第3章:幾何学の迷宮と、座標を持たない少女
1. 古代の遺跡
森を彷徨って五日目。
ナオトは、偶然にも人工物を発見した。
苔むした石造りの建造物。崩れかけた柱と、地面に半ば埋もれた石板。そして——入口には、複雑な幾何学模様が刻まれていた。
「……遺跡、か」
ナオトは眼鏡を押し上げ、入口の模様を観察する。
円、三角形、正方形が複雑に組み合わされている。そして、その配置には明確な規則性があった。
「これは……円周角の定理を応用した魔法陣だ」
彼は石板を取り出し、模様を書き写し始めた。
「円に内接する三角形の頂点を結ぶと……ああ、なるほど。中心角と円周角の関係を使って、魔力の流れを制御しているのか」
ナオトは感心したように呟く。
「この文明、少なくとも幾何学の基礎は理解していたんだな。興味深い」
彼は遺跡の入口に足を踏み入れた。
内部は薄暗く、冷たい空気が流れている。壁には、入口と同様の幾何学模様が無数に刻まれていた。
ナオトは慎重に奥へと進む。
そして——
がん、がん、という打撃音が響いてきた。
「……誰かいるのか?」
ナオトは警戒しながら音の方向へ向かう。
そして、広間に出た瞬間——彼は目を見開いた。
巨大な石の扉の前で、一人の少女が斧を振り下ろしていた。
赤い髪をポニーテールに束ねた、軽装鎧の少女。琥珀色の瞳には、明確な苛立ちが浮かんでいる。
がん!
斧が扉を叩く。しかし、扉はびくともしない。
「開けなさいよ! 開けってば!!」
少女——リナ——は叫びながら、何度も何度も扉を叩き続けた。
そして——
ばきん。
斧の柄が、折れた。
「……え」
リナは呆然と、手元に残った柄を見つめる。
そして、地面に膝をついた。
「……嘘でしょ。やっぱり、私じゃダメなの……?」
その声は、震えていた。
ナオトは少しの間、黙ってその姿を見ていた。
そして——彼は静かに声をかけた。
「……その扉、力じゃ開かないよ」
---
2. 開かない扉と脳筋の限界
リナは勢いよく振り返った。
「誰よ、あんた!?」
そこには、銀縁眼鏡をかけた痩せた少年——ナオト——が立っていた。黒いローブを纏い、石板を小脇に抱えている。
「僕? ただの通りすがりの数学使いだよ」
「数学使い……? 何それ、聞いたことないんだけど」
リナは警戒するように双剣の柄に手をかける。
ナオトは気にせず、扉の方へ近づいた。
「この扉、力任せに叩いても開かない。見てごらん」
彼は扉の表面を指差す。
そこには、32個の小さな円形の窪みが、規則的に配置されていた。それぞれの窪みには、微かな魔力の痕跡が残っている。
「これは魔力スイッチだ。32個全てに、正確な力を加えないと開かない」
「……知ってるわよ、そんなこと」
リナは悔しそうに顔を歪める。
「私だって、全部のスイッチに攻撃当ててるわ。32発の火球、全部命中させたもん。でも……」
彼女は拳を握りしめる。
「……威力が足りないのよ。私のキャパシティじゃ、こんな重い扉、動かせない」
「違うよ」
ナオトは首を横に振った。
「力不足じゃない。向きが違うだけだ」
「……は?」
リナは理解できないという顔でナオトを見た。
ナオトは石板を取り出し、扉の図を描き始めた。
「この扉は、ベクトルギミックだ。力には『大きさ』だけじゃなく『向き』もある。32個のスイッチに加えられた力のベクトルを合成して——」
彼は数式を書く。
ベクトルF = {i=1Σ32 ベクトルEi}
「——合成ベクトル、ベクトルFが、特定の方向を向いた時だけ扉が開く」
「ベクトルって何よ!」
リナは頭を抱えた。
「わけわかんない! 日本語で話してよ!」
ナオトは眼鏡を押し上げ、少し考えてから言い直した。
「……つまり、『どの方向に、どれだけの強さで押すか』が重要ってこと。君は全部のスイッチを叩いたけど、押す方向がバラバラだったから、力が打ち消し合ってしまったんだ」
「……そんなの、どうやって調整するのよ」
リナは諦めたように肩を落とす。
「32箇所も、正確な向きで撃つなんて無理よ。私、そんな器用じゃないもん……」
「器用じゃない?」
ナオトは首を傾げた。
「君、並列数はどのくらい?」
「並列数? ……32だけど」
その瞬間、ナオトの目が輝いた。
「32……!」
彼はリナの肩を掴んだ。
「完璧だ。君は最高のデバイス(演算装置)だ!」
「ちょ、ちょっと! 何よ、いきなり!」
リナは慌てて身を引く。
ナオトは興奮したように早口で話し始めた。
「並列数32ってことは、32個の演算を同時処理できるってことだ。つまり、僕が座標を指定すれば、君はそれを同時に実行できる……!」
「だから日本語で……!」
「要するに」
ナオトは深呼吸をして、言い直した。
「僕が『どこを、どう撃て』と指示する。君は、何も考えずにその通りに撃つ。それだけだ」
リナは戸惑った表情で、ナオトを見つめた。
「……それだけで、扉が開くの?」
「開く」
ナオトは断言した。
「君の並列処理能力があれば、必ず開く」
リナは少しの間、黙っていた。
そして——折れた斧を地面に置き、双剣を抜いた。
「……わかったわ。やってみる」
彼女は琥珀色の瞳で、ナオトを真っ直ぐ見つめた。
「でも、もし開かなかったら……あんた、ただじゃ済まさないからね」
ナオトは小さく微笑んだ。
「安心して。計算は、僕が得意とするところだから」
---
3. 演算装置(デバイス)としての覚醒
ナオトは石板を開き、扉の32個のスイッチの座標を記録し始めた。
「まず、各スイッチの位置を三次元座標で定義する。原点を扉の中心として……」
彼はチョークを走らせる。几帳面な文字が、石板を埋めていく。
リナは双剣を構えたまま、不安そうに尋ねた。
「……ねえ、本当に大丈夫なの? 私、そんな複雑なこと、できる自信ないんだけど」
「大丈夫だよ」
ナオトは顔を上げずに答えた。
「君は何も考えなくていい。反射神経だけでやればいい」
「反射神経……?」
「そう。僕が座標を読み上げる。君は、それを聞いた瞬間に体を動かす。意識するな。考えるな。ただ、反応しろ」
ナオトは石板を閉じ、リナと向き合った。
「準備はいい?」
リナは息を呑み、双剣を握りしめた。
「……来なさいよ」
ナオトは頷き、淡々と座標を読み上げ始めた。
「第1スイッチ。座標(2, 5, 1)、角度30度、北東方向——」
リナの体が、反射的に動いた。
右手の剣が薄い魔力の光を纏い、指定された場所へ向けて火球を放つ。
「第2スイッチ。座標(4, 3, 2)、角度60度、東方向——」
今度は左手。
リナ自身、何も考えていなかった。ただ、ナオトの声を聞いた瞬間、体が勝手に動いていた。
「第3、第4、第5——」
ナオトの声が加速する。
リナの双剣が、目にも止まらぬ速さで光の軌跡を描く。32発の火球が、寸分の狂いもなく、それぞれのスイッチへと飛んでいく。
「——第30、第31、第32。全座標指定完了。発射!」
ナオトの指示と同時に、リナの最後の一撃が放たれた。
32発の火球が、同時に扉のスイッチを叩く。
瞬間——
ごごごごご、と遺跡全体が震えた。
扉の表面に刻まれた魔法陣が、青白い光を放ち始める。32個のスイッチから放たれた魔力が、一本のベクトルへと収束していく。
そして——
がこん。
重々しい音とともに、扉がゆっくりと開き始めた。
「……開いた」
リナは呆然と、自分の手を見つめた。
「私……何も考えてないのに。体が勝手に……」
ナオトは満足げに眼鏡を押し上げた。
「計算終了(Q.E.D.)。君の並列処理能力、本物だね」
彼はリナの方を向き、静かに言った。
「思考は僕が担当する。君は出力(実行)だけすればいい」
ナオトは手を差し出した。
「……どうだい、リナ。僕と組まないか?」
リナは戸惑ったように、ナオトの手を見つめた。
パーティを追放されて、一人で遺跡に挑んで、絶望していた。
自分の才能——並列数32——が、何の役にも立たないと思っていた。
でも——
この少年は、それを「最高のデバイス」と呼んだ。
何も考えなくても、彼の指示に従うだけで、不可能だった扉を開けた。
リナはゆっくりと手を伸ばし——ナオトの手を握った。
「……名前、なんて言うの?」
「ナオト。ナオトだよ」
「ナオト、ね」
リナは小さく微笑んだ。
「私、リナよ。リナ・フォルネウス。……よろしく」
「こちらこそ」
ナオトは握った手を離さず、真っ直ぐリナを見つめた。
「君は、僕にとって完璧な演算装置(パートナー)だ。一緒に、この遺跡の謎を解こう」
リナは少し照れたように視線を逸らしたが——すぐに、決意を込めた表情で頷いた。
「……わかったわ。でも、次からはもうちょっと、わかりやすく説明してよね」
「善処する」
ナオトは小さく笑った。
二人は開いた扉の向こう——遺跡の深部へと、足を踏み入れた。
---
開いた扉の先には、長い石造りの廊下が続いていた。
壁には、入口と同じような幾何学模様が無数に刻まれている。魔力の残滓が、微かに光を放っていた。
「……すごい」
リナは周囲を見回しながら呟いた。
「こんな遺跡、初めて見たわ。一体、誰が作ったのかしら」
「古代の数学者たちだろうね」
ナオトは壁の模様を観察しながら答えた。
「この幾何学模様、全て数学的に完璧な配置だ。円周角、相似、黄金比……全てが調和している」
「数学者……?」
リナは不思議そうに首を傾げる。
「魔法使いじゃなくて?」
「魔法と数学は、本来同じものだったんだと思う」
ナオトは石板に模様を書き写しながら続けた。
「でも、いつからか人々は数学を忘れ、魔力の量だけを追い求めるようになった。……残念なことだね」
リナはナオトの横顔を見つめた。
この少年は、他の魔法使いとは明らかに違う。
キャパシティは低い。でも、知識と論理で——数学で——不可能を可能にする。
_私の並列数を、初めて「才能」だと認めてくれた人_
リナは小さく微笑み、ナオトの隣を歩き続けた。
廊下の先には、さらなる試練が待っているだろう。
でも——今は、一人じゃない。
「ねえ、ナオト」
「何?」
「……ありがとね。扉、開けてくれて」
ナオトは少し驚いたように振り返り——そして、優しく微笑んだ。
「お礼なら、これからもっと言う機会があるよ。僕たち、まだ遺跡の入口を通過しただけだからね」
「……そうね」
リナは双剣の柄を握りしめた。
「次は何が来ても、私、あんたの指示通りに動くわ」
「頼りにしてる」
二人は、遺跡の深部へと進んでいった。
石板を持つ少年と、双剣を持つ少女。
頭脳と身体。
計算と実行。
完璧なバディが、今ここに——誕生した。
——第3章 終——
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