好きは置いたまま

好きは置いたまま

放課後の校舎は、いつもより静かだった。

三年生の教室は、終わりが近づいているせいか、音の反響が少ない。


あかりは自分の席に座ったまま、机の端にスマホを伏せて置いていた。

通知は来ていない。

それでも、来るかもしれないという予感だけが、ずっと残っている。


期待しすぎない。

踏み込みすぎない。


何度も自分に言い聞かせてきた言葉なのに、今日はうまく効かなかった。


「まだ残ってたんだ」


顔を上げると、紘太が立っていた。

特別な変化はない。

黒髪で、少し眠そうな目をしていて、制服の着方もいつも通り。


「帰る準備してた」


「それ、座ってるだけじゃん」


「考え事してただけ」


「考えすぎ」


そう言って、紘太は隣の席に腰掛けた。

自然な距離。

近すぎない、でも遠くもない。


この距離に慣れてしまったことが、少し怖い。


「今日さ」


紘太が口を開く。


「茉白に言われた」


「なにを」


「“曖昧なままにするなら、それを選んだ責任も持ちな”って」


あかりは小さく息を吐いた。


「正論」


「だよね」


「きついけど」


「きつい」


紘太は苦笑した。


教室の外から、部活の声が聞こえる。

自分たちだけが、時間に取り残されているみたいだった。


教室の後ろの扉が、控えめな音を立てて開いた。


「……まだいた」


入ってきたのは、山下茉白だった。

いつもなら真っ先に冗談を飛ばしてくるのに、今日は声のトーンが低い。


「珍しいね」


あかりが言うと、茉白は肩をすくめた。


「先生に捕まってた。進路の話。笑えないやつ」


そう言って、二人の様子を一瞬だけ見る。

視線は軽いのに、観察する目だった。


「なに、その空気」


「普通」


紘太が答える。


「普通ねえ」


茉白は机に寄りかかり、腕を組んだ。


「普通って、だいたい一番めんどくさいやつじゃない?」


あかりは何も言わなかった。

図星だから。


「ねえ」


茉白はあかりを見る。


「最近、無理してない?」


その聞き方は、探るようでも責めるようでもなかった。

ただ、事実を確認するみたいだった。


「別に」


そう答えた瞬間、自分でも嘘だと分かる。


「“別に”って言うとき、大体別じゃないよね」


茉白は軽く笑った。

けれど、すぐに表情を戻す。


「曖昧な関係ってさ」


その言葉に、紘太の肩がわずかに揺れた。


「楽なようで、一番体力使うんだよ」


「……急に深いこと言うじゃん」


紘太が言うと、茉白は肩をすくめる。


「コメディ担当にも、たまにはこういうターンあるの」


それから、少しだけ真面目な顔で続けた。


「好きかどうか決めないのも選択だし、

距離を保つのも選択。

でもね」


茉白は二人を交互に見る。


「選んでるなら、その責任も持たないと」


教室が静かになる。


「責任って、付き合うとか別れるとか、そういうのじゃないよ」


茉白は言葉を選びながら話した。


「誰かが限界まで我慢してないか、とか。

この関係が、ちゃんと安全か、とか」


あかりの胸が、少しだけ詰まる。


「笑って誤魔化せるうちはいいけど」


茉白は、いつもの調子で少しだけ口角を上げた。


「誤魔化せなくなったら、ちゃんと止まろ?」


その言葉は、優しいのに逃げ場がなかった。


紘太が小さく息を吐く。


「……耳が痛い」


「でしょ」


「でも、ありがとう」


茉白は一瞬だけ驚いた顔をしてから、照れ隠しみたいに言った。


「はいはい。感謝されるキャラじゃないんで」


バッグを肩にかけ、出口に向かう。


「じゃ、私は先帰る」


扉のところで振り返り、少しだけ声を落とす。


「二人とも、大人ぶらなくていいからね」


そう言って、今度こそいつもの軽さで手を振った。


「高校生なんだから」


扉が閉まり、再び静けさが戻る。


「……茉白、あんなこと言うんだな」


紘太がぽつりと言う。


「本気のときは、ああなる」


あかりは答えた。


「多分、ずっと見てたから」


その言葉は、二人とも否定しなかった。


茉白が教室を出ていってから、しばらく誰も口を開かなかった。


さっきまでの軽い会話の残り香と、

言葉にできなかった感情が、机の上に残っているみたいだった。


「……大人ぶらなくていい、か」


紘太が小さく呟く。


「茉白に言われると、なんか刺さるね」


「刺さるように言うから」


あかりは、机の上のスマホに視線を落とした。

触れていないのに、そこに答えがある気がしてしまう。


「俺さ」


紘太が言う。


「最近、自分のことちゃんと考えるようになった」


「珍しい」


「ひどい」


苦笑しながらも、続ける。


「前は、誰かと一緒にいることで安心したかった」


あかりは黙って聞く。


「でも、それって相手に寄りかかってるだけなんだって」


「……うん」


「だからさ」


紘太は一度、言葉を切った。


「この関係を続けるなら、依存じゃない形がいい」


その言い方は、逃げじゃなかった。

覚悟のある声だった。


「私は」


あかりがゆっくり口を開く。


「必要とされすぎるのが、少し怖い」


紘太が頷く。


「分かる気がする」


「でも」


あかりは続けた。


「全部切るのも違うと思ってる」


「俺も」


二人の答えは、ほとんど同時だった。


「好きとか」


あかりは少しだけ目を伏せる。


「そういう言葉を今使うと、きっと壊れる気がする」


「うん」


「だから」


あかりは顔を上げる。


「今は置いておこう」


紘太は、安心したように笑った。


「それ、逃げじゃないよね」


「選択」


即答だった。


「ちゃんと選んだ」


その言葉に、紘太は小さく息を吐く。


「じゃあさ」


「なに」


「無理そうなときは、ちゃんと言う」


「約束」


「約束」


チャイムが鳴る。

下校を告げる音。


二人は立ち上がり、並んで教室を出た。

廊下を歩く足音が、自然と揃う。


昇降口で靴を履き替え、外に出ると、空はもう夕方の色だった。


「じゃあ」


「うん」


今日は、引き止めなかった。


分かれ道で、あかりは一度だけ立ち止まる。


「紘太」


「なに」


「……ありがとう」


「こっちこそ」


それ以上、言葉は要らなかった。


背中を向けて歩き出す。

振り返らない。


恋愛として見れば、未完成。

はっきりした答えもない。


でも、

曖昧なまま流されるのではなく、

踏み込みすぎず、

切り捨てず、

自分を守る形で選び直した関係。


その中で、心は確かに――

ふわりと、誰かの方へ傾いている。


言わない。

今は、言わない。


それでも、その想いは、

ちゃんとここにあった。

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