第十話(表):幸福な嘘

 視界が、漆黒の澱(おり)に染まっていた。  


 魔王が放つ障気は、単なる魔力の放射ではない。それは存在の肯定を奪う「無」の波動だ。  


 僕が握る長剣――日々手入れを欠かさず、僕を支えてくれた相棒が、耐えきれぬ悲鳴を上げて砕け散った。鋼の破片が地面に転がる音が、僕の敗北を告げる鐘の音のように聞こえた。


「カイルさん……!」

「……カイル、にげて……っ」


 背後で二人の叫びが聞こえる。  


 身体はすでに限界を超えていた。指先は感覚を失い、肺は焼けるような熱を帯びている。  


 だが、不思議と心は凪いでいた。  


 剣が折れた。力が及ばない。そんなことは、この圧倒的な絶望の前では些細な事実でしかない。僕が今なすべきことは、ただ一つの「意志」を貫くことだけだった。


 僕は震える手で、腰の鞘に手を伸ばした。  


 そこに差してあるのは、かつてネアの長剣が折れたとき、僕が貸し出した予備の短剣だ。後に彼女たちから返却された際、「大切に手入れをした」と言っていた一振り。


 それを引き抜いた瞬間、奇妙な感覚が僕を包み込んだ。  


 ただの鉄のはずの短剣が、まるで体温を持っているかのように温かい。  


 掌を通じて伝わってくるのは、彼女たちが注いでくれた慈しみと、この武器を握る僕への、祈りにも似た想い。  そ


 れは僕一人では決して到達できない、あまりに静かで強固な重みだった。


「――おおおあああああ!!」


 僕は、障気の渦中へと飛び込んだ。  


 常人ならば触れるだけで魂が崩壊する絶望のただ中を、僕はただの短剣を突き出し、泥臭く、無様に、けれど真っ直ぐに突進した。






 理解できなかった。  


 私の前に立ち塞がる男は、紛れもなく「凡夫」だ。  


 障気によって剣を砕かれ、その身はすでに死の淵にある。本来ならば、私の前に膝をつき、恐怖のあまり発狂していてもおかしくない存在。


 だが、その男が握りしめた「短剣」が、私の真理を焼き切っていた。  


 鉄という物質的な限界を超え、私の領域を侵食する熱量。それは武器の性能ではない。男の背後にある「何か」が、この一振りに絶対的な因果を付与している。


(なぜだ……。なぜ、屈せぬ)


 男が肉薄する。  


 私は道化として、この男に勝利を譲る脚本を受け入れた。それがこの地に座する超越者たちへの唯一の恭順だと理解していたからだ。  


 だが、至近距離で男の瞳を見た瞬間、私の魂は別の戦慄に震えた。


 カイル。


 その男の瞳の奥には、狂気的なまでの「一貫性」があった。  


 愛する者たちの前で「守る者」であり続けるという、一点の曇りもない覚悟だけがそこにあった。  


 たとえ世界がひっくり返ろうとも、たとえ明日死ぬ運命であろうとも、彼は自分自身を「ただの冒険者」として、彼女たちの「カイル」として完遂しようとしている。


 この男の揺るぎない実存こそが、あの怪物たちを繋ぎ止め、この歪な平和を成立させている。  


 彼が「普通」を諦めない限り、この世界は彼の箱庭であり続けるのだ。


(……見事だ、人間よ)


 私は道化としてではなく、一人の敗北者として、その刃を受け入れようと思った。  


 短剣が私の胸を貫く。  


 物理法則を超えた重みが、私の存在を根源から霧散させていく。  その痛みは、冷たく、そして不思議と清々しかった。


「お前が守ったのは……この地だけではないのだな」


 私は、消滅の間際、男の耳元でそう囁いた。  


 カイルは何も答えず、ただ必死に、力を込めて刃を押し込んだ。  漆黒の光が弾け、私の視界は白濁した静寂へと沈んでいった。






 衝撃が消え、視界を覆っていた闇が嘘のように晴れ渡った。  


 魔王の姿はどこにもない。  


 ただ、僕の右手に残る短剣の感触と、周囲を舞う銀色の塵だけが、今の戦いが現実であったことを物語っていた。


「……終わった、のか」


 膝が笑い、僕はその場に崩れ落ちた。  


 身体中の傷が、急激に熱を帯びて疼き始める。  


 広場には静寂が満ちていた。遠くから、先行していたアルヴィン君がこちらへ駆けてくる足音が聞こえる。


「カイルさん……!」

「カイル……!」


 聞き慣れた声。  


 振り返ると、ネアとルルが、震える足取りで僕の元へ駆け寄ってくるのが見えた。  彼女たちの顔は涙で濡れていた。  


 僕は、ボロボロになった身体を懸命に支え、彼女たちに向けて力なく笑った。


「……ごめん。……怖かった、だろう」


 僕が手を差し出すと、二人は吸い寄せられるように僕に縋り付いた。  


 ネアの温もりと、ルルの微かな吐息。  


 僕が守りたかった、この壊れやすくて尊い「日常」が、まだ僕の両腕の中にある。  


 その事実だけで、流した血も、折れた剣も、すべて報われたような気がした。


「……あんた、本当に……馬鹿野郎だな」


 辿り着いたアルヴィンが、聖剣を鞘に納め、呆れたような、けれどどこか清々しい顔で僕を見下ろしていた。


「……勇者の俺を差し置いて、あんなバケモンを一人で片付けるなんて。……おっさん、あんたが一番の『異常』だぜ」


「はは……。運が、良かっただけだよ。アルヴィン君や、二人が信じてくれたから……」


 僕はそう答えて、二人の頭を優しく撫でた。  


 空には、不吉な欠けた月ではなく、希望に満ちた夜明けの光が差し込み始めている。  


 僕の冒険は、まだ終わらない。  


 明日になれば、また新しい剣を探し、街を歩き、彼女たちの拙い料理を笑いながら食べる。  


 その「普通」の繰り返しこそが、僕が手に入れた、何よりも輝かしい勝利の証だった。

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