第六話(裏):共犯者の椅子

 壁一枚隔てた隣の部屋から、カイルの穏やかな寝息が響いている。  


 それが唯一の安全圏であることを知りながら、勇者アルヴィンは安宿の固い椅子で身を強張らせていた。机を挟んで向かい合うのは、昼間「頼りない新人」を演じていた二人の怪物だ。  


 蝋燭の炎は停止し、部屋の空気は彼女たちの意志によって、一滴の振動さえも許さない静寂へと固定されている。


「……それで。俺に、何をさせたいんだよ」  


 アルヴィンは、乾いた喉を鳴らして声を絞り出した。


「簡単よ、アルヴィン君。貴方はこの世界で最も優れた『正解』を知る観測者だわ」  


 ネアが、感情の読めない微笑みを浮かべて言う。その瞳には、昼間の愛らしさは微塵も存在しない。


「今日の私たちの立ち振る舞い。人間(カイルさん)の目から見て、どこに不自然な『余剰』があったか、貴方の視点から指南してほしいの」


「指南、だと……?」  


 アルヴィンは絶句した。王都の最高戦力である自分が、世界を創り変えかねない存在に対し、「下手な芝居のやり方」を教える。喜劇を通り越して、もはや悪夢に近い。


「……ネア、やりすぎた。あの一振り」  


 ルルが、淡々と反省を口にする。


「ゴブリンを払う瞬間の速度。音速を超えないよう抑えたけれど、衝撃波が地表をわずかに削った。……カイルは『風が強かった』と納得していたけれど、不自然」


「そうね、ルル。私も、あの『尻もち』は少しわざとらしかったかもしれないわ。……アルヴィン君、どうだったかしら?」


 二人の視線がアルヴィンに集中する。その視線の重みだけで、全身の骨が軋むような感覚に襲われる。だが、彼は逃げるわけにはいかない。カイルの隣という「特等席」に座るための代償だと、彼は自分に言い聞かせた。


「……全部だよ」  


 アルヴィンは投げやり気味に言った。


「ネア、お前の転び方は『転ぼうとして転んでいる』んだ。本当に足が滑ったなら、もっと無様に腕を振るはずだ。それからルル、お前の魔法は『着弾点が綺麗すぎる』。初心者はもっと狙いがぶれるし、魔力の残滓が周囲に飛び散るもんだ。……お前らのは、殺し方が洗練されすぎてて、逆に気持ち悪いんだよ」


 二人は、意外なほど真剣な表情で、アルヴィンの言葉を咀嚼するように沈黙した。


「……なるほど。無様さの欠如、ね。勉強になるわ」  


 ネアが、指先で卓上をなぞる。


「私たちはどうしても『目的』に対して最短距離を選んでしまう。けれど、人間にとっての日常とは、その『無駄な距離』そのものなのね」


「……ぶらす。汚す。……覚えた」  


 ルルが、小さく頷く。


 アルヴィンは、背中に冷や汗が流れるのを感じながら、言葉を継いだ。


「……なあ。お前ら、なんでそこまでして、あのおっさんの前で『弱者』でいたいんだよ。これだけの力があれば、世界を全部ひっくり返して、あのおっさんを王様にだってできるだろ」


 その瞬間、部屋の温度が絶対零度まで引き下げられた。  


 二人の瞳に宿ったのは、怒りではなく、深い、あまりに深い「理解の拒絶」だった。


「アルヴィン君。貴方はまだ、カイルさんの価値を測り違えているわ」  


 ネアの声が、氷の刃のようにアルヴィンの魂をなぞる。


「彼が玉座に座れば、彼は『王』という役割に拘束されてしまう。私たちが愛しているのは、あの人が笑い、あの人が困り、あの人が私たちの不出来を許してくれる、この『何者でもない時間』なの」


「……カイルを汚す、光はいらない」  


 ルルが、静かに断じる。


「私たちが、彼の日常を演じる。……邪魔をするなら、勇者(あなた)も、背景にする」


 アルヴィンは、本能的に理解した。  


 彼女たちにとって、自分の命など、カイルの「幸福な嘘」を補強するための使い捨ての部品に過ぎない。けれど同時に、彼女たちは「人間としての助言」を求めている。この矛盾した均衡の上に、今の平穏は成り立っている。


「……分かったよ。俺も、あのおっさんの隣にいたいからな。あんたらの『下手な芝居』に、最後まで付き合ってやるよ」


 アルヴィンの言葉に、ネアは満足げに目を細めた。


「ええ。貴方はこれからも、私たちの『教師』として、その特別な席に座り続けなさい」


 ネアが指を鳴らすと、蝋燭の炎は再び凡庸に揺れ始め、凍りついていた時間が動き出した。  


 二人の超越者は、再び「危なっかしい少女」の仮面を被り、深い闇の中へと溶け込んでいく。


 アルヴィンは、自分の震える手を見つめ、それから隣室の気配を伺った。  


 自分がこの「完璧に調律された嘘」の共犯者になったことを、彼は改めて痛感していた。  


 けれど、明日またあの「おっさん」の呑気な笑顔を見られるのなら、それも悪くない――そう思いながら、彼は聖剣の重みを忘れるように、深く息を吐いた。

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