心が安らぐ。

 もふもふ。

 それは極寒の地における最強の癒やしだ。


「名前がないと不便ね。……スノー、なんてどう?」


 安直すぎるかと思ったが、獣――スノーは嬉しそうに吠えた。

 こうして私は、思いがけず強力な(そして愛らしい)相棒を手に入れた。

 スノーは私の後をついて回り、厨房に戻ると使用人たちが悲鳴を上げたが、私が「大人しい子です」と紹介すると、すぐに彼らのアイドルとなった。

 実は彼が、伝説の魔狼フェンリルの幼体であり、成長すれば城一つ簡単に吹き飛ばす力を持つ存在だと知るのは、もう少し後のことだ。


 その日の夕暮れ。

 厨房で夕食の準備をしていると、背後に気配を感じた。

 振り返ると、そこにはアレクセイが立っていた。

 腕を組み、不機嫌そうな顔をしているが、その視線は私の手元――煮込みハンバーグの鍋に釘付けになっている。


「……何を作っている」


「夕食の煮込みハンバーグです、閣下。薬草ソース仕立てで、疲労回復に効きますよ」


「毒見は?」


「まだですが、私が最初に食べます」


「……いや、いい。俺が毒見をしてやる」


 それはあまりに苦しい言い訳だった。

 私は笑いを噛み殺し、皿にハンバーグを盛り付けた。

 スノーが足元で「僕にもくれ」と尻尾を振っている。

 アレクセイはスノーを見ると、ギョッとしたように目を見開いた。


「おい、その獣……フェンリルか? なぜこんなところにいる」


「フェンリル? いえ、この子はスノーです。庭で拾いました」


「拾っただと……?」


 アレクセイは信じられないものを見る目で私とスノーを見た。

 フェンリルは誇り高く、人間になど絶対に懐かない最強の魔獣だ。

 それが、尻尾を振って餌をねだっている。

 アレクセイは頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。


「お前という女は……常識が通用しないらしいな」


「褒め言葉として受け取っておきます。さあ、冷めないうちにどうぞ」


 彼がハンバーグを口にし、その瞳が再び驚きに見開かれるのを見て、私は確信した。

 この城での生活、意外と悪くないかもしれない、と。

 外は猛吹雪だが、ここの食卓だけは、温かい湯気と美味しい匂いに包まれていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る