第17話 桜の休養と不在

日本への帰還

日本へ戻り、いつも通り土曜日、日本の勤務先に出勤した。

久しぶりの現場だったが、身体は何も考えずに動いた。

慣れた動線、聞き慣れたアラーム音。

一日を終えた夜、喉にわずかな違和感を覚えた。

微妙な寒気。

体温計は三十七度台後半を示している。

翌朝、職員向けの検査を受けた。

結果はすぐに出た。

「流行性の風邪ですね。インフルエンザです」

その場で抗インフルエンザ薬を服用し、帰宅した。

倦怠感と喉の痛みはあるが、症状は全体として軽い。

桜が考えたのは、体調そのものよりも、

今、向こうへ戻れるかどうかだった。


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鏡越しの報告


その夜、鏡にふれて、リエットへ呼びかける。

鏡越しに、結界を通して言葉を交わせるのは、

巫女であれば誰でもよいわけではない。

結界を隔てて意識を通わせることができるのは、

巫女として最高位クラスの魔力をもつ者、リエットだけである

通信を成立させている主体は、常にリエット側で、

こちらは、ただ呼びかけているにすぎない。

巫女の交代期には、この通信は成立しない。

結界そのものが、

まだ誰を巫女として受け入れるかを

決めきれていないからだ。

桜の帰還を待っていたリエットが、

その呼びかけに応じた。

「ご報告があります。

 こちらで流行性の風邪に罹りました。

 日本ではインフルエンザと呼ばれているものです」

「感染力があります。

 この状態で戻れば、

 診療所や街に広がる可能性があります」

必要なことだけを、順に伝える。

「異界で流行した場合の影響が読めません。

 そのため、最低七日間は戻れません」

「次に戻るのは、大事を取って、

 八日後の月曜日、朝にさせてください」

リエットは静かに頷いた。

「……承知しました。

 そのような状況でしたら、やむを得ません」

「現在の結界の状態であれば、

 その日数でしたら、

 私一人でも維持可能です」

「ご負担をおかけして、申し訳ありません」

「いいえ。

 どうか、治療と静養を優先なさってください」

通信は、短時間で切れた。


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休養という余白


鏡を閉じたあと、桜は自分の部屋を見渡した。

久しぶりに、何も予定の入っていない空間だった。

王宮診療所に入ってから、生活はかなり忙しい。

結界の調整と診療所での勤務、水曜日の勉強会。

気づけば一日が終わっていることも多い。

診療所に迷惑をかけている。

リエットに負担をかけている。

その自覚は、はっきりとある。

それでも。

薬が効き、症状が落ち着いてくると、

桜は久しぶりに、だらけきった生活を始めた。

昼まで眠り、

気の向くままにテレビをつけ、

動画を流し、スマホゲームをする。

向こうの世界にはない娯楽。

忙しい日常から切り離された、長い休み。

行き来ができる。

戻る日が決まっている。

その前提があるからこそ、

この一週間を、特に気負うことなく過ごせていた。


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王宮診療所の日常


一方、ゼフィーリア王国では、

桜が来られないことが、すでに共有されていた。

王宮は表向き、いつも通りだった。

結界の数値は安定し、

緊急の呼び出しもない。

だが、王宮診療所の空気は、

わずかに違っていた。

「……やっぱり、一人いないと忙しいな」

誰かが小さく言った。

責める声ではない。

ただの事実だった。

看護師の配置は詰め直され、

医師は、少しだけ長く診察に入る。

一人分の穴は、

全員が少しずつ引き受ける形になる。

「流行性の風邪、でしたね」

「ええ。日本ではインフルエンザと呼ばれているものだそうです」

「向こうで止めて正解だな」

異論は出なかった。

もし持ち込まれれば、

この診療所では対応しきれない。

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王宮では、その日も、

記録官たちが定例の報告を

淡々と処理していた。

国境に異常なし。

結界値、安定。

ただ、

いくつかの案件が

「保留」として分類されたまま、

次の会議へ送られている。

理由は、どれも似ていた。

判断には、

もう少し情報が必要だ。

誰も焦ってはいない。

だが、

決断が先送りされているという事実だけが、

静かに積み重なっていた。


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分かっている不安


クロトは忙しかった。

元々、桜と毎日顔を合わせるわけではない。

数日に一度、短く言葉を交わす程度だ。

一週間、会えないこと自体は問題ではない。

戻ってくると分かっている。

それでも、ふとした拍子に、

胸の奥に消しきれない感覚が浮かぶ。

巫女は、突然いなくなる。

理由も告げられず、

昨日までいた場所が、空白になる。

理性では、今回が違うと分かっている。

帰還予定も、理由も、明確だ。

それでも、

過去の記憶は、完全には消えなかった。

クロトは、その感覚を表に出さない。

ただ、仕事を続ける。

戻ってくる。

そう分かっているからこそ、

それ以上は考えなかった。

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待つ側


夜の診療所は静かだった。

灯りの数は、いつも通り。

「桜が戻ったら、楽になるな」

誰かが言う。

それ以上、言葉は続かなかった。

桜が来られないことを、

誰も責めてはいない。

ただ、

戻ってきてほしいという認識だけは、

全員の中で一致していた。

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次の土曜日


次の土曜日も、桜はいつも通り、日本の勤務先に出勤した。

隔離期間はすでに終わっていて、体調も問題ない。

一週間ぶりの勤務は、特別なことはなかった。

忙しく、淡々としていて、少し慌ただしい。

それが、桜にとっての普通だった。

向こうへは、まだ戻らない。

だからといって、特別な意識をするわけでもない。

日曜日も休みだが、帰還はしない。

月曜日の朝に戻る。

予定として、そう決まっているだけだった。

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実家での食事


隔離が明けてからは、

母と姉と、自然に食事を共にしている。

わざわざ集まろうと決めたわけではない。

家にいれば、一緒に食べる。

それだけのことだった。

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昼の来客

日曜日の昼前、インターホンが鳴った。

来たのは、凛と叔母だった。

「こんにちは」

凛は、いつも通りの調子で言って、

靴を揃える。

「お昼、出前にしない?」

叔母がそう言うと、

母も姉も桜も、特に迷わず頷いた。


 出前が届くと、テーブルにいくつかの容器が並ぶ。

「どれ頼んだの?」

「それ、凛ちゃんじゃない?」

そんなやり取りをしながら、

それぞれが箸を取る。

家で食べる出前は、

特別でも、イベントでもない。

凛はテレビを見ながら話し、

叔母は母と近況を話している。

姉も、ときどきそれに加わっていた。

桜も、特に考えごとはせず、

その輪の中にいた。

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日曜日の夜


夕方になると、

凛と叔母は帰っていった。

夜になって、

母と姉と簡単に食事をする。

「明日、戻るんだっけ」

「うん、朝に」

それだけの会話だった。

桜は自分の部屋に戻り、

翌日の準備をする。

日本にいる時間が、

いつもより少し長かっただけ。

一人暮らしをしていれば、

年に一度しか帰省しない人も珍しくない。

それに比べれば、

自分はむしろ、帰りすぎているくらいだろう。

そんなことを、

ぼんやりと思いながら、

桜はベッドに入った。

日曜日の夜は、

特別な意味もなく、静かに終わった。


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久々の帰還


月曜日の朝、

鏡をくぐる感覚は、いつもと変わらなかった。

視界が切り替わり、

王宮の転移室の空気が戻ってくる。

「お帰りなさい」

最初に声をかけてきたのは、リエットだった。

その視線が、一瞬だけ、桜の顔元に留まる。

白い布。

口と鼻を覆う、日本の医療用マスク。

桜がそれをつけているのは、滅多にない。

だからこそ、理由を問う声はなかった。

「ただいま戻りました」

一歩、足を踏み出す。

ふらつきはない。

息も乱れていない。

少し離れた位置に、クロトが立っている。

通常の騎士服。

視線は周囲を確認しながら、自然と桜へ戻った。

その視線も、

一瞬だけ、マスクに向かう。

「体調は」

短い問い。

「完全に戻っています」

「症状も残っていません」

「……正直、かなり元気です」

そう答えてから、

桜は付け足すように言った。

「念のため、今日はこれを」

マスクに、軽く指先を添える。

「向こうの世界では、感染予防の基本なので」

クロトは小さく頷いた。

彼も、リエットも、

それが「必要な時にだけ使うもの」だということを、

なんとなく理解している。

「ただ」

桜が続ける。

「もう一つ、お願いがあります」

「今日は、少しだけ距離を取ってください」

「感染の可能性は、ほぼありません」

「でも、完全にゼロとは言い切れないので」

「警護も問題ない限りの距離でお願いします」

クロトはすぐには答えなかった。

ほんの一拍。

それから、静かに。

「……承知しました」

クロトとの今日の予定の会話が続く。

「結界の調整は」

「いつも通りやります」

「診療所には行きません」

「今日は部屋に戻って休みます」

リエットが、穏やかに頷いた。

「妥当ですね」

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結界制御室は、変わらず静かだった。

魔力の流れは安定している。

いつもの手順。

いつもの補正。

マスク越しの呼吸は、少しだけこもるが、

作業に支障はない。

――問題ない。

調整を終え、魔法陣から離れる。

「以上です」

「本日は、この後、部屋にいます」

「分かりました、では部屋に戻りましょうか」

クロトが言う。

「距離は、指示通りに」

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回廊を歩く。

足音は二人分。

だが、

いつもより、半歩分だけ間がある。

「無理は、なさらないでください」

視線は前を向いたまま。

「はい」

いつも通りの返事に、思わず冗談を口にする。

「というか、ずっと家でゴロゴロしてただけなんですけどね」

その言葉に、

クロトがわずかに息を抜いた気配がした。

部屋の前で立ち止まる。

「では、ここまでです」

「ありがとうございました」

扉が閉まる。

クロトは、その場を離れる前に、

距離を取ったまま、扉の方をもう一度だけ見た。

戻ってきた。

それだけで、十分だった。


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いつもの診療所


王宮診療所の扉を開けた瞬間、

いくつもの視線が、一斉にこちらを向いた。

「……おかえりなさい」

そう言ったのが誰だったのかは、分からない。

医師や看護師、介護人の声が、いくつも重なった。

「体調はもう大丈夫ですか?」


「無理してない?」

「ちゃんと休めた?」

その合間に、

「人手が足りなくて本当に大変でした」

「正直、回らなかった」

そんな言葉も、ぽつりぽつりと混じる。

けれど、

誰一人として、責めるような口調ではなかった。

「戻ってきてくれて助かります」

そう言われて、胸の奥が、少しだけ軽くなる。

私は深く息を吸って、頷いた。

「……ただいま」

診療所は、いつも通り忙しくて、

それでも確かに、今の私の居場所だった。

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役目を終えたはずの巫女でした 豆腐と蜜柑と炬燵 @tokageaozora

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