第六話(表):観測者の席
勇者という役職には、常に「最適解」が求められる。
最短の歩幅で敵の懐に潜り込み、最小の魔力で最大の結果を出す。俺が王都で叩き込まれたのは、そうした効率と合理の極致だった。
だからこそ、今のこの状況は、俺の知るいかなる論理をもってしても説明がつかない。
「……なあ、おっさん。本当にこれでいいのか?」
俺は、腰の聖剣が重く感じるのを隠しながら尋ねた。
「ん? ああ、今日の依頼は街道近くのゴブリン退治だからね。アルヴィン君がいれば百人力だけど、基本は二人の練習が主役だよ」
カイル――この冴えないFランクのおっさんは、呑気に笑いながら森の小道を歩いている。
俺たちが今相手にしようとしているのは、冒険者なら誰もが最初に通る、卑小で、けれど数だけは多い群れだ。俺なら一振りで終わるような、価値もない仕事。
だが、その「価値のない仕事」に、二人の怪物は異常なまでの熱量を注いでいた。
「ネア、右から来るよ! 慌てずに剣を構えて」
「は、はいっ! カイルさんっ」
茂みから飛び出した一匹のゴブリンに対し、ネアが剣を振るう。
傍から見れば、それは力任せの危なっかしい一振りだった。ネアはわざとらしく足を滑らせ、尻もちをつきながらも、なんとかゴブリンを追い払ってみせる。
「あう……。やっぱり、剣って難しいです……」
顔を赤らめて立ち上がる彼女を見て、おっさんは「最初はみんなそんなもんだよ。怪我がないのが一番だ」と、優しく頭を撫でた。
……嘘をつけ、と俺は内心で戦慄した。
俺の目には見えていた。彼女が振るった剣の風圧だけで、背後の大樹の葉が一斉に震え、実際にはゴブリンが彼女に触れる数ミリ手前で、得体の知れない圧力がその生命活動を強制的に停止させていたのを。
彼女は今、「不器用な少女」という配役を完璧に遂行するために、その全能性を極限まで――おそらくは針の穴を通すような精密さで――抑え込んでいる。
「ルル、詠唱に集中して。ゆっくりでいいから」
「……ん。頑張る」
ルルがたどたどしく呪文を紡ぐ。
放たれた火球は頼りなく空を漂い、ゴブリンの足元を申し訳程度に焦がした。おっさんは「お、今のタイミングは良かったぞ!」と感心している。
だが、俺の『真眼』は騙せない。
彼女が放ったのは火球などではない。周囲の熱量そのものを一時的に改変し、カイルの視界に入る範囲だけを「適度な炎」に見せかけ、その実、背後の森に潜んでいた伏兵たちを一瞬で炭化させていた。
「……はは、笑えてくるぜ」
俺は、抜くことのない聖剣の柄を握りしめた。
彼女たちは、このおっさんの「普通」を守るために、必死に弱者を演じている。
おっさんはおっさんで、彼女たちのそんな下手な芝居を、一片の疑いもなく「一生懸命な新人の姿」として受け取っている。
この男は、何も気づいていない。
自分の隣を歩くのが、世界を容易に塗り替えられる「何か」だということも。
そしてその「何か」が、自分に褒められたい一心で、神としての誇りさえ投げ打って泥にまみれていることも。
……いや、違うな。
気づいていないからこそ、この箱庭は成立しているんだ。
もしもおっさんが彼女たちの正体に気づき、畏怖したり敬ったりしてしまえば、彼女たちはもう「ネア」や「ルル」ではいられなくなる。
おっさんの底抜けの鈍感さと、お人好しな優しさこそが、彼女たちを「人間」という枠に繋ぎ止めている、唯一の楔なのだ。
「アルヴィン君? どうかしたかい。退屈だったかな」
おっさんが、心配そうに俺の顔を覗き込んできた。
「……いや。別に」
俺は視線を逸らし、乱暴に頭を掻いた。
「ただ……あんたの教え方が、あんまり丁寧すぎるからさ。見てて、こっちまで初心者に返りそうな気分になっただけだよ。おっさん」
「はは、それは光栄だね。勇者様にそう言ってもらえるなんて」
おっさんは嬉しそうに笑い、また二人の訓練を再開した。
俺は、その三人の背中を少し後ろから追いかける。
俺がここにいる理由は、魔物を倒すためでも、勇者の力を誇示するためでもない。
この、不自然で、歪で、けれど世界のどこよりも穏やかな「嘘」が、いつか本当の奇跡になるまで。
俺はその隣で、一番贅沢な特等席に座る「観測者」でいようと決めたんだ。
「カイルさん、次はあっちの茂みを調べてみませんか?」
「そうだね。……アルヴィン君、置いていくよ!」
「……分かってるよ。今行くって」
俺の声が、いつもより少しだけ尖っていないことに気づきながら、俺は一歩、凡庸な冒険者たちの歩幅に合わせて足を踏み出した。
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