第二話(裏):鉄の規律
壁一枚隔てた隣の気配が、凪いだ海のように静まり返るのを待って、二人は卓を囲んだ。
中心に置かれているのは、カイルから借り受けた一振りの短剣だ。
使い込まれた革の柄、幾度も研がれてわずかに痩せた刀身。カイルにとっては「予備」に過ぎない鉄の塊が、今の彼女たちにとっては、どの星の輝きよりも守るべき世界の中心だった。
「……ネア、始めて」
ルルが、微かな声で促した。
彼女は砥石の傍らに指を添え、そこに溜まった水が、月の光を反射して最も澄んだ色になる瞬間を見計らっている。
「ええ。……壊さないように。でも、研ぎ澄まさなければ」
ネアは、借りた短剣を掌に載せ、その重みを噛み締めるように目を閉じた。
自分の不注意で折ってしまった長剣。新しいものを買うための予算を貯めるまで、彼女はこの「カイルの一部」を預かることになる。それは名誉であると同時に、あまりに過酷な試練だった。彼女にとって、人の手で作られた鉄はあまりに脆く、気を抜けば指先の熱だけで溶けてしまいそうに感じられるから。
「角度は、カイルさんが教えてくれた通りに。……彼の視線が、刃の上を滑る時の角度を思い出して」
ルルの言葉は、数値ではなく感覚を求めていた。
ネアは頷き、ゆっくりと刃を砥石に滑らせる。シュッ、という規則的な音が、夜の静寂に溶け込んでいく。
一回、また一回と繰り返されるその仕草は、もはや単なる手入れではなかった。
カイルがこの剣を握り、手入れをしてきた時間の積み重なりを、自分たちの指先でなぞり直す作業。そこには、ただの鉄を「折れない奇跡」へと変えたいという、切実なまでの祈りが込められていた。
「……少し、やりすぎてしまったわね。今日の戦い」
ルルが、研ぎ音の合間にぽつりと呟いた。
「カイルさんが『新人離れしている』と。……驚かせてしまった。あれは、私たちの不器用さが足りなかったせいよ」
「ええ。彼が貸してくれたこの剣が、あまりに私の手に馴染みすぎて……。カイルさんの強さに守られているような心地がして、つい、振るう速度を間違えてしまったわ」
ネアは、砥石を見つめたまま、反省するように肩をすぼめた。
「犬を斬る瞬間、空気が震える音を彼に聞かせてしまったかもしれない。あれは、ただの鉄が立てていい音ではなかった」
「私の火球も、密度が高すぎた。もっと、夜風に吹かれて消えてしまいそうな、頼りない灯火(ともしび)でなければならなかったのに」
ルルもまた、カイルの驚いた顔を思い出し、胸の奥を小さな後悔が掠める。
彼らが目指すのは、彼を圧倒する力ではない。彼が「危なっかしいな」と苦笑しながら、その手を差し伸べてくれるための、等身大の弱さなのだ。
やがて、ネアの手元で短剣が静かな光を放ち始めた。
カイルが研いだものと似ているが、どこか本質的に異なる――まるで意思を宿したかのような、清冽な刃。
「ルル、貴女も触れて。……私たちの想いを、ここに」
ネアの誘いに、ルルは一瞬だけ躊躇い、それから慎重に短剣の柄に指を重ねた。
二人の超越的な意志が、カイルの温もりを残した鉄という器の中で、静かに混じり合う。
それはいつか、この世界に本当の終わりが訪れる時、ただ一人の凡人を守り抜くための「最後の楔」になるのかもしれない。そんな遠い予感さえ抱かせるほど、その剣は静謐な重みを増していた。
「……明日こそは、もっと上手に負けましょう」
ルルが、名残惜しそうに指を離した。
「カイルさんが『大丈夫、僕がついている』と言ってくれるような、そんな不器用な少女として」
「ええ。……彼の歩幅を、二度と追い越したりしないように」
ネアが蝋燭の灯を吹き消すと、部屋に本当の闇が訪れた。
壁の向こうで眠るカイルに、この祈りに近い対話が届くことはない。
けれど、枕元に置かれた一振りの短剣だけは、主人のために用意された「偽りの日常」を、その冷たい刃の奥で静かに、深く、受け止めていた。
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