心がふわっと揺れる瞬間
心がふわっと揺れる瞬間
正直に言うと、茉白はもう答えを知っていた。
朝の教室に入った瞬間、あかりの様子がおかしかったからだ。
席に着く前に、必要以上に前髪を整える。
机にカバンを置く手つきが、妙に慎重。
それから、ほんの一瞬だけ――誰かを探すように、視線が教室を泳いだ。
「はいはい、これは完全に来てるやつ」
茉白は心の中でそう呟きながら、自分の席に向かう。
恋に落ちる瞬間というのは、本人よりも周囲のほうが先に気づくものだ。少なくとも、茉白はそう思っている。
ほどなくして、教室のドアが開く。
佐藤紘太が入ってきた。
黒髪で、制服の着こなしもごく普通。
運動が得意なわけでもなく、成績が飛び抜けているわけでもない。
クラスの中では「印象に残りにくい側」の男子だ。
――なのに。
あかりの肩が、ほんの一瞬だけ強張った。
茉白はその変化を、見逃さなかった。
「ほらね」
声には出さず、心の中で笑う。
距離が変わると、空気も変わる。
本人たちが気づいていないつもりでも、ちゃんと滲み出るものだ。
茉白は椅子に腰掛けながら、そっと視線を戻した。
今日は余計なことは言わない。
観測者に徹する日だ。
(さてさて。今日はどこまで進むのかな)
そう思いながら、茉白は小さく息を吐いた。
*
あかりは自分でも、少しおかしいと思っていた。
朝からずっと、落ち着かない。
制服のリボンが曲がっていないか何度も確認して、意味もなくノートを開いては閉じる。
昨日まで、こんなことはなかったはずなのに。
「……なんで」
小さく呟いた声は、誰にも届かない。
原因が分からないわけじゃない。分かっているからこそ、認めたくなかった。
視界の端に、紘太が座るのが見える。
それだけで、胸の奥がふわっと揺れた。
「……ただのクラスメイトでしょ」
心の中でそう言い聞かせる。
勉強を一緒にしているだけ。放課後に少し話すだけ。
それ以上でも、それ以下でもないはずだった。
授業が始まり、ノートを取る。
黒板の文字を書き写しながらも、意識はどこか散漫だった。
「日向」
教師に名前を呼ばれ、はっと顔を上げる。
指された問題に答えると、教室に小さなどよめきが起きる。
「正解」
その一言に、ほっと息を吐いた。
席に戻ると、隣から小さな声が聞こえる。
「すごいな」
紘太だった。
特別大きな声でも、褒めるような口調でもない。ただの事実確認みたいな一言。
「……別に」
あかりはそう返す。
素っ気ない言い方になってしまったことは分かっている。でも、距離を縮めすぎるのが怖かった。
紘太は気にした様子もなく、ノートに視線を戻す。
その横顔を見て、あかりは胸の奥がちくりとする。
(冷たくしなくてもよかったかな)
でも、今さら取り消すこともできない。
あかりはペンを握り直し、前を向いた。
*
昼休み。
あかりは席で一人、パンをかじっていた。
茉白は友人たちに囲まれていて、今日はあまり近くに来ない。
視線を上げると、少し離れた席で紘太が友人と話しているのが見えた。
楽しそう、というほどでもない。
でも、穏やかな表情だった。
胸が、少しだけざわつく。
(私がいないほうが、自然なんじゃないかな)
そんな考えが、ふっと浮かぶ。
自分でも驚くほど、弱気な思考だった。
放課後。
あかりが帰り支度をしていると、後ろから声をかけられる。
「今日も、勉強する?」
振り返ると、紘太が立っていた。
いつもの、少し控えめな距離で。
「……うん」
短く答えると、紘太は小さく頷いた。
廊下を並んで歩く。
言葉は少ない。
でも、その沈黙が嫌じゃないことに、あかりは気づいてしまう。
階段を下りる途中、前を歩く生徒が急に立ち止まり、あかりは一瞬バランスを崩した。
そのとき、紘太の手が、あかりの腕に触れる。
「危ない」
ほんの一瞬。
それだけなのに、心臓が跳ねる。
「……ありがとう」
声が、少しだけ上ずった。
紘太はすぐに手を離し、何事もなかったように前を向く。
その無自覚さが、余計に胸を揺らす。
(なんで……こんなに)
理由は分かっている。
でも、まだ言葉にしたくなかった。
あかりは歩きながら、そっと息を整える。
この揺れは、まだ始まったばかりだ。
放課後の校舎は、昼間とは違って音が少ない。
廊下に残るのは、遠くの運動部の掛け声と、窓から入り込む風の音だけだった。
あかりと紘太は、並んで図書室へ向かっていた。
距離は近いのに、どこか慎重で、互いに踏み込まない歩き方。
「今日さ」
紘太が、前を見たまま話し出す。
「英語の模試、思ったよりできた」
「ほんと?」
「たぶん。あかりが言ってた覚え方、意外と使えた」
その言葉に、胸が少しだけ温かくなる。
自分が役に立ったという事実よりも、覚えていてくれたことが、嬉しかった。
「それならよかった」
あかりは、少しだけ口元を緩める。
図書室に入ると、すでに数人の生徒が机に向かっていた。
受験前の空気は静かで、どこか張りつめている。
二人は並んで席に座る。
ノートを開く音、ペンを持つ音、ページをめくる音。
それだけで時間が流れていく。
しばらくして、紘太が小さく息を吐いた。
「なあ」
「なに?」
「……こうやってるとさ」
一瞬、言葉を探すように間が空く。
あかりは顔を上げず、続きを待った。
「落ち着く」
それだけだった。
なのに、胸が大きく跳ねた。
「……そ、そう」
平静を装って答えるけれど、心臓の音は隠せない。
落ち着く。
それって、どういう意味なんだろう。
(友達として?
それとも……)
考え始めた瞬間、思考を止める。
期待しすぎるのは、よくない。
そうやって、何度も自分に言い聞かせてきたはずだった。
⸻
帰り道。
校門を出ると、空はすでに夕暮れ色に染まっていた。
途中、コンビニの前で紘太が足を止める。
「飲み物、買ってく?」
「うん」
店内に入ると、蛍光灯の光がやけに明るく感じる。
あかりは棚の前で立ち止まり、どれにしようか迷っていた。
「どれにする?」
「……まだ決めてない」
そう答えた瞬間、紘太が自然に隣に立つ。
距離が近い。
それだけで、思考が一瞬止まる。
「これ、前好きって言ってなかった?」
指差されたのは、以前何気なく話した飲み物だった。
覚えていたことに、また胸が揺れる。
「……よく覚えてるね」
「なんとなく」
“なんとなく”。
その言葉が、少しだけ引っかかる。
(私だけが意味を持たせてるのかな)
レジを済ませ、店を出る。
缶を開ける音が、静かな道に響いた。
「そういえばさ」
紘太が、少し迷うように言う。
「クラスの女子に、最近聞かれた」
「……なにを?」
胸が、嫌な予感で締めつけられる。
「日向と仲いいよね、って」
あかりは、一瞬だけ言葉を失う。
それは、どういう意味で言われたんだろう。
「で?」
できるだけ、普通の声を出す。
「別に、否定もしなかったけど」
否定しなかった。
その言葉に、少しだけ期待が生まれる。
でも次の言葉で、その期待は揺らぐ。
「だって、仲いいのは事実だし」
――それだけ。
あかりは、無意識に視線を逸らした。
仲いい。
それ以上でも、それ以下でもない。
「……そっか」
自分でも驚くほど、声が淡々としていた。
「なんか、変なこと言った?」
紘太が、不安そうに聞く。
「別に」
そう答えたものの、心の中は静かに波打っていた。
(私、なにを期待してたんだろ)
家が近づくにつれて、会話は少なくなる。
別れ際、紘太が手を振る。
「また明日」
「……うん、また」
背を向けて歩き出した瞬間、胸の奥に残る感情を、あかりはうまく言葉にできなかった。
期待して、
少し浮かれて、
でも、ちゃんと現実に戻された気がする。
それでも。
(嫌いには、なれないんだよね)
その気持ちだけは、はっきりしていた。
茉白が席を立ってから、教室にはあかりと紘太だけが残った。
窓の外では、部活帰りの声が遠くに響いている。グラウンドの掛け声、金属バットの乾いた音、自転車のブレーキが鳴る音。それらが混ざり合って、放課後特有のざわめきになっていた。
「……気まずい?」
紘太が、少し困ったように笑って言った。
あかりは首を横に振る。
「別に。気まずくはない」
即答だったせいか、紘太は逆に少し戸惑った表情をした。
「即答すぎない?」
「事実だから」
あかりは机に肘をつき、頬杖をついた。視線は紘太ではなく、窓の外に向いている。
紘太は、その横顔を盗み見るようにしてから、また視線を逸らした。
――こういうところだ。
あかりは自分でも思う。
相手に誤解されやすい言い方を、わざと選んでしまうところ。
冷たいつもりはない。
ただ、余計な期待をさせたくないだけだ。
「さっきのさ」
紘太が、少し声のトーンを落とした。
「茉白、なんか言ってた?」
あかりは一瞬だけ目を伏せ、それから正直に答えた。
「……別に。紘太が相変わらずだって」
「それ悪口じゃん」
「本人も自覚してると思う」
紘太は苦笑いした。
「まあ、否定はできない」
その笑い方が、あかりは少しだけ引っかかった。
冗談に見せているけれど、どこか無理をしている笑い方。
最近の紘太は、そういう瞬間が増えている気がする。
「ねえ、紘太」
「ん?」
「疲れてる?」
その問いに、紘太は一瞬だけ言葉に詰まった。
「……普通じゃない?」
「“普通”って言うとき、大体普通じゃないよね」
あかりの声は淡々としていた。責めるでも、心配を押し付けるでもない。
ただの確認。
紘太はしばらく黙ってから、肩をすくめた。
「まあ……ちょっとだけ」
「理由は?」
「それ聞く?」
「聞くだけ」
あかりは視線を向けた。逃げ道を塞ぐような目ではない。ただ、ちゃんと向き合う目だった。
紘太は観念したように息を吐く。
「将来のこととか。進路とか。あと、俺って何ができるんだろうなーって」
「急に重い」
「自覚はある」
紘太は笑ったが、その笑いはさっきより弱かった。
「みんな、なんか“できる人”っぽいじゃん。勉強できるとか、部活で結果出してるとか」
「紘太は?」
「……どれも中途半端」
あかりは少し考えてから言った。
「それ、悪いこと?」
「え?」
「中途半端って、全部少しはできるってことでしょ」
紘太はきょとんとした顔をする。
「そんな言い換え初めて聞いた」
「今考えたから」
あかりは少しだけ口角を上げた。
「全部ダメより、全然いいと思うけど」
「慰めてる?」
「事実を言ってる」
紘太は、しばらくあかりを見つめてから、ふっと力を抜いたように笑った。
「……あかりってさ」
「なに」
「冷たいこと言うくせに、たまに優しいよね」
「それ褒めてる?」
「かなり」
あかりは返事をしなかった。
褒め言葉をどう受け取ればいいのか、いまだによくわからない。
その沈黙を、紘太が破る。
「でもさ、あかりはいいよな」
「どこが」
「ちゃんと距離取れるところ」
その言葉に、あかりの胸が少しだけざわついた。
「距離?」
「人とさ。近づきすぎないじゃん」
あかりは、ゆっくり瞬きをした。
「……それ、褒めてる?」
「羨ましい」
紘太の声は、さっきよりも真剣だった。
「俺、すぐ依存しそうになるから」
あかりは何も言えなかった。
否定も肯定もできない。
それは、紘太自身が自覚している弱さだから。
「だからさ」
紘太は続ける。
「もし俺が、変な距離感になりそうだったら」
「だったら?」
「ちゃんと言って。冷たくてもいいから」
あかりは少しだけ目を細めた。
「……今も、割と冷たいと思うけど」
「それくらいがちょうどいい」
紘太はそう言って、立ち上がった。
「そろそろ帰る?」
「うん」
二人は並んで教室を出た。
廊下の夕方の光が、長い影を床に落としている。
並んで歩いているのに、触れない距離。
近すぎず、遠すぎず。
あかりは思う。
この距離が、いつまで続くのか。
それとも、いつか自然に変わってしまうのか。
わからない。
でも――今は。
この揺れている感じが、悪くないとも思っていた。
並んで昇降口まで歩いたところで、紘太が足を止めた。
「俺、今日はこっち」
そう言って指したのは、駅とは反対方向の道だった。
「あ、塾?」
「いや、今日はサボり」
「堂々と言うことじゃない」
あかりがそう言うと、紘太は少し得意げに笑った。
「たまにはいいでしょ。真面目キャラじゃないし」
「最初から真面目キャラじゃないと思うけど」
「それ言う?」
靴を履き替えながらの軽口。
ほんの少し前までの重たい空気が、嘘みたいに薄れていた。
昇降口を出ると、空はもう夕方の色になっていた。
オレンジと青が混ざった、はっきりしない色。
「じゃ」
あかりが先に言った。
「うん」
紘太は一歩だけ踏み出して、それから止まる。
「……あかり」
「なに」
振り返ると、紘太は少し迷ったような顔をしていた。
「さっきの話さ」
「どれ」
「距離のやつ」
あかりは無言で続きを待った。
「俺さ、あかりといると、ちょっと安心するんだよね」
言い方は軽い。でも、目は冗談じゃなかった。
「でも、それって多分、依存の一歩手前なんだと思う」
あかりは息を詰めた。
「だから」
紘太は続ける。
「近づきすぎないでいられるなら、その方がいい気もしてて」
「……それで?」
「それでも、たまには話してほしい」
少しだけ、弱さを隠さない声。
あかりは、ゆっくり言葉を選んだ。
「紘太」
「うん」
「私は、誰かに必要とされるのが、あんまり得意じゃない」
紘太の表情が、わずかに揺れた。
「でも」
あかりは続ける。
「話すのが嫌なわけじゃない」
「それ、どう違うの」
「……違う」
あかり自身も、うまく説明できない。
「依存されるのは苦手。でも、共有するのは嫌いじゃない」
「難しいな」
「自分でもそう思う」
二人の間に、少しだけ沈黙が落ちた。
気まずさというより、言葉を整理するための間。
その沈黙を破ったのは、紘太だった。
「じゃあさ」
「なに」
「共有ってことで、今からコンビニ寄らない?」
「は?」
「新作のアイス、当たりだったら半分こ」
「共有の意味、それ?」
「俺なりの解釈」
あかりは一瞬、呆れた顔をしてから、ふっと小さく笑った。
「……溶けたら嫌だから、五分以内ね」
「条件厳しっ」
二人は並んで歩き出した。
コンビニまでの道は、住宅街を抜ける短い道。
夕飯の匂いが、ところどころから漂ってくる。
「ねえ」
歩きながら、紘太が言った。
「もしさ、俺がまた変な方向に行きそうだったら」
「うん」
「ちゃんと引き戻して」
あかりは前を向いたまま答える。
「その代わり」
「代わり?」
「私が一人になりたいときは、ちゃんと放っておいて」
「……難易度高いな」
「でも、できるでしょ」
紘太は少し考えてから、笑った。
「努力はする」
「“努力する”って言う人、だいたいできない」
「厳しっ」
それでも、その声は楽しそうだった。
コンビニに着き、アイスケースの前で並ぶ。
どれにするかで、また少しだけ言い合いになる。
結局、二人が選んだのは、無難なバニラ。
「冒険しないね」
「失敗したくないから」
「性格出てる」
レジを出て、店の前でアイスを半分に分ける。
「汚く割ったら怒るから」
「そんな雑じゃないって」
割れ目は少し歪だったが、あかりは何も言わなかった。
一口食べて、あかりが言う。
「……普通」
「それ褒めてる?」
「期待しすぎないって意味」
「じゃあ俺たちみたいだな」
あかりは一瞬、言葉に詰まった。
「どういう意味」
「普通で、はっきりしなくて、でも悪くない」
紘太はそう言って、アイスをもう一口かじった。
あかりは何も言えず、少しだけ視線を逸らす。
夕方の風が、二人の間を抜けていった。
恋愛として見れば、きっと曖昧で、進展もない関係。
周りから見れば、冷めているようにも映るだろう。
それでも。
あかりは思う。
踏み込みすぎないからこそ、壊れない距離がある。
期待しすぎないからこそ、続く関係もある。
今はまだ、それでいい。
アイスの棒だけが残り、二人は同時にゴミ箱に捨てた。
「じゃ、今度こそ帰ろ」
「うん」
分かれ道で、それぞれ違う方向へ。
少し離れてから、紘太が振り返って手を振った。
あかりは、ほんの一瞬だけ迷ってから、小さく手を振り返す。
それだけで、今日は十分だった。
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