第五話(表):跪く正義

 絶望とは、もっと劇的なものだと思っていた。  


 たとえば、強大な魔王に剣を折られるとか、守るべき民を救えなかったとか。そういう、詩篇に残るような凄惨なものだと。


 だが、昨夜僕が味わったのは、もっと静かで、逃げ場のない「事実」だった。


 宿のベッドで目を覚ましたとき、俺は自分が泣いていることに気づいた。  


 夢の内容は覚えていない。ただ、暗闇の中から僕を見下ろしていた「何か」の気配だけが、網膜に焼き付いている。  


 俺が誇りに思っていた『聖剣の加護』も、王都で天才と持て囃された魔力も、その気配の前では砂上の楼閣ですらなかった。それは宇宙の深淵が、たまたま人の形をしてそこに立っていた。ただそれだけのこと。  


 その巨大な「何か」の前に、俺という存在は、塵一粒ほどの価値もなかった。


「……っ、はぁ、はぁ……」


 震える指先で剣の柄を握る。だが、昨日まで感じていた絶対的な安心感はどこにもなかった。  


 俺は、あの二人の少女に喧嘩を売ったのだ。  


 いや、喧嘩ですらない。俺は、神々の庭に土足で踏み入り、その主である男を「おっさん」と侮蔑したのだ。


 ギルドへ向かう足取りは、鉛のように重かった。  


 逃げ出したかった。けれど、逃げれば、昨夜の「何か」が今度こそ俺を永遠の沈黙へと引き摺り込む。そんな確信があった。


 ギルドの扉を開けると、いつものように三人がテーブルを囲んでいた。


「……あ」


 俺と目が合った瞬間、あの金髪の少女――ネアが、ふわりと微笑んだ。  


 昨日と同じ、愛らしい新人の少女の笑顔。だが今の俺には、その背後に渦巻く「概念そのものを消去しかねない圧力」が見えてしまう。  


 隣の黒髪の少女――ルルは、相変わらず無関心そうにスープを啜っていた。だが、彼女が匙を置く小さな音が、俺の鼓動を止めるのに十分な衝撃として響く。


「おはよう、アルヴィン君。昨日はよく眠れたかい?」


 声をかけてきたのは、カイルだった。  

 昨日、俺が散々馬鹿にした、冴えないFランクの「おっさん」。


「……ぁ」  


 声が出ない。俺は、謝罪すべきか、あるいは逃げ出すべきか迷い、情けなく突っ立っていた。  

 昨日の無礼を考えれば、剣を抜かれても文句は言えない。あの二人が彼の一言で動くなら、俺の命は今、この瞬間にでも終わるはずだ。


「……あんた、……おっさん」  


 ようやく絞り出したのは、情けないほど震えた、いつもの呼び方だった。反射的に出た言葉に、俺は自分の心臓が凍るのを感じた。ネアとルルの視線が、わずかに鋭くなった気がしたからだ。


 だが、カイルは困ったように笑っただけだった。


「はは、朝から元気だね。勇者様は忙しいんだろう? よかったら、ここの果実水を飲んでいかないか。ここのは、甘すぎなくて美味しいんだ」


 彼は、昨日と全く変わらない態度で、俺に椅子を勧めた。  


 怒りも、蔑みも、卑屈さもない。  


 ただ、近所に住む年下の少年を気遣うような、あまりに平坦で、あまりに温かい「普通」の視線。


 そのとき、俺は唐突に理解した。  


 なぜ、あの化物じみた少女たちが、この男の隣にいるのか。


 彼には、強すぎる光も、深すぎる闇も、等しく「日常」として受け止めてしまう器がある。  


 彼女たちがどれほど異常な存在であっても、この男の隣にいる限り、彼女たちはただの「ネア」と「ルル」でいられるのだ。  


 俺のように、才能を「力」としてしか評価しない子供には、到底辿り着けない境地。


 俺が昨日まで自慢していた『正義』や『勇気』が、いかに浅はかで、独りよがりなものだったか。  


 目の前で「おっさん、おっさん」とからかわれながら、ニコニコとスープを飲んでいるこの男こそが、今の俺にとっては、誰よりも恐ろしく、そして誰よりも尊く見えた。


「……悪かった」


 小さな声だった。  


 カイルは「え?」と聞き返した。


「……悪かったって言ったんだよ。昨日の、全部。……あんたのこと、何も知らないくせに、偉そうに……」  


 俺は、椅子に座ることもできず、ただ深々と頭を下げた。  


 勇者の称号も、王都の誇りも、ここでは何の意味も持たなかった。


「……おっさん、あんた……凄えんだな」


 頭を上げた俺の目には、カイルの困惑した顔と、それを見て満足げに微笑む二人の少女の姿が映っていた。  


 俺の『正義』は、ここで一度、完膚なきまでに敗北した。  


 けれど、不思議と胸のうちは軽かった。


「……また、来るからな。おっさん」


 俺はそう言い残すと、逃げるようにギルドを飛び出した。  


 背負った大剣が、昨日よりもずっと重く感じられた。けれどその重みは、俺がこれから歩むべき本当の道のりの重さのように思えた。

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