第六話 正しい誤解

玉座会議の夜は、いつも静かだ。


広間の喧噪が引いたあと、城の奥に残るのは、石造りの廊下にしみついた冷気と、灯火の匂いだけになる。

見張りの足音も、いつもより慎重で、いつもより短い。

誰もが、わずかな音を大きく聞き取ってしまう。

疲れ切った日の夜ほど、空気は過敏になるのだ。


机に向かい、羽根ペンの先を整える。


書類の束は、昼より増えていた。


戦況報告と物資の見積もり、討伐軍の再編案、各地からの嘆願、寺院からの祈祷要請、貴族家の“提案”と称する要求書。

そこへ、先ほど決裁された玉座会議の議事録が加わった。


指先で紙をめくるたび、紙の乾いた音が、やけに大きく響く。


私は、こういう夜が嫌いではなかった。かつては。


国のために働いているという実感がある。

自分の判断で、明日を少しだけ良くできる気がする。

詭弁かもしれないが、書類仕事には、世界を整理する力がある――そう信じた時期があった。


だが近頃は違う。


書類が“世界”ではなく、“破片”に見える。


積み上げても積み上げても、形にならない。

整理すればするほど、欠けている部分の大きさばかりが目につく。

何かを救う決裁は、別の何かを切り捨てる決裁になる。

どれほど最善を選んでも、結果は悪化する。


最善手を打ち続けているはずなのに、状況は悪化する一方。


私はペン先を紙に当て、最初の書類に署名する。

王の名の下に行う手続きは、王の手を煩わせぬための仕組みだ。

だがそれは同時に、“王が見る必要のない現実”が、私の机へと集まってくる仕組みでもある。


まずは、討伐軍殉職者の見舞金。


紙の上には名が並び、数字が並ぶ。

数字の横には家族構成。

幼い子がいる者、老いた親を抱える者、妻が病の者。


紙は冷たい。文字は整っている。


けれど、名を追うたびに、胸の奥が重くなる。


見舞金の額は、妥当だ。

国庫が許す範囲で、最大限を――そうやって決めた。

だが最大限は、年々下がっていく。


また国庫が軽くなる。


その先を考えると、指が止まる。


国庫が軽くなれば、物資が減る。

物資が減れば、討伐は遅れる。

遅れれば被害は広がる。

被害が広がれば税収は落ちる。

税収が落ちれば国庫はさらに軽くなる。


輪が、閉じている。


私は、紙の端をつまんで息を吐いた。


天候不順による税収減――報告書の端に添えられたその一行が、嫌に具体的な痛みとして迫ってくる。


今年の収穫は悪い。

雨が降るべき時期に降らず、降らぬはずの時期に降った。

霧が畑を覆い、苗を腐らせたという話もある。

川の水位が急に上がり、堤が傷んだという話もある。

村の長は、口をそろえて言う。「今までこんなことはなかった」と。


今までなかったことが、今は起きる。


それが一番厄介だ。


“今まで”の理屈が通じないのだから。


私は、机の端に積んだ別の書類束へ手を伸ばす。

王の裁可を必要とする項目――ここ数年で、その数は確実に増えた。

増えたというより、“今までなら迷わず通せた”ものが、迷いを必要とするようになった。


誰かを救えば、誰かが死ぬ。


そういう取引を、書類の形に整えているだけではないか。


不意に、昼の広間がよみがえる。


玉座の前で、報告を聞いた王の横顔。強い顎。澄んだ目。

怒りを抑え込むために噛みしめる奥歯。その姿が、嘆きではなく、責任の形に見えた。


あの怒りは誰に向けたものなのか。


そういえば、先日、珍しく王が怒鳴る場面があった。


召喚の儀式のときだ。


あの場にいた者の多くが、王を“感情的”だと噂するのだろう。

怒りに任せて怒鳴り散らし、鬱憤を発散するだけの愚物――そう決めつける者もいるかもしれない。


だが私は知っている。


あの方は、そんな王ではない。


知力、武力、ともに歴代の王の中でも指折りの逸材。

若いころの数少ない失策も、経験不足が招いたものだ。

それすら糧にして、いまでは王としてふさわしい貫録を身につけた。


怒りは、発散ではない。必要なときに必要な形で使う。

恐怖を押し殺すために使う。臣下が崩れ落ちないために使う。そういう怒りだ。


――あのときも、きっと。


昔、爺、爺と慕ってくれていたころを思い出すと、目頭が熱くなる。


いかん。


私はペンを置き、掌で目元を押さえた。感傷に浸っている暇はない。

書類は減らない。現実も減らない。涙で紙を濡らせば、余計な仕事が増えるだけだ。


呼吸を整え、私は次の書類に手を伸ばす。


討伐軍の再編案。


討伐は、すでに“戦”ではない。戦ならば、勝つための道筋がある。

敵の動きがあり、兵の動きがあり、地形があり、補給があり、戦術があり、政治がある。

勝敗には、まだ人の意志が挟まる。


だがこれは違う。


魔獣は、戦を知らない。外交も知らない。脅しも利かない。降伏も利かない。


人間同士の争いなら、降伏することもできる。


だが、相手が自然災害のようなものなら?


圧力を逃がすために土地を捨てることはできる。住民を移すこともできる。だが捨てた土地は、もう戻らない。捨て続ければ、国は縮み、縮んだ国は弱くなる。弱くなれば、次の一撃に耐えられなくなる。


書類の端にある注釈が目に入る。


――「討伐隊、三隊を維持するには、兵站が限界。四隊目の編成は不可能」


限界、という言葉が重い。


限界は、壁ではない。


限界は、底だ。


叩いても響かない。

そこから先に進むには、別の地面を用意するしかない。


そして王は、別の地面を用意しようとした。


起死回生の一手――異世界召喚。


世界の危機に際し、異世界より“力”を呼び出す。

古文書の片隅に残る禁忌に近い儀式。神話と伝承と、わずかな実例。

その実例と呼べるものすら、曖昧な記録にすぎない。


だが、わずかでも可能性があるなら、賭ける価値はあった。

少なくとも、私たちはそう判断した。


儀式自体は成功した。


魔法陣は発光し、空気は歪み、広間の温度は落ちる。

匂いが変わり、目に見えない何かが、そこに“通路”を作ったのが分かった。


召喚陣の中心、床へ横たわるようにして、少年が現れた。


異世界人を呼び出すことはできた。


――だが、この弱々しい少年に、世界を救う力があるのか。

誰もが、同じ疑念を抱いた。


そこで王が命じた。


鑑定。


人が持つ“スキル”を調べる術。

魔法の系統とは異なり、神授に近い、世界の理の裂け目に触れる技術だ。


鑑定の瞬間、頭の内側が白くなる。


いつもそうだ。視界が狭まり、音が遠のく。

代わりに言葉にならない“情報”が流れ込む。

感覚が意味を持つ前に、意味が感覚として落ちてくる。


そして、そのとき私は見た。


――ドミノ。


聞き覚えのない単語。


古語でもなく、学術院の辞書にもない。

王国のいずれの方言にも該当しない。


異世界の言葉なのだろう。


意味は分からない。

だが鑑定と同時に脳裏に浮かんだ詩文が、その欠落を埋めた。


文章というより、詩だった。

規則は曖昧で、祈りにも、勝利の詩にも見える。


言葉の一つひとつが、頭ではなく胸に落ちてくる。


因果を連鎖させ、望む結果を引き起こす。


あり得ない。

学者としての理性は、即座にそう断じた。


そんな――そんな都合のいい力が、世界にあるはずがない。

神話の中でさえ、対価を払わぬ奇跡は疑わしい。


魔法であれば、代価がある。術式であれば、条件がある。

力が大きければ大きいほど、制約は重い。


――それでも。


鑑定が見せた、詩文は理性の声を押し流した。


破格の力。

まさに、我々が渇望していた、世界を救う奇跡。


私は、心の奥で笑いそうになった。

救いに触れたとき、人は泣くか笑うかしかできない。

その夜、私はそれを知った。


王も、同じだったのだろう。


あの方の目が、ほんの一瞬だけ柔らかくなったのを私は見ている。

臣下の誰も見ていない瞬間に、肩の力が抜けたのも見ている。


王は人前で弱さを見せない。だが人の心があるなら、あの瞬間だけは、許されたはずだ。


そして――だからこそ。


少年がスキルを使った結果は、あまりにも静かだった。


空気は震えず、光も走らない。

奇跡の発露と呼べる変化は、何一つ観測されなかった。


王に命じられ、

少年は絞り出すような声で「ドミノ」と呟いた。


その直後、彼は目の前に何かを見つけたような素振りを見せ、

装飾用の壺を指さして、調べたいと言い出した。


王は、感情を抑えるため、あえて無感情に命じる。

壺を、見せてやれ。


兵士から壺を渡されたとき、

少年は受け取ろうとして、手を滑らせた。


乾いた音が一つ。


割れた壺の中から、金貨が一枚。


床を転がり、

しばらく、くるくると回ったあと、止まった。


それだけだった。


私たちは、言葉を失った。


奇跡のはずだった。

世界を救うはずだった。

あの詩文は、確かにそう語っていた。


少なくとも、私はそう受け取った。


なのに、金貨が一枚。


国庫を救うには足りない。

討伐軍の命一つも救えない。

飢えた村を一日延命させることすらできない。


“望みを叶える”とは、何だったのか。


あの場にいた誰もが、落胆していた。


王が怒りをあらわにしたのも、

皆の絶望を押し流すためだったのだろう。


怒りは、炎だ。

暗闇で人を動かし、立ち止まる者を前へ押し出す。


燃え尽きる前に、

次の火種を探すための時間を稼ぐ。


王は、時間を稼いだ。


だが――時間は、何のためにある?


私は今、机の前で、その問いに向き合っている。

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2026年1月14日 21:00
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何も起きない異世界召喚 僕のスキルは、意味不明だった 一月三日 五郎 @goro135

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