第十話(裏):歩幅の先にあるもの

 世界を救った翌朝の空気は、不自然なほどに軽やかだった。  


 瓦礫の撤去作業が始まった街の喧騒、復興の槌音、人々の交わす屈託のない笑い声。昨日までこの地を覆っていた、あの泥濘(ぬかるみ)のような死の予感は、一夜にしてどこか遠い異郷の出来事へと姿を変えていた。


 俺は一人、街の北門に立っていた。  


 背負った聖剣の重みだけが、俺の現実をこの場所に繋ぎ止めている。王都へ戻るための馬車はまだ来ない。朝の光が石畳の上に長い影を落とし、俺はその影の先端を、ただ無意識に目で追っていた。


「……本当に行くのかい、アルヴィン君。寂しくなるな」


 背後からかけられた声に、俺はゆっくりと振り返った。  


 そこには、いつもと変わらない、手入れの行き届いた装備を身に纏った「おっさん」が立っていた。


 カイル。

 この街で出会った、どこにでもいる平凡な冒険者。

 魔王を討ち果たした、この物語の真の主役。


「……勇者の仕事ってのは、報告までが遠足なんだよ。これ以上ここにいたら、俺の『正義』がこの街の平和に溶けて、腐っちまいそうだしな」


 俺は、自分の声が少しだけ震えていることに気づいた。  


 彼を見つめると、どうしても喉元まで出かかりそうになる問いがある。  


 あんたは、本当は何を知っているんだ。  


 あの二人の少女が放つ、人を、いや世界を容易に塗り替えてしまうあの異質な存在感を、あんたは本当に「運が良い」という一言で片付けてしまっているのか。


 俺は口を開きかけたが、言葉は形を成さなかった。

 問うことの無意味さが、俺の思考を支配していたからだ。  


 俺の逡巡を察したのか、カイルはふっと視線を遠くの空へと向けた。そこには不吉な欠けた月などもうどこにもなく、どこまでも平凡で、透き通った青が広がっている。


「……アルヴィン君。僕はね、冒険で一番大事なのは、隣を歩く人と歩幅を合わせることだと思っているんだ」


 カイルは、穏やかに、独り言のように呟いた。


「相手がゆっくり歩こうとしているなら、僕もそれに合わせる。たとえその人が、本当はもっとずっと速く走れる足を持っていたとしてもね。……それが、一緒に旅をするっていうことじゃないかな」


 俺は、目を見開いた。  


 心臓が不自然なほど強く脈打つのを感じる。  


 それは確信に近い「納得」だった。


 この男は、知らないのではない。  


 知った上で、自らの役割を選び取っているのだ。  


 神のような万能を振るう怪物たちが、あえて「弱い自分」を演じようとしているなら、自分はそれを全力で守り、全力で信じ抜く「優しい男」であり続ける。そのあまりにも強固で、残酷なまでの意思。


「……はは。とんだ食わせ物だ、あんたは」


 俺は、堪えきれずに自嘲の笑みを漏らした。  


 俺が守り抜こうとした「正義」なんて、この男が構築している「完璧な嘘」の前では、ただの稚拙な舞台装置に過ぎなかった。


 俺は、右手を差し出した。


「……あんたには敵わねえよ、おっさん」


 二人は、力強く握手を交わした。  


 俺の手に伝わるカイルの手の平は、無数の剣凧ができ、硬く、温かかった。そこには超越者の気配など微塵もなく、ただ実直に冒険者を続けてきた男の生々しい温度だけがあった。


「カイルさーん! もう、置いていっちゃいますよ!」

「……カイル。……はやく」


 街の方から、賑やかな声が響いた。  


 ネアとルルが、楽しげに手を振っている。その姿は、どこからどう見ても、一喜一憂し、主(あるじ)を慕う、危なっかしい新人冒険者の少女そのものだった。


「ああ、今行くよ! ……元気でな、アルヴィン君。またどこかで」


「……ああ。お前らも、そのおっさんをあんまり困らせるなよ」


 俺は背を向け、手を振りながら歩き出した。  


 彼らがこれから紡いでいく「幸福な嘘」が、いつか本当の奇跡となって、世界に定着することを。  


 そして、この不自然なまでに穏やかな日常が、一日でも長く続くことを、俺はただ、願っていた。







 アルヴィン君を見送り、僕たちはいつもの宿へと戻った。  


 街は魔王の襲撃という未曾有の災厄を乗り越えた興奮に包まれているけれど、僕たちの部屋だけは、不思議なほど静かな日常が戻っていた。


 夜。窓の外には星が瞬き、風が木の葉を揺らす音が聞こえる。  


 僕は一人、机に向かって、使い込まれた手入れ道具を広げていた。手にするのは、昨日の戦いで僕の命を繋ぎ、魔王の心臓を貫いた、あの短剣だ。


 丁寧に油を引いた布で、刃を拭う。  

 銀色の金属が、蝋燭の光を反射して冷たく輝く。  


 僕はふと、あの瞬間の感触を思い出していた。  


 障気の渦中で、僕の腕を押し進めた、あの異常なまでの重み。  


 ただの鉄のはずのこの短剣が、なぜ、触れるだけで魂を焼くような熱を宿していたのか。


「……まあ、いいか」


 僕は小さく呟き、深く追求するのをやめた。  


 僕はこの街で長く生きてきた。特別な才能はないけれど、人よりも少しだけ「違和感」に敏感ではあったかもしれない。


 ネアが剣を振るうとき、物理的な理屈では説明のつかない真空が生まれること。  

 ルルが呪文を紡ぐとき、世界の色彩がわずかに反転すること。  


 そして、彼女たちが僕を見る瞳の奥に、人間が抱くにはあまりに膨大で、あまりに純粋すぎる「何か」が渦巻いていること。


 けれど、僕にとっての真実は、それらではない。  


 僕にとっての真実は、ネアが僕の不格好な料理を「カイルさんの料理が世界で一番好きです」とはにかんで食べ、ルルが僕の服の裾をぎゅっと掴んで離さない。  


 その温もりこそが、僕の全てだ。


 彼女たちが「ただの人間」として僕の隣にいたいと願うなら。  


 彼女たちが、神としての万能よりも、人間としての拙さを愛おしんでいるなら。  


 僕は、どこまでも騙され続けよう。  


 彼女たちが安心して「自分はただの女の子だ」と信じられるように、僕は最高の「お人好しな冒険者」であり続ける。


 これは、僕たちのために用意された、完璧な舞台なのだ。  


 僕が彼女たちの前で胸を張って立ち続ける限り、この箱庭のような幸せは、決して壊れることはない。


「カイルさん、ハーブティーが入りましたよ! さあ、手入れはそれくらいにして、休みましょう?」


「……カイル。……お菓子、美味しいの、みつけた」


 隣の部屋から、楽しげな声が聞こえてくる。  


 僕は短剣を鞘に収め、最後にもう一度だけ、その感触を確かめた。  


 明日になれば、また新しい依頼を受けに行こう。  


 不器用な彼女たちに手を焼きながら、いつかこの嘘が、僕たちの本当の思い出として積み重なっていく日を願って。


「ああ、今行くよ」


 僕は蝋燭を吹き消し、柔らかな光の漏れる扉へと手をかけた。  


 扉の向こう側には、僕が守り抜いた、そして僕をどこまでも甘やかしてくれる、最高に幸福な「日常」が待っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

僕らの歩幅は、嘘でできている 淡綴(あわつづり) @muniyu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画