第3話 帰還
結界の中心部には、静寂が張りつめていた。
人が集まっているにもかかわらず、足音も衣擦れも、まるで吸い込まれるように消えている。
国王と王妃、神殿長、リエット。
前回と同じ顔ぶれが、同じ場所を見つめていた。
視線の先にあるのは、結界の核――ただ、それだけだ。
巫女が戻る。
そう信じるしかない。
だが、どちらが戻るのかは分からない。
リンか。
サクラか。
リンは、力を持っている。
圧倒的な魔力量。目覚めさえすれば、完成形の器となる存在だ。
だが、今の彼女には、まだその兆しがない。
この状態が続けば、結界の崩壊は、確実に進む。
一方で、サクラは――
巫女として語るには、あまりにも力が弱すぎる。
それでも。
十年という歳月、結界を紡ぎ続けてきた経験がある。
大きく引き上げることはできなくとも、綱渡りのような安定は保てる。
ただし、それは彼女が来れば、の話だ。
彼女が来る保証は、どこにもなかった。
結界そのものは、選ばない。
扉を開くかどうかを決めるのは、世界ではない。
向こう側に立つ、巫女自身だ。
だから、この場にいる者たちは待っている。
世界の判断ではなく――
一人の人間の決断を。
結界の表層が、わずかに揺れた。
光の糸が、張りつめるのではなく、余白をつくるように緩む。
リエットが、息を詰めたまま声を落とす。
「……反応が出ました」
転移が始まる。
光が集まり、輪郭を結ぶ。
人影が、ゆっくりと形を成していく。
短く切られた髪。
覚えのある立ち姿。
結界の縁で、必ず一拍、呼吸を置く癖。
転移が完了し、光が引く。
彼女は、しっかりと自分の足で立っていた。
「……お待たせしました」
サクラはそう言って、いつも通り、軽く頭を下げる。
リエットが一歩前に出る。
声は静かだったが、その奥には、確かな緊張があった。
「……サクラ様。
こちらに来られると、決められたのですね」
サクラは、わずかに視線を落とす。
それから、はっきりと頷いた。
「はい」
短い沈黙。
「自分で、来ると決めました」
誰も、その言葉に問い返さなかった。
それがどれほど重い決断か――
この場にいる全員が、理解していた。
サクラは結界に近づき、
光の糸に、そっと視線を走らせる。
――まだ、持っている。
この間、自分が紡いだ安定が、
かろうじて保たれていることを確かめてから、
少しだけ距離を保つ、いつもの愛想笑いを浮かべた。
「……すみません。
もし、緊急性がなければ、今日は休ませていただいてもよろしいでしょうか」
一瞬、場が静まる。
「まだ来たばかりで……
少し、結界酔いしているみたいで」
リエットは、すぐに頷いた。
「ええ。今日は急ぎません」
それだけだった。
神殿長も、国王も、言葉を足さない。
最初から、そのつもりだったかのように。
サクラは、ほんの少しだけ肩の力を抜く。
「……ありがとうございます」
軽く頭を下げると、リエットが一歩、横にずれた。
「部屋は、前と同じです」
「助かります。変わっていたら、たぶん迷っていました」
冗談めかして言うと、
張りつめていた空気が、わずかに緩む。
「それは困りますね」
リエットも、ほんの少しだけ笑った。
サクラが歩き出そうとした、そのときだった。
「副師団長」
低く、よく通る声が結界の中心に落ちる。
ヴァルター・アイゼンだった。
クロトが即座に足を止め、振り向く。
ヴァルターはサクラを一瞥し、
結界の状態と彼女の立ち姿を、短く確認する。
「転移直後だ。今日は消耗も大きい」
淡々と、だが判断は明確だった。
「部屋まで、確実に送れ。警戒は不要だが、護衛はつける」
命令だった。
配慮ではなく、現場責任者としての指示。
「承知しました」
クロトは一切の間を置かずに応じる。
それ以上の言葉は交わされない。
ヴァルターは、すでに次の配置へと意識を移していた。
クロトが一歩前に出る。
「サクラ様。移動中は、私がつきます」
「ありがとうございます」
それだけで、十分だった。
二人並んで歩き出す。
結界の中心から離れるにつれ、空気が少しずつ軽くなる。
「……転移、久しぶりでしたね」
「えぇ。思ったより、きました」
「気分の悪さや、立ちくらみはありませんか」
「それ、昔からの聞き方ですよね」
「慣れているだけで、問題がないとは限りませんから」
「……ありがとうございます」
歩調が、自然に合わされる。
「今日は、もう休まれてください」
「はい。そうします」
少し間を置いてから、クロトが続けた。
「戻ってきてくださって、ありがとうございます」
足を止めずに言われたその声は、
改まった礼ではなかった。
サクラは、本当に少し驚いたような顔をして、
「……クロトさんに、そんなふうに言われるとは思いませんでした」
「事実ですから」
それ以上は、言わない。
短い沈黙のあと、
見慣れた扉の前で、サクラが足を止める。
「ここですね」
「はい」
クロトは一歩下がり、
いつもの警護の位置に立つ。
サクラは、何も言わずに待った。
淡い光が、静かに広がる。
空気が、ほんの少しだけ重くなる。
「……結界ですか?」
「はい。何かあれば、すぐに駆け付けます」
「……助かります」
サクラは扉に手をかける。
「夜は?」
「夜勤が引き継ぎます」
「分かりました」
それで、話は終わりだった。
サクラは扉を開け、振り返る。
「じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
扉が閉まり、
その音だけが、廊下に小さく残った。
クロトは一歩下がり、入念に結界の反応を確認する。
異常はない。
通信石を取り出し、短く告げた。
「巫女、休養に入った。
夜間、引き継ぎを頼む」
すぐに返事が返る。
クロトは踵を返し、歩き出した。
これで、いつも通りだ。
何かあれば、すぐに駆け付けられる。
クロトは次の任務へと、足を向けた。
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幕間 任務
「南東、第三固定点。
魔力反応、規模は中」
報告を受けて、クロトは頷いた。
「特別師団、第二班を先行」
名を呼ぶ。
「ヴァルド。指揮を任せる」
「了解」
短く、即答が返る。
「リーゼ、探査を。
ノイン、浄化準備」
「了解です」
「準備できています」
三人とも、余計な確認はしない。
「副師団長、準備完了です」
「転移する」
次の瞬間、転移の衝撃が地面を叩いた――
砂と魔力が同時に舞い上がる。
夜の森は、すでに歪んでいた。
「――出る」
クロトの声とほぼ同時に、魔力反応が弾ける。
地面が割れ、黒い影が這い出した。
中型。複数。速度が速い。
「来ます!」
リーゼが一歩前に出る。
視線が走り、即座に叫んだ。
「左三、右奥一! 核、浅い!」
「ヴァルド、前!」
「了解!」
ヴァルドが剣を抜く。
踏み込みは一拍。
次の瞬間、獣の顎が空を切った。
重い一撃。
だが、剣は止まらない。
「ノイン!」
「浄化、展開!」
ノインが詠唱を切り上げ、術式を叩き込む。
光が走り、地面に焼けた線が残る。
影の一体が跳ねた。
クロトが動く。
剣が振るわれたと認識した瞬間、
すでに魔物は倒れていた。
核だけを断ち切る一閃。
血も悲鳴も、遅れて落ちる。
「数、減りました!」
リーゼが後退しながら、次の反応を拾う。
「まだ出ます。下です!」
「囲ませるな!」
クロトの声が落ちる。
地面が再び割れた瞬間、
ヴァルドが盾代わりに踏み込み、衝撃を受け止める。
「……っ!」
「まだ、持ちこたえられます!」
「無理するな、下がれ!」
クロトが間に入る。
魔力が刃に集まり、夜が裂けた。
轟音。
残った影が、一斉に霧散する。
一瞬の静寂。
「……終わりです」
ノインが息を整えながら言う。
リーゼはすぐに周囲を確認した。
「追加反応、なし。
――副師団長、巫女側は?」
クロトは剣を納める前に、
自ら構成した結界の反応を探る。
「異常なし」
それだけで、十分だった。
「現場、収束。
報告書は明日でいい。今日は各自、休め」
「了解」
転移魔法陣が、再び光る。
次の瞬間、特別師団の姿は、夜から消えた。
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