心がふわっと揺れる瞬間

心がふわっと揺れる瞬間

正直に言うと、茉白はもう答えを知っていた。


朝の教室に入った瞬間、あかりの様子がおかしかったからだ。

席に着く前に、必要以上に前髪を整える。

机にカバンを置く手つきが、妙に慎重。

それから、ほんの一瞬だけ――誰かを探すように、視線が教室を泳いだ。


「はいはい、これは完全に来てるやつ」


茉白は心の中でそう呟きながら、自分の席に向かう。

恋に落ちる瞬間というのは、本人よりも周囲のほうが先に気づくものだ。少なくとも、茉白はそう思っている。


ほどなくして、教室のドアが開く。

佐藤紘太が入ってきた。


黒髪で、制服の着こなしもごく普通。

運動が得意なわけでもなく、成績が飛び抜けているわけでもない。

クラスの中では「印象に残りにくい側」の男子だ。


――なのに。


あかりの肩が、ほんの一瞬だけ強張った。

茉白はその変化を、見逃さなかった。


「ほらね」


声には出さず、心の中で笑う。

距離が変わると、空気も変わる。

本人たちが気づいていないつもりでも、ちゃんと滲み出るものだ。


茉白は椅子に腰掛けながら、そっと視線を戻した。

今日は余計なことは言わない。

観測者に徹する日だ。


(さてさて。今日はどこまで進むのかな)


そう思いながら、茉白は小さく息を吐いた。



あかりは自分でも、少しおかしいと思っていた。


朝からずっと、落ち着かない。

制服のリボンが曲がっていないか何度も確認して、意味もなくノートを開いては閉じる。

昨日まで、こんなことはなかったはずなのに。


「……なんで」


小さく呟いた声は、誰にも届かない。

原因が分からないわけじゃない。分かっているからこそ、認めたくなかった。


視界の端に、紘太が座るのが見える。

それだけで、胸の奥がふわっと揺れた。


「……ただのクラスメイトでしょ」


心の中でそう言い聞かせる。

勉強を一緒にしているだけ。放課後に少し話すだけ。

それ以上でも、それ以下でもないはずだった。


授業が始まり、ノートを取る。

黒板の文字を書き写しながらも、意識はどこか散漫だった。


「日向」


教師に名前を呼ばれ、はっと顔を上げる。

指された問題に答えると、教室に小さなどよめきが起きる。


「正解」


その一言に、ほっと息を吐いた。

席に戻ると、隣から小さな声が聞こえる。


「すごいな」


紘太だった。

特別大きな声でも、褒めるような口調でもない。ただの事実確認みたいな一言。


「……別に」


あかりはそう返す。

素っ気ない言い方になってしまったことは分かっている。でも、距離を縮めすぎるのが怖かった。


紘太は気にした様子もなく、ノートに視線を戻す。

その横顔を見て、あかりは胸の奥がちくりとする。


(冷たくしなくてもよかったかな)


でも、今さら取り消すこともできない。

あかりはペンを握り直し、前を向いた。



昼休み。

あかりは席で一人、パンをかじっていた。

茉白は友人たちに囲まれていて、今日はあまり近くに来ない。


視線を上げると、少し離れた席で紘太が友人と話しているのが見えた。

楽しそう、というほどでもない。

でも、穏やかな表情だった。


胸が、少しだけざわつく。


(私がいないほうが、自然なんじゃないかな)


そんな考えが、ふっと浮かぶ。

自分でも驚くほど、弱気な思考だった。


放課後。

あかりが帰り支度をしていると、後ろから声をかけられる。


「今日も、勉強する?」


振り返ると、紘太が立っていた。

いつもの、少し控えめな距離で。


「……うん」


短く答えると、紘太は小さく頷いた。


廊下を並んで歩く。

言葉は少ない。

でも、その沈黙が嫌じゃないことに、あかりは気づいてしまう。


階段を下りる途中、前を歩く生徒が急に立ち止まり、あかりは一瞬バランスを崩した。

そのとき、紘太の手が、あかりの腕に触れる。


「危ない」


ほんの一瞬。

それだけなのに、心臓が跳ねる。


「……ありがとう」


声が、少しだけ上ずった。


紘太はすぐに手を離し、何事もなかったように前を向く。

その無自覚さが、余計に胸を揺らす。


(なんで……こんなに)


理由は分かっている。

でも、まだ言葉にしたくなかった。


あかりは歩きながら、そっと息を整える。

この揺れは、まだ始まったばかりだ。


放課後の校舎は、昼間とは違って音が少ない。

廊下に残るのは、遠くの運動部の掛け声と、窓から入り込む風の音だけだった。


あかりと紘太は、並んで図書室へ向かっていた。

距離は近いのに、どこか慎重で、互いに踏み込まない歩き方。


「今日さ」

紘太が、前を見たまま話し出す。


「英語の模試、思ったよりできた」


「ほんと?」

「たぶん。あかりが言ってた覚え方、意外と使えた」


その言葉に、胸が少しだけ温かくなる。

自分が役に立ったという事実よりも、覚えていてくれたことが、嬉しかった。


「それならよかった」

あかりは、少しだけ口元を緩める。


図書室に入ると、すでに数人の生徒が机に向かっていた。

受験前の空気は静かで、どこか張りつめている。


二人は並んで席に座る。

ノートを開く音、ペンを持つ音、ページをめくる音。

それだけで時間が流れていく。


しばらくして、紘太が小さく息を吐いた。


「なあ」

「なに?」

「……こうやってるとさ」


一瞬、言葉を探すように間が空く。

あかりは顔を上げず、続きを待った。


「落ち着く」


それだけだった。

なのに、胸が大きく跳ねた。


「……そ、そう」

平静を装って答えるけれど、心臓の音は隠せない。


落ち着く。

それって、どういう意味なんだろう。


(友達として?

それとも……)


考え始めた瞬間、思考を止める。

期待しすぎるのは、よくない。

そうやって、何度も自分に言い聞かせてきたはずだった。



帰り道。

校門を出ると、空はすでに夕暮れ色に染まっていた。


途中、コンビニの前で紘太が足を止める。


「飲み物、買ってく?」

「うん」


店内に入ると、蛍光灯の光がやけに明るく感じる。

あかりは棚の前で立ち止まり、どれにしようか迷っていた。


「どれにする?」

「……まだ決めてない」


そう答えた瞬間、紘太が自然に隣に立つ。

距離が近い。

それだけで、思考が一瞬止まる。


「これ、前好きって言ってなかった?」


指差されたのは、以前何気なく話した飲み物だった。

覚えていたことに、また胸が揺れる。


「……よく覚えてるね」

「なんとなく」


“なんとなく”。

その言葉が、少しだけ引っかかる。


(私だけが意味を持たせてるのかな)


レジを済ませ、店を出る。

缶を開ける音が、静かな道に響いた。


「そういえばさ」

紘太が、少し迷うように言う。


「クラスの女子に、最近聞かれた」

「……なにを?」


胸が、嫌な予感で締めつけられる。


「日向と仲いいよね、って」


あかりは、一瞬だけ言葉を失う。

それは、どういう意味で言われたんだろう。


「で?」

できるだけ、普通の声を出す。


「別に、否定もしなかったけど」


否定しなかった。

その言葉に、少しだけ期待が生まれる。


でも次の言葉で、その期待は揺らぐ。


「だって、仲いいのは事実だし」


――それだけ。


あかりは、無意識に視線を逸らした。

仲いい。

それ以上でも、それ以下でもない。


「……そっか」


自分でも驚くほど、声が淡々としていた。


「なんか、変なこと言った?」

紘太が、不安そうに聞く。


「別に」

そう答えたものの、心の中は静かに波打っていた。


(私、なにを期待してたんだろ)


家が近づくにつれて、会話は少なくなる。

別れ際、紘太が手を振る。


「また明日」

「……うん、また」


背を向けて歩き出した瞬間、胸の奥に残る感情を、あかりはうまく言葉にできなかった。


期待して、

少し浮かれて、

でも、ちゃんと現実に戻された気がする。


それでも。


(嫌いには、なれないんだよね)


その気持ちだけは、はっきりしていた。


茉白が席を立ってから、教室にはあかりと紘太だけが残った。


窓の外では、部活帰りの声が遠くに響いている。グラウンドの掛け声、金属バットの乾いた音、自転車のブレーキが鳴る音。それらが混ざり合って、放課後特有のざわめきになっていた。


「……気まずい?」


紘太が、少し困ったように笑って言った。


あかりは首を横に振る。


「別に。気まずくはない」


即答だったせいか、紘太は逆に少し戸惑った表情をした。


「即答すぎない?」

「事実だから」


あかりは机に肘をつき、頬杖をついた。視線は紘太ではなく、窓の外に向いている。


紘太は、その横顔を盗み見るようにしてから、また視線を逸らした。


――こういうところだ。


あかりは自分でも思う。

相手に誤解されやすい言い方を、わざと選んでしまうところ。


冷たいつもりはない。

ただ、余計な期待をさせたくないだけだ。


「さっきのさ」


紘太が、少し声のトーンを落とした。


「茉白、なんか言ってた?」


あかりは一瞬だけ目を伏せ、それから正直に答えた。


「……別に。紘太が相変わらずだって」


「それ悪口じゃん」

「本人も自覚してると思う」


紘太は苦笑いした。


「まあ、否定はできない」


その笑い方が、あかりは少しだけ引っかかった。


冗談に見せているけれど、どこか無理をしている笑い方。

最近の紘太は、そういう瞬間が増えている気がする。


「ねえ、紘太」


「ん?」


「疲れてる?」


その問いに、紘太は一瞬だけ言葉に詰まった。


「……普通じゃない?」


「“普通”って言うとき、大体普通じゃないよね」


あかりの声は淡々としていた。責めるでも、心配を押し付けるでもない。


ただの確認。


紘太はしばらく黙ってから、肩をすくめた。


「まあ……ちょっとだけ」


「理由は?」


「それ聞く?」


「聞くだけ」


あかりは視線を向けた。逃げ道を塞ぐような目ではない。ただ、ちゃんと向き合う目だった。


紘太は観念したように息を吐く。


「将来のこととか。進路とか。あと、俺って何ができるんだろうなーって」


「急に重い」

「自覚はある」


紘太は笑ったが、その笑いはさっきより弱かった。


「みんな、なんか“できる人”っぽいじゃん。勉強できるとか、部活で結果出してるとか」


「紘太は?」


「……どれも中途半端」


あかりは少し考えてから言った。


「それ、悪いこと?」


「え?」


「中途半端って、全部少しはできるってことでしょ」


紘太はきょとんとした顔をする。


「そんな言い換え初めて聞いた」

「今考えたから」


あかりは少しだけ口角を上げた。


「全部ダメより、全然いいと思うけど」


「慰めてる?」

「事実を言ってる」


紘太は、しばらくあかりを見つめてから、ふっと力を抜いたように笑った。


「……あかりってさ」

「なに」

「冷たいこと言うくせに、たまに優しいよね」


「それ褒めてる?」

「かなり」


あかりは返事をしなかった。

褒め言葉をどう受け取ればいいのか、いまだによくわからない。


その沈黙を、紘太が破る。


「でもさ、あかりはいいよな」


「どこが」


「ちゃんと距離取れるところ」


その言葉に、あかりの胸が少しだけざわついた。


「距離?」


「人とさ。近づきすぎないじゃん」


あかりは、ゆっくり瞬きをした。


「……それ、褒めてる?」


「羨ましい」


紘太の声は、さっきよりも真剣だった。


「俺、すぐ依存しそうになるから」


あかりは何も言えなかった。


否定も肯定もできない。

それは、紘太自身が自覚している弱さだから。


「だからさ」


紘太は続ける。


「もし俺が、変な距離感になりそうだったら」


「だったら?」


「ちゃんと言って。冷たくてもいいから」


あかりは少しだけ目を細めた。


「……今も、割と冷たいと思うけど」


「それくらいがちょうどいい」


紘太はそう言って、立ち上がった。


「そろそろ帰る?」


「うん」


二人は並んで教室を出た。

廊下の夕方の光が、長い影を床に落としている。


並んで歩いているのに、触れない距離。

近すぎず、遠すぎず。


あかりは思う。


この距離が、いつまで続くのか。

それとも、いつか自然に変わってしまうのか。


わからない。


でも――今は。


この揺れている感じが、悪くないとも思っていた。


並んで昇降口まで歩いたところで、紘太が足を止めた。


「俺、今日はこっち」


そう言って指したのは、駅とは反対方向の道だった。


「あ、塾?」


「いや、今日はサボり」


「堂々と言うことじゃない」


あかりがそう言うと、紘太は少し得意げに笑った。


「たまにはいいでしょ。真面目キャラじゃないし」


「最初から真面目キャラじゃないと思うけど」


「それ言う?」


靴を履き替えながらの軽口。

ほんの少し前までの重たい空気が、嘘みたいに薄れていた。


昇降口を出ると、空はもう夕方の色になっていた。

オレンジと青が混ざった、はっきりしない色。


「じゃ」


あかりが先に言った。


「うん」


紘太は一歩だけ踏み出して、それから止まる。


「……あかり」


「なに」


振り返ると、紘太は少し迷ったような顔をしていた。


「さっきの話さ」


「どれ」


「距離のやつ」


あかりは無言で続きを待った。


「俺さ、あかりといると、ちょっと安心するんだよね」


言い方は軽い。でも、目は冗談じゃなかった。


「でも、それって多分、依存の一歩手前なんだと思う」


あかりは息を詰めた。


「だから」


紘太は続ける。


「近づきすぎないでいられるなら、その方がいい気もしてて」


「……それで?」


「それでも、たまには話してほしい」


少しだけ、弱さを隠さない声。


あかりは、ゆっくり言葉を選んだ。


「紘太」


「うん」


「私は、誰かに必要とされるのが、あんまり得意じゃない」


紘太の表情が、わずかに揺れた。


「でも」


あかりは続ける。


「話すのが嫌なわけじゃない」


「それ、どう違うの」


「……違う」


あかり自身も、うまく説明できない。


「依存されるのは苦手。でも、共有するのは嫌いじゃない」


「難しいな」


「自分でもそう思う」


二人の間に、少しだけ沈黙が落ちた。

気まずさというより、言葉を整理するための間。


その沈黙を破ったのは、紘太だった。


「じゃあさ」


「なに」


「共有ってことで、今からコンビニ寄らない?」


「は?」


「新作のアイス、当たりだったら半分こ」


「共有の意味、それ?」


「俺なりの解釈」


あかりは一瞬、呆れた顔をしてから、ふっと小さく笑った。


「……溶けたら嫌だから、五分以内ね」


「条件厳しっ」


二人は並んで歩き出した。


コンビニまでの道は、住宅街を抜ける短い道。

夕飯の匂いが、ところどころから漂ってくる。


「ねえ」


歩きながら、紘太が言った。


「もしさ、俺がまた変な方向に行きそうだったら」


「うん」


「ちゃんと引き戻して」


あかりは前を向いたまま答える。


「その代わり」


「代わり?」


「私が一人になりたいときは、ちゃんと放っておいて」


「……難易度高いな」


「でも、できるでしょ」


紘太は少し考えてから、笑った。


「努力はする」


「“努力する”って言う人、だいたいできない」


「厳しっ」


それでも、その声は楽しそうだった。


コンビニに着き、アイスケースの前で並ぶ。

どれにするかで、また少しだけ言い合いになる。


結局、二人が選んだのは、無難なバニラ。


「冒険しないね」


「失敗したくないから」


「性格出てる」


レジを出て、店の前でアイスを半分に分ける。


「汚く割ったら怒るから」


「そんな雑じゃないって」


割れ目は少し歪だったが、あかりは何も言わなかった。


一口食べて、あかりが言う。


「……普通」


「それ褒めてる?」


「期待しすぎないって意味」


「じゃあ俺たちみたいだな」


あかりは一瞬、言葉に詰まった。


「どういう意味」


「普通で、はっきりしなくて、でも悪くない」


紘太はそう言って、アイスをもう一口かじった。


あかりは何も言えず、少しだけ視線を逸らす。


夕方の風が、二人の間を抜けていった。


恋愛として見れば、きっと曖昧で、進展もない関係。

周りから見れば、冷めているようにも映るだろう。


それでも。


あかりは思う。


踏み込みすぎないからこそ、壊れない距離がある。

期待しすぎないからこそ、続く関係もある。


今はまだ、それでいい。


アイスの棒だけが残り、二人は同時にゴミ箱に捨てた。


「じゃ、今度こそ帰ろ」


「うん」


分かれ道で、それぞれ違う方向へ。


少し離れてから、紘太が振り返って手を振った。


あかりは、ほんの一瞬だけ迷ってから、小さく手を振り返す。


それだけで、今日は十分だった。

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