第2話「氷の城の孤独と残り野菜のスープ」

 薄暗い厨房の片隅で、小さな火が揺れている。

 私は借りた小鍋を火にかけ、かじかんだ手で食材の下処理を始めた。

 しなびた大根の葉は細かく刻み、芽が出かけたニンニクは包丁の腹で潰す。

 生姜のかけらは薄切りにし、乾燥したナツメとクコの実を水で戻す。


『水が冷たい……でも、この冷たさこそが美味しさの秘訣になる』


 北国の水は純度が高く、雑味がない。

 食材の味を引き出すには最適だ。

 私は鍋に水を入れ、まずは生姜とニンニクを投入する。

 火にかけると、すぐに香ばしい香りが立ち上ってきた。

 殺伐とした厨房の中に、ふわりと温かな空気が広がる。


「……なんだ、いい匂いがするな」


 近くにいた若い使用人が、鼻をひくつかせてこちらを見た。

 私は構わず、刻んだ大根の葉と、料理長の許可を得て拝借した干し肉の切れ端を加える。

 コトコトと煮込む音が、静寂な厨房に小さなリズムを生む。

 最後に塩をひとつまみ。

 これだけで十分だ。

 素材そのものが持つ力が、スープに溶け出している。

 約二十分後。

 鍋の中には、黄金色に輝くスープが出来上がっていた。

 大根の葉の緑と、クコの実の赤が鮮やかに映える。

 湯気とともに立ち上る香りは、冷え切った体に生きる活力を呼び起こすような、力強いものだった。


『できた……「極寒を生き抜くための養生スープ」』


 私は小さな器にスープをよそい、一口すする。

 熱い液体が喉を通り、食道を伝って胃の中に落ちる。

 その瞬間、ぽっと体の内側に灯りがともったような感覚に包まれた。

 生姜とニンニクの効果で血行が良くなり、指先の冷たさが引いていく。

 干し肉の旨味と野菜の甘みが、疲れた心に染み渡る。


「……おいしい」


 思わず声が漏れた。

 質素な食材でも、組み合わせ次第で最高の薬になる。

 これが薬膳の力だ。


「おい、それを一口くれないか」


 振り返ると、さっきの料理長が鍋を覗き込んでいた。

 彼の顔色は土色で、目の下には濃い隈がある。

 明らかな栄養失調と過労だ。

 この城の使用人たちは皆、限界ギリギリで働いているのだろう。


「どうぞ。毒見は私が済ませましたから」


 私は残っていたスープを彼に差し出した。

 料理長は疑わしげに器を受け取り、恐る恐る口をつける。

 次の瞬間、彼の目が大きく見開かれた。


「……っ! なんだこれは」


 彼は夢中でスープを飲み干し、ふう、と深く息を吐いた。


「体が……熱い。いや、温かい。胃袋が動いているのがわかる。あんなクズ野菜で、どうしてこんな味になるんだ?」


「食材の組み合わせです。体を温める生姜と、精をつけるニンニク、ビタミン豊富な大根の葉。冷え切った体には、何よりもこの温かさが必要ですから」


 料理長は空になった器を名残惜しそうに見つめ、それから私をまじまじと見た。


「あんた、ただの罪人じゃねえな。……名前は?」


「リリアナです」


「俺はガストンだ。……悪かったな、変なもん食わせようとして。このスープ、作り方を教えてくれないか。これなら他の連中も元気が出るかもしれねえ」


「喜んで」


 私の提案に、ガストンだけでなく、周囲の使用人たちの表情にも微かな生気が戻ったように見えた。

 その夜、厨房の隅で作られた大量のスープは、城の使用人たちの間で飛ぶようになくなった。

 彼らの顔に赤みが差し、強張っていた表情が和らぐのを、私は安堵の思いで見守った。


 しかし、城の主であるアレクセイの食事だけは、相変わらず手つかずのまま戻ってきていた。

 銀の盆に乗せられた豪華な肉料理は、完全に冷え切って脂が白く固まっている。


「公爵様は今日も召し上がらなかったのか?」


 ガストンが給仕係に尋ねる。


「はい……一口も。最近は水さえ喉を通らないようで……このままではお体が持ちません」


 給仕係の女性が悲痛な表情で首を振る。

 私はその冷え切った皿を見つめた。

 アレクセイ・ヴォルガード。

 最強の魔導師でありながら、食事を拒絶する男。

 彼の痩せこけた体と、あの生気のない瞳が脳裏をよぎる。

 ただの偏食や我儘ではない。

 何か、もっと深刻な理由があるはずだ。


『彼のあの様子……どこか、父が患っていた「魔力中毒」の症状に似ている気がする』


 魔力が強すぎるあまり、自身の肉体がそれに耐えきれず機能不全を起こす病。

 もしそうなら、通常の食事など砂を噛むようなものだろう。

 彼に必要なのは、栄養価の高い豪華な食事ではなく、魔力の流れを整え、呪われたように冷え切った内臓を動かすための「薬」となる食事だ。


「……ガストンさん。明日の公爵様の食事、私が一品だけ作らせてもらえませんか?」


 私の言葉に、厨房の全員が動きを止めた。


「公爵様の食事にか? 悪いことは言わねえ、やめておけ。公爵様は気に入らない料理を見ると、部屋ごと凍らせちまうこともあるんだぞ」


「でも、このままでは公爵様は衰弱してしまいます。私に試させてください。絶対に、口にしていただけるものを作りますから」


 私の真剣な眼差しに、ガストンは溜息をつき、頭を掻いた。


「……わかった。ただし、何かあっても俺は知らねえぞ。責任は自分で取れよ」


「はい、ありがとうございます!」


 私はガッツポーズをした。

 ターゲットは決まった。

 氷の公爵の、凍りついた胃袋。

 前世の知識とこの身に宿る不思議な感覚を総動員して、彼を救ってみせる。

 それは単なる同情ではなく、この過酷な地で私が生き残るための、最初の攻略戦でもあった。


 翌朝、私は早起きをして準備を始めた。

 目指すは、魔力を中和し、弱った胃腸にも優しい究極の朝食。

 材料は、昨日見つけた少し特別な穀物と、森の近くで採取されたという薬草。

 そして、私の秘密の切り札を使う時が来た。


 ***


 アレクセイの執務室は、冷蔵庫の中のように寒かった。

 書類に向かう彼の横顔は彫刻のように美しいが、その肌は透けるほど白い。

 ノックの音に応じることなく、彼は羽根ペンを走らせ続けている。


「……失礼いたします。お食事をお持ちしました」


 給仕係の震える声と共に、ワゴンが運び込まれる。

 アレクセイは顔も上げず、冷淡に言い放つ。


「下げろ。食欲はない」


「ですが、閣下。今日だけでも……」


「聞こえなかったのか? 下げろと言っている」


 室内の気温がさらに下がる。

 窓ガラスにピシリとヒビが入った。

 給仕係が恐怖で後ずさりしたその時、ワゴンの影から私が一歩踏み出した。


「もったいないお言葉ですが、閣下。一口だけでも味見をしていただけないでしょうか。毒見は済んでおります」


 アレクセイの手が止まった。

 彼はゆっくりと顔を上げ、不機嫌そうに眉をひそめて私を睨む。


「お前は……昨日の」


「はい、リリアナです。閣下のために、特別なお粥をご用意しました」


 私はワゴンから、蓋つきの小さな土鍋を取り出した。

 蓋を開けると、ふわりと湯気が立ち上り、優しい出汁の香りが部屋に広がる。

 それは「サムゲタン風の薬膳粥」。

 鶏ガラをじっくり煮込み、高麗人参の代わりになる根菜と、体を温める生姜、ナツメを入れた滋味深い一品だ。

 トロトロに煮込まれた米粒が、白く輝いている。


 アレクセイは怪訝そうにその粥を見つめた。

 いつもなら即座に凍りつかせて追い出すところだが、今日は何かが違った。

 その湯気が、彼の冷え切った頬に触れた瞬間、固く閉ざされていた何かが緩んだように見えたのだ。

 香りが、彼の無感覚な鼻腔をくすぐる。

 それは食事の匂いというより、生命の匂いだった。


「……なんだ、これは」


「ただのお粥です。ですが、閣下の体を内側から温める魔法をかけておきました」


 私はあえて挑発的な言葉を選び、スプーンを差し出した。

 アレクセイは私を鋭く見つめ返したが、やがて迷うようにスプーンへと手を伸ばした。

 彼の手は氷のように冷たかった。

 スプーンが粥をすくい、彼の唇へと運ばれる。

 その瞬間、彼の時間が止まった。

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