第一話(裏):対価の重み

 安宿の古びた木床が、誰かの歩みに合わせて微かに軋む音が止んだ。


 薄い壁を隔てた隣の部屋から、カイルの穏やかな寝息が漏れ聞こえてくる。その生活の音を合図にするように、部屋の空気が一変した。  


 蝋燭の炎は揺れるのを止め、窓の外を走る夜風の音さえも、彼女たちの意識が作り出した透明な障壁の外側へと追いやられる。


「……ネア。これ、見て」  


 ルルが、机の上に数枚の銅貨を並べた。  


 それは今日、カイルが「僕たちの分け前だ」と言って、少し照れくさそうに彼女たちに手渡した金属の円盤だ。人の手から手へと渡り、鈍く光るその表面には、数え切れないほどの誰かの執着が染み付いている。


「……重いわね」  


 ネアが、その一枚を指先でなぞる。  


 彼女たちにとって、質量や重力という概念は、思考一つで書き換えられる変数に過ぎない。星の重みでさえ、彼女たちの前では意味を成さないはずだった。  


 けれど、今この指先にある数グラムの金属片は、どうしようもなく重い。それは、カイルと共に歩き、汗を流し、泥にまみれた「対価」として、初めて世界から受け取った実体だった。


「ええ。……これだけの重さを得るために、人はあんなにも必死に剣を振るのね」  


 ルルが、深い夜を湛えた瞳で銅貨を見つめる。


「私たちは、今日、彼の隣で『人間』として生きた。……その対価として支払われたこの銅貨は、私たちが本来持っているどんな力よりも、この世界における存在価値が確かなものに見えるわ」


「……だからこそ、誤差は許されない」  


 ネアの声が、静かに、けれど絶対的な調律のように響く。


「あの森の主との接触。……カイルさんが命を懸けようとした瞬間、私の内側で何かが暴走しかけた。彼を脅かす不確定要素を、根源から消去したいという衝動。……あれは、愛なんていう綺麗な言葉で片付けてはいけない、もっと醜い独占欲だわ」


「私も同じよ」  


 ルルが、自嘲するように視線を伏せる。


「彼の前を歩くのではなく、彼の後ろをついていくのでもない。ただ同じ土を踏み、同じ風を感じて歩く。……それが、これほどまでに不自由で、これほどまでに困難なことだとは思わなかった。私たちは、ただそこに在るだけで、世界の歩幅を狂わせてしまう」


「それでも、彼は笑っていたわ」  


 ネアが、薄い壁の向こう側、カイルが眠る気配のする方へと視線を向けた。


「『運が良かった』と、彼は言った。私たちの不自然さを、彼はその『幸運』という不確かな言葉で、優しく包み込んでくれたのよ。……その優しさに甘えてはいけないのに」


「……明日も、また歩くのね」  


 ルルが、銅貨を大切に布袋へと収める。金属同士が触れ合う、小さく、乾いた音。


「今日よりも、もっと自然に。もっと、脆く。……彼が私たちの手を引くその理由が、慈しみだけで満たされるように」


 ネアが、指先で蝋燭をなぞる。  


 炎は再び凡庸に揺れ始め、芯が小さく爆ぜる音が戻ってきた。  


 世界に、再び「時間」という曖昧なルールが還される。


 二人の少女は、お互いの瞳の奥に、依然として揺らぐことのない「絶対」が潜んでいることを確認し合う。  


 その「絶対」を、カイルという一人の凡人の隣で、いかにして「相対」へと変えていくか。


 夜の帳に包まれた安宿の一室。  


 神々ですら解けぬその難問を抱えながら、二人は明日を待つための、静かな、静かな呼吸を重ねた。

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