第2話 現実側の天秤
一晩眠ってから、私は結界を通って日本へ戻った。
戻った瞬間、深いため息がこぼれる。
正直、正解が分からなかった。
たぶん、再召喚は二週間後。
そして今回は、かなりのイレギュラーだ。
私が凛ちゃんの代わりに再召喚され、
最初に結界へ触れた、その時点から。
私のやり方は、すでに流れ込み始めていた。
それは修復というより、
破れかけた結界同士を、
糸を通して縫い直していくような感覚だった。
結界がその構造を受け入れ、
私のやり方に馴染むまで。
早ければ二週間。
損傷がひどければ、数週間はかかる。
その途中で、
もし凛ちゃんが覚醒してしまったら。
張り替える力と、
縫い留める私の力が、
同じ場所に触れることになる。
魔力量の問題ではない。
やり方が、違うだけだ。
中途半端な交代はやり方が違うため、力通しの反発を招く。
だから――
「私のやり方で、ある程度まで整うまで」。
その状態になれば、
たとえ凛ちゃんが覚醒しても、
私たちの力が、正面から反発することはない。
それを、
私の感覚では、
二年ほどと見積もっただけだった。
そう直感した理由を、
うまく言葉にすることはできない。
ただ、今回は、
そういう流れなのだと感じただけだ。
もし、私が選ばれた場合。
問題は、そこからだった。
私自身の力は弱い。
結界のほころびを、以前の安定した状態に戻すには、
どうしても時間がかかる。
前回と同じ生活サイクルでは、追いつかない。
前の十年間は――
日曜の昼から金曜の夕方までを日本で過ごし、
金曜の夜から日曜の朝までを異世界で過ごしていた。
金曜と土曜に結界を調整し、
日曜の朝、こちらへ戻る。
無理はしていたけれど、
それでもまだ、
「社会人として成立している」範囲だった。
――でも、今回は逆だ。
平日は異世界。
結界の修復と調整。
日本に戻れるのは週末だけ。
つまり、
こちらで看護師として働けるのは、土曜日くらい。
「……なかなか、きびしいよね」
誰に聞かせるでもなく、独り言が漏れる。
親元で暮らしているから、
今すぐ生活に困るわけじゃない。
それでも二年間、週一勤務。
職場には適当な理由をつけて、
週一のパートに切り替えれば続けられるとは思う。
ただ、二年間は長い。
税金や保険、生活費は、
貯金を切り崩すことになる。
二年間、ほとんど働かないという事実は、
正直、人生設計に影を落とす。
それに――
異世界でどれだけ報酬をもらっても、
それをこの世界へ持ち帰ることはできない。
――そこを百歩譲ったとしても、だ。
凛ちゃんが突然“目覚める”可能性は、
十分すぎるほどある。
むしろ確率だけで言えば、こちらの方が高い。
あの子は、私とは違う。
最初から、
世界に選ばれるだけの力を持っている。
魔力量は私の十倍。
感覚が追いついていないだけで、
器そのものは完成形だ。
もし凛ちゃんが、
結界の歪みに気づけるようになったら。
もし、
力の流れを“見る”ことができるようになったら。
その瞬間、
私があちらに行くという今の選択自体が、
あの世界を、
余計な危機に陥れる可能性すらある。
私の力が結界に馴染んだ直後に、
凛ちゃんの力が目覚めたら。
凛ちゃんがいるのに、交代もできず。
結界の修復速度も、
安定度も、持続力も。
すべてにおいて、
凛ちゃんの方が適任だ。
そんな正解の分からない状態で、
私は何のために、
二年間を差し出すのだろう。
「……ほんと、現実的じゃない」
誰もいない部屋で、声に出してみる。
言葉にしたところで、答えが出るわけでもない。
看護師としてのキャリア。
収入。
税金。
保険。
将来設計。
二年間、ほぼ“職歴が止まる”という事実は、
三十歳の独身女性にとって軽くない。
異世界でどれだけ感謝されても、敬意を払われても、
それはこの世界では何の保証にもならない。
履歴書に書けるわけでもない。
年金に反映されるわけでもない。
将来の安心につながるわけでもない。
――全部、自己満足だ。
世界を救った、なんて。
そんな言葉、この世界では通用しない。
「……それでも」
それでも、あちらの世界から目をそらすことはできなかった。
ひび割れた光の糸。
ほどけかけた編み目。
私が触れなければ崩れていた結界。
私の力が、あまりにも足りないから。
だから、こんな選択を迫られることになった――
そう考えてしまうのは、たぶん、簡単だ。
おばさんは、私の5倍もの力を持っていた。
あの人が現役だった頃に施した結界は、
行き来が途絶えても、しばらくは問題なく持ちこたえた。
だからこそ、三十六歳の時、突然、転移だけが切られた。
理由は分からない。
ただ――
今はもう、異界の巫女はいらない。
そう判断されたのだと、今は思っている。
その後の五年間は、
あちらの世界で、リエット様の前任者の巫女が必死に守っていた。
けれど、結界は再び異界の力を求め始めて、
そのタイミングで――私が呼ばれた。
私の力が、想定よりずっと弱かったことは、
たぶん、この世界にとっても、誤算だったのだと思う。
それでも。
それでも、私に頼むしかなかった。
――それが、現実だ。
あちらの世界では、もう結論が出ている。
今の凜ちゃんが目覚めるまでには、
まだ時間がかかる、と。
だからこそ、あの世界の「何か」が私を再召喚した。
他に適任がいなくて、扱いに慣れていて、
大きな力はなくても、壊さずに繋ぐことができる存在として。
理屈としては、間違っていない。
それでも胸の奥に、澱のようなものが残る。
考え込んだまま、私は今も凜ちゃんの部屋にいる。
床に座り込んだまま、何度目か分からないため息をついた。
本来なら、異世界と通じる鏡は
“巫女に選ばれた者”の部屋へ移される。
けれど今回は急だった。
鏡はまだ、凜ちゃんの部屋にある。
――――――――――
考えごとをしていると、
ドアが軽い音を立てて開いた。
「……あ、桜ちゃん、戻ってきてたんだ!!」
凜ちゃんが首をかしげて、こちらを見る。
「考えごと?」
その声は、いつも通りだ。
明るくて、軽い。
私は一瞬言葉を探して、
結局、曖昧に笑った。
「うん。ちょっとね」
凜ちゃんは気にした様子もなく、
ベッドに腰を下ろし、足をぶらぶらさせる。
「皆さん、交代したからびっくりしてたよね?」
「そうだね。結構」
何でもないトーンで答えを返す。
凜ちゃんは私をちらっと見てから、
少し申し訳なさそうに言った。
「本当のところ、少しだけホッとしたの。
まだ私には、荷が重いって」
少し間を置いて、続ける。
「もちろん、いつかは役目を引き受けなきゃいけないのは分かってるんだけど」
「……」
「桜ちゃんは、十年も頑張ってきたのに。
全然だめだよね、私……」
凜ちゃんは、少し目を伏せた。
「私も十七歳のころだったから。
大変だったけど……」
私はそう言って、凜ちゃんの背中を軽くたたいた。
「凜ちゃんは、まだ十四歳だもん。
しょうがないよ」
言えるはずがない。
――なぜ、私が再召喚されたのか。
凜ちゃんは、何も知らない。
きっと、必死に結界と向き合ってきたのだと思う。
だからこそ、今はまだ、真実を言えなかった。
部屋の隅に立つ鏡へ、
私はちらりと視線を向ける。
あちらの世界と、こちらの世界。
そして、凜ちゃんと、私。
何が正しい選択なのだろう。
――考える猶予は、そう長くない。
――――――――――
家族で話す夜
その夜、私はおばさんに電話をかけた。
長く話すつもりはなかったはずなのに、気づけば――
「うちに来てもらえる?」と頼んでいた。
凜ちゃんには、何も言っていない。
今日は、ただの「大人の話」だ。
十九時すぎ、インターホンが鳴る。
「こんばんは、桜ちゃん」
おばさんの声。
その後ろに、椿お姉ちゃんが立っていた。
「久しぶり。急に呼び出されると、ちょっと緊張するね」
冗談めいた口調だけど、目は真剣だ。
居間には、すでに母が座っていた。
テーブルの上には、お茶とお菓子。
「……それで?」
口火を切ったのは、母だった。
「向こうの世界の話なんだけど」
誰も驚かない。
もう、そういう段階は過ぎている。
私は、結界の状態。
二年という期間。
仕事のこと、生活のことを、淡々と説明した。
最後に、凜ちゃんのことを口にする。
「凜ちゃんの方が、力はずっと強い。
今は目覚めていなくても、明日、突然目覚めてもおかしくない」
一拍、置いてから続けた。
「……でも、いつになるかは分からない」
おばさんが、静かに頷く。
「それで結界がひどい状態になって、
あなたがイレギュラーに再召喚されたのね」
私は頷き、続けた。
「もし私が行っている間に、凜ちゃんが突然目覚めても……
たぶん、二年間は簡単に交代できない」
これは感覚の話だ。
でも、核心に近いと思っている。
椿お姉ちゃんが深く息を吐き、腕を組む。
「……難しいわね」
沈黙が、居間に落ちた。
しばらくして、母が言った。
「あなたが出した答えを、私たちは尊重する。
行くと言っても止めない。
行かないと言っても、責めない」
おばさんも、静かに頷く。
「どっちを選んでも、逃げじゃない。
凜のことを考えて、すごく悩んでいるのも分かってるから」
椿お姉ちゃんは、はっきり言った。
「私はね、あなたがつらい思いをするのが一番嫌。
だから、“行け”とも“行くな”とも言わない」
少し間を置いて、微笑む。
「ただ、どっちを選んでも、
いくらでも愚痴は聞いてあげるわよ」
胸の奥で、張りつめていたものが、
ほんの少しだけ緩んだ。
――それでも。
私は、最後の不安を飲み込めなかった。
「……私が行かなかったら、
向こうは、凜ちゃんが目覚めるのを待つしかなくなる」
言葉を探す。
「目覚めなければ……最悪……」
それ以上の言葉を、私は紡げなかった。
皆も、その言葉に黙り込む。
しばらくして、おばさんが口を開いた。
「あなた一人が背負うものじゃない。
それだけは、絶対よ」
まっすぐに、私を見る。
「あちらの世界の人たちも、
きっと同じ思いだと思う」
そして、静かに続けた。
「それでも……どこかで、あなたが決断をしなくてはならない。
それも、現実ね」
答えは、まだ出ていない。
それでも。
この重さを、少しだけでも分け合える場所がある。
それが、今の私にとっての救いだった。
――――――――――
日曜日は、ほとんど何もできなかった。
朝から晩まで、同じことを考えては、また最初に戻る。
行くべきか。
行かないべきか。
凜ちゃんのこと。
あちらの世界の人たちの顔。
結界のひび割れ。
現実の生活。
二年という時間。
考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていく。
夜になって布団に入っても、頭は冴えたままだった。
――そのときだった。
寝返りを打った瞬間、
不意に、すとん、と。
何かが抜け落ちた。
あの結界の糸は、もう張りきってはいなかった。
引けばすぐに切れるほど脆くはないけれど、
強く引き直せるほどの余裕も、正直なかった。
完璧に張り直す感触じゃない。
それでも――
時間をかけて、少しずつ張りを戻していけば、
崩れずに、持ち直す手応えは、確かに残っていた。
ただ、急に思った。
……もう、いいや。
どう考えても、二年間あれば。
結界は完璧じゃなくても、
ある程度は、確実に持ち直せる。
それは計算でも、理屈でもない。
十年間、触れてきた者としての感覚だった 悩んで。
悩んで。
悩み抜いた末に。
これ以上、考え続けること自体が、
馬鹿らしくなった。
胸の奥は、
不思議なくらい、静かだった。
――――――――――
月曜日、仕事に行く前。
私は母と椿お姉ちゃんに、簡単に伝えた。
「二年近くになるけど、
生活の母体を、向こうに移す」
母は、一瞬だけ目を伏せてから、静かに言った。
「分かった」
母も、椿お姉ちゃんも、余計なことは言わない。
引き止めも、背中を押す言葉もない。
「決めた以上は、頑張りなさい」
そう言ってから、少しだけ間を置く。
「あと、国民年金ぐらいは、
私のポケットマネーで払ってあげるわよ」
最後は冗談めかして言い、
母は、ぽんぽんと私の背中を叩いた。
その一言だけが、胸に残った。
――――――――――
職場にて
――次は、現実だ。
私は救急外来の看護科長に相談した。
二年間だけ、週一のパートに切り替えたいという話だ。
科長は、私の話を途中で遮らなかった。
腕を組んだまま、最後まで黙って聞いている。
「……二年、ね」
そう言って、静かに息を吐いた。
「理由は、家庭の事情でいいのね?」
「はい。どうしても、土曜日以外の勤務ができなくなって」
少しだけ、間が空く。
「桜さんは、救外の中では中堅だしね。
正直、簡単に“どうぞ”と言える話じゃない」
そう言ってもらえたことが、内心では少し嬉しかった。
看護師の中で、私は決して目立つ存在じゃない。
それでも、こうして評価してもらえているのだと思えた。
でも、科長は続けた。
「家庭の事情って言うくらいだから、
よっぽどのことなのよね?」
私は、こくりと頷く。
「この三年間、結構きついシフトも受けてくれたものね」
科長はひとつ、ため息をついてから言った。
「週一、土曜日固定。
日勤帯のみ。
夜勤免除、緊急呼び出しなし」
淡々と、条件を整理していく。
「それで、いいわね?」
「はい」
「二年後に、常勤での復帰の意思確認。
その時点で、また話し合いましょう」
科長は、私をまっすぐ見た。
「土曜日だけでも働いてくれるなら、
現場も、あなたの顔を忘れずに済むし……
あなた自身も、仕事を忘れずにいられる」
「土曜日だけでも、
ちゃんと動けるようにします」
数日後、書類の確認が行われ、
私は雇用契約の変更に署名した。
とりあえず、二年間。
土曜日だけ、この場所に戻る生活が、
書類という形で、確定した。
――――――――――
鏡の移動
鏡は、その日の夕方に移された。
父が生きていた頃に使っていた古い台車を出して、
皆で運ぶ。
凜ちゃんの部屋から、私の部屋へ。
廊下を通る間、鏡はただの重たい家具みたいに静かで、
異世界につながっているなんて、嘘みたいだった。
「……ここでいい?」
母の声に、私は頷く。
「うん。ありがとう」
鏡は、私の部屋の壁際に立った。
もう、凜ちゃんの部屋に置いておく理由はない。
それだけで、役目がはっきり移った気がした。
――――――――――
金曜日の夜に家へ戻り、
土曜日は仕事をして、
日曜日の夕方、また向こうへ行く。
そんな生活が、これから始まる。
――――――――――
旅立ちの夜
日曜の夕暮れ。
支度を終えた私の部屋に、皆が集まっていた。
母。
椿お姉ちゃん。
凜ちゃん。
おばさん。
「……ほんとに、代わりに行ってくれるんだね」
凜ちゃんが鏡を見上げ、
少し複雑な表情を浮かべる。
「うん。前より、あっちの世界にいる時間は長くなるけど、
大丈夫」
「金曜日の夜には、帰ってくるんでしょ?」
椿お姉ちゃんが確認する。
「うん。仕事もあるし」
「じゃあ、その時は、たくさん愚痴を聞いてあげる」
凜ちゃんも続いた。
「私にも言ってね。
今まで、さんざん桜ちゃんに愚痴を聞いてもらったんだもん」
おばさんが、私の肩にそっと手を置く。
「つらいと思ったら、何でも言うのよ」
母は、少し離れたところから、ただ一言。
「気をつけてね」
それで、十分だった。
私は皆の顔を、一人ずつ見てから、鏡の前に立つ。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
声が、重なる。
鏡に手を伸ばす。
触れた瞬間、静かな熱が掌に伝わった。
光が、ゆっくりと広がる。
一歩、踏み出す。
――世界が、切り替わった。
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