第五話 成果
最初に異変として現れたのは、静寂だった。
丘陵の稜線を越えて吹き下ろしてくる風が、唐突に止んだ。
草が揺れるのをやめ、低木の葉が貼りついたように静止する。
次の瞬間、大地が沈んだ。
足元の土が一拍遅れて揺れ、丘の斜面を覆っていた石が跳ねる。
兵の列にざわめきが走り、喉を鳴らす音が連なった。
「――来るぞ」
低い声が前線で落ちる。
視界の向こうが歪んだ。
空気が、裂けるように揺れた。
丘の向こう側から現れたのは、獣と呼ぶにはあまりに大きすぎる影だった。
全長五メートル級。
盛り上がった肩と背筋が稜線を越え、次いで巨大な前脚が地面を踏みしめる。
土が潰れ、斜面が崩れ、長い爪が岩を引き裂いた。
魔獣。
それは、いきなり襲いかかってはこなかった。
低く唸りながら、前脚に体重をかける。
肩の盛り上がった筋肉が、不自然なほど大きく膨らんだ。
次の瞬間、巨体が持ち上がる。
前脚が地面を離れ、魔獣はゆっくりと、直立しかけるように上体を起こした。
土が崩れ、斜面が滑り落ちる。
重さに耐えきれず、岩が砕け、乾いた破裂音が丘に響いた。
――高い。
見上げた兵の視界を、影が覆い尽くす。
その姿を視認した瞬間、兵の喉が鳴った。
恐怖は、理解より先に来る。
足が、言うことをきかなかった。
「盾、前へ! 間隔を保て!」
怒号が飛ぶ。
訓練通り、兵たちは散開し、包囲の形を維持する。
逃げる者はいない。だが、誰もが分かっていた。
――これは、人間が相手取る大きさではない。
前に立っているのは、一人だけだった。
王国の守護者。
中央に立つ槍の守護者は、呼吸を整えながら魔獣を見据えていた。
目は冷静だが、体は否応なく緊張している。
魔獣の一挙手一投足が、致命になり得る距離だ。
逃げ場のない距離だった。
守護者の視界で、距離が詰まっていた。
魔獣が咆哮した。
空気が震え、兵の何人かが反射的に耳を塞ぐ。
次の瞬間、巨体が前傾し、丘を滑り降りるように突進してきた。
「放て!」
弓兵の合図とともに、矢が雨のように降る。
数十本。だが、魔獣は止まらない。
矢は皮膚に突き立ち、肉を裂くが、致命には程遠い。
衝突。
盾列が弾かれ、三人の兵が宙を舞った。
地面に叩きつけられ、動かなくなる。
悲鳴を上げる暇すらない。
「後退! 二列目、前へ!」
指示が飛ぶが、魔獣は止まらない。
前脚を振り回し、兵を薙ぎ払う。
人間の体が、藁束のように飛ぶ。
守護者は、歯を食いしばった。
――正面は無理だ。
守護者は、斜面を横切るように走った。
盾列の影に身を沈め、視界から消える。
魔獣がそちらを向いた瞬間、地面が再び揺れる。
背後から、二体目が姿を現した。
「……二体目!」
誰かが、喉を絞るように叫んだ。
可能性としては、考えていた。
だが、実際に目にすると、心臓の拍動が跳ね上がる。
丘陵は広い。
視界は悪く、どこからでも現れる。
「包囲を維持しろ! 崩すな!」
叫びながら、守護者は走った。
足元の崩れる地面を蹴り、岩陰へ身を投げる。
その瞬間、大地が裂けた。
三体目。
地中から這い出るように、もう一体の魔獣が姿を現した。
土と石をまとい、咆哮を上げる。
――三体。
兵の顔から、血の気が引く。
守護者は瞬時に判断した。
「隊を割るな! 一体ずつ引き離す!」
言葉と同時に、動いた。
正面の魔獣が再び突進してくる。
守護者は、あえてその進路に立つ。
影が、急速に視界を埋めていく。
恐怖が、骨を打つ。
だが、踏み出した。
魔獣の爪が振り下ろされる。
寸前で身を翻し、衝撃をかわす。
地面が抉れ、土煙が舞う。
守護者は間合いを詰め、魔獣の巨体の影へ潜り込む。
槍が突き立てられる。
だが、浅い。
魔獣が吼え、体を振る。
守護者が吹き飛ばされ、斜面を転がった。
「――くそっ」
魔獣は倒れない。
それどころか、怒りで動きが荒くなる。
兵が再び犠牲になる。
一人、また一人。
それでも、包囲は致命的には崩れていなかった。
時間が、削られていく。
守護者は、息を整えた。
次が、最後の機会だ。
周囲の音が、遠のいた。
魔獣が咆哮し、頭を上げる。
胸部が、わずかに露出する。
――今だ。
斜面を蹴り、全力で踏み込む。
重力と体重を槍に乗せ、渾身の一突き。
硬い感触。
骨を貫く手応え。
魔獣が呻き、膝を折る。
巨体が崩れ落ち、地面が再び揺れた。
残る二体も、同じではなかった。
一体は丘の向こうへ逃れようとし、兵が追う。
一体は狂ったように暴れ、さらに被害を出す。
討伐が終わったのは、日が傾いた頃だった。
丘陵には、動かない兵の影が残された。
勝った。
だが、誰一人として、勝利を口にしなかった。
そして数日後――
玉座の間は、今日も変わらず整っていた。
高く組まれた天井。
規則正しく並ぶ柱。
赤い絨毯に、乱れはない。
儀礼官の声が、感情を排したまま響く。
「王国の守護者、入場」
宰相は、定められた位置に立ち、その光景を見つめていた。
丘陵地帯へ向かった守護者は、任を果たして戻ってきた。
鎧に刻まれた傷は隠しきれていないが、血や泥は落とされている。
戦いは、すでに過去の出来事として整えられていた。
「丘陵地帯に出現した魔獣について、報告を」
中央に立つ守護者が、一歩前へ出る。
「魔獣は三体。いずれも五メートル級。丘陵地帯西側より出現しました」
宰相の耳には、淡々とした口調にしか聞こえなかった。
誇りも、恐怖も、そこにはない。
「兵五百を動員。包囲を敷き、各個撃破を実施。三体すべて、討伐を確認しています」
宰相は、その言葉を聞きながら、頭の中で地図を広げていた。
丘陵地帯。
見通しが悪く、街道が集中する場所。
町と町をつなぐ、国の関節部。
兵五百。
この国にとって、軽い数字ではないと宰相は知っていた。
「被害状況を」
宰相の問いに、守護者は即答した。
「戦死三十二名。重傷二十七名。軽傷多数。
街道の一部が崩落し、現在通行不能です。
物流に影響が出ます」
三十二。
想定内。
だが、軽くはない。
「農地への影響は」
「丘陵南側の畑が一部踏み荒らされています。範囲は限定的ですが――」
言葉が、わずかに喉で止まった。
そこへ、学者の一人が口を挟む。
「今年は、天候が芳しくありません」
宰相の耳には、感情のない報告にしか聞こえなかった。
「春先から雨が続き、日照が不足しています。この被害は、収穫に影響するでしょう」
宰相は、内心で息を吐いた。
魔獣は倒した。
だが、畑は戻らない。
街道は修復できる。
だが、今年の収穫は取り戻せない。
備蓄は削れる。
だが、削った分は、戻らない。
玉座を見上げる。
王は、静かに報告を聞いていた。
表情は動かない。
しばしの沈黙の後、王は視線を逸らさずに言った。
「……よく務めた」
それ以上の言葉はなかった。
儀礼官が進み出る。
「以上をもって、本日の報告を終える」
形式的な締め。
人々は順に退室していく。
宰相は、最後まで玉座の間に残った。
誰もいなくなった空間は、静かだった。
ふと、視線が玉座の脇に置かれた壺へ向く。
真新しい壺。
白い肌は、傷ひとつない。
そこに活けられた花は、瑞々しく、よく整えられている。
水は澄み、葉に萎れはない。
先日の儀式で割れた壺が、脳裏に浮かぶ。
場を乱した少年。
視線を彷徨わせ、怯えたように玉座を見上げていた。
――今頃、何をしているだろうか。
答えはない。
考えても仕方のないことだ。
宰相は思考を切った。
この国は、今日も正しい判断をしたはずだ。
魔獣は討たれ、秩序は保たれた。
玉座の間は、今日も整っている。
それで十分だ。
やがて、玉座の間には誰もいなくなった。
背後で、花は何事もなかったかのように揺れていた。
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