第五話(裏):観測者の役割

 深夜の静寂は、もはや彼女たちにとっての書斎のようなものだった。  


 壁一枚隔てた隣で、カイルの寝息が深い眠りの淵へと沈んでいく。その微かな呼吸音を基準点として、ネアとルルは再び「真実」の言葉を交わし始める。


「……アルヴィンという個体。意外と、理解が早かったわね」  


 ルルが、机の上に置かれた果実水を指先で揺らした。カイルが奢ってくれた、安価で甘すぎない飲み物。彼女はそれを、世界の何よりも高貴な滴であるかのように、一滴も零さずに見つめている。


「ええ。昨夜、彼の魂の深層に一瞬だけ『鏡』を置いた甲斐があったわ」  


 ネアが、自嘲気味に微笑む。


「自分の輪郭が、私たちの影にすら届かないと悟った時の彼の絶望。……あれは、人間にしては美しい『凋落』だったわ。けれど、彼はそこで壊れるのではなく、カイルさんの『器』に気づくことができた。そこだけは、勇者としての資質を認めてあげてもいいわね」


「……カイルのことを『おっさん』と呼び続けた。不敬だけど、あれは有用ね」  


 ルルが、感情を排した声で指摘する。


「王都の勇者が、Fランクの冒険者に跪き、崇めるような真似をすれば、世界はカイルの『異常性』を疑い始める。……けれど、あの子が生意気さを残したまま、けれど魂の底で屈服していれば、周囲はそれを『偏屈な英雄に慕われる、懐の深いベテラン』という美しい誤解にすり替えてくれる」


「そうね。アルヴィンは、カイルさんの『凡庸さ』を守るための、最も頑丈な『盾』になるわ」  


 ネアの瞳に、計算された冷徹な光が宿る。


「彼がカイルさんに敬意を払い、それでいて『おっさん』と呼び続ける限り、カイルさんの平穏は守られる。……あの少年に与えた恐怖は、そのまま彼への『忠誠心』という名の檻に変わる。彼はもう、私たちの領域を乱す存在ではなく、この舞台を補強する筋書きの一部よ」


 二人の少女は、暗闇の中で静かに微笑んだ。  


 アルヴィンが感じた「カイルの凄み」は、彼女たちが意図的に見せたものではない。彼がカイルに触れ、彼を受け入れることで、無意識に「神(彼女たち)を御している人間の異常性」を感じ取ったに過ぎない。


「……カイルは、あの子を許した」  


 ルルが、少しだけ嫉妬の混じった声で呟く。


「彼は、誰に対しても平等に『普通』を差し出す。……その残酷なまでの優しさが、私をこれほどまでに狂わせるというのに」


「それが、私たちの選んだ人だもの」  


 ネアが、ルルの肩にそっと手を置く。


「彼は、私たちがどれほど不自然な存在であっても、ニコニコとスープを勧めてくれる。……その温もりに溺れ続けるために、私たちは世界という盤面を、永遠に操り続けなければならないのよ」


 ネアが指先を振ると、部屋の温度がわずかに戻り、凍りついていた空気が再び流れ出した。  


 アルヴィンが味わった絶望も、彼が決意した成長も、彼女たちにとっては「カイルを快適に眠らせるための子守唄」の一節に過ぎない。


「……おやすみなさい、ルル。明日は、アルヴィン君がどんな『不器用な敬意』をカイルさんに見せるか、楽しみにしましょう」


「ええ。……彼が、カイルの隣を歩く私たちの『背景』として、正しく機能することを願いましょう」

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