第4話「初仕事」
更衣室の小さな鏡の前で、未来は深呼吸をひとつした。
ハンガーにかかっているメイド服。
白と紺を基調にした、Atelier Étoileの制服。
——本当に、着るんだ。
そう思いながら、そっと袖を通す。
生地は思っていたより柔らかくて、
エプロンの紐を結ぶと、背中が少しだけ伸びた。
鏡の中の自分は、大学のときとも、普段の私服とも違う。
『星野みらい』
ひかりが付けてくれたキャストネーム。
自分の制服姿と、新しい名前の重み。
自然と顔がひきしまる。
「……大丈夫だよ…星野みらい」
小さくそう言って、スカートの裾を整えた、そのとき。
ドアの向こうに、気配がある。
——ひかりさん。
チーフキャスト。
元アイドルで、企画段階から店に関わっている人。
そして、「あの時の人」。
“見られている”その意識だけで、胸の鼓動が少し速くなる。
店内に出ると、すでに仕込みはほとんど終わっていて、オープン前の静かな空気が流れていた。
「じゃあ、まずはドリンクからやってみようか」
ひかりの声は、仕事用の落ち着いた標準語。
「は、はい」
返事が少しだけ硬くなる。
カウンターに立って、教わった通りにグラスを用意する。
——分かっている。
——何度も頭の中で練習した。
……はずなのに。
シロップの量を間違えて、グラスの縁から、ぽとっと一滴。
「あ……」
一瞬で、顔が熱くなる。
慌てて拭こうとして、今度はスプーンを落としそうになって、動きがぎこちなくなる。
——だめだ、見られている。
視線を感じて、余計に手が固まる。
カウンターの少し離れたところで、ひかりは何も言わず、その様子を見ていた。
眉をひそめるでもなく、助けに入るでもなく。
ただ、ちゃんと見ている。
その沈黙が、逆に緊張を増幅させた。
「……すみません」
小さくそう言った瞬間。
「みらいちゃん」
ひかりが、少し近づいてきて、声のトーンが変わる。
「そんなに肩、上げんでもええよ」
——大阪弁。
仕事中にはあまり聞かない、少し柔らかい、私的な響き。
「最初から完璧な子なんて、おらへん」
みらいの目線に合わせて、にこっと笑う。
「失敗してええねん」
「ここ、そういう場所やから」
その一言で、胸の奥に張りついていた緊張が、すっとほどけた。
「あ……」
息が、ちゃんと吸える。
「……はい」
声が、さっきより落ち着いているのが分かる。
もう一度、グラスを持つ。
今度は、手の震えが少ない。
ひかりは、少しだけ後ろに下がって、腕を組んだ。
「うん」
「その表情のほうが、みらいちゃんらしいわ」
その言葉に、みらいは思わず、ほんの少し笑ってしまった。
——大丈夫かもしれない。
完璧じゃなくていい。
ちゃんと、見てくれる人がいる。
メイド服の裾が、さっきより自然に揺れる。
星野みらいの、Atelier Étoileでの一日目は、そうして静かに始まった。
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