第四話 仮宿
孤児院の朝は早い。
子どもが多ければ、それだけやることも増える。
腹を空かせた子どもたちが起きてくる前に、
食事の準備を終えなければならない。
井戸から水を汲み、
かまどに火を入れる。
鍋に水を張り、残っていた豆を入れる。
豆は、少し古い。
乾ききって、表面にしわが寄っている。
それでも、煮れば食べられる。
塩は少しだけ。
多く入れると、あとで困る。
この場所では、
「今ちょうどいい」より、
「あとでも足りる」ほうが大事だった。
火が安定するまでの間、
窓を開ける。
朝の空気は冷たく、
湿り気が少ない。
最近、ずっとこんな感じだ。
雨が降らない、
という噂が頭をよぎる。
噂は、増えている。
治安が悪くなったとか、
盗みが増えたとか、
町の外れで魔獣を見たとか。
どれも、
誰かが「見たらしい」「聞いたらしい」
という話ばかりだ。
本当かどうかは分からない。
だが、
まったくの嘘でもないのだろう。
物の値は、確かに上がっている。
去年と同じ量の穀物を買うのに、
少し多く払うようになった。
それだけで、
十分すぎる兆しだった。
母屋の外に出ると、
薪小屋の前に、あの少年がいた。
行くあてがないらしい。
年は、十代の後半だろう。
若すぎるほどではないが、
大人として扱うには、
どこか頼りない。
昨日より、
姿勢がましだった。
背中が伸びたわけではない。
ただ、
いつでも逃げ出せる構えではなくなっている。
それだけで、
少し印象が変わる。
「薪を全部出すんだ。
長いのと短いのに分ける。
泥がついてるのは、落とす。
割れかけは、端だ」
言いながら、
少し面倒な指示だとは分かっている。
だが、
薪小屋は整えておかないと、
あとで必ず困る。
「終わったら、
小屋の中を掃くんだ。
床に積もってる木屑は、
残すな」
少年は、
一瞬だけ戸惑ったように目を伏せ、
それから頷いた。
「……分かりました」
声は小さい。
だが、
昨日よりは、はっきりしている。
「食事と寝床の代わりだ。
仕事が終わったら、出す」
一拍置いて、
少年を見る。
「文句はないな」
「……ありません」
それでいい。
体つきを改めて見る。
細い。
だが、
弱々しいわけではない。
単純作業なら、問題なさそうだ。
目が、
少し落ち着いた。
昨日ほどではない。
だが、
安心しているわけでもない。
母屋のほうへ戻り、
洗濯桶を持つ。
かまどを確かめ、
裏手へ回る。
火は、
弱めたままだ。
布を水に沈め、
叩き、
絞る。
水音が、
思考を引き出す。
町の噂は、
どれも気になる。
どれも、
今すぐどうこうなる話じゃない。
だが、
重なれば、
話は別だ。
特に、
天候。
雨が少ないと、
畑の出来が落ちる。
そうなると、
口に入るものが減る。
それだけで、
人の顔つきは変わる。
そうやって、
何度も見てきた。
布を干しながら、
少年のほうを見る。
薪を小屋から運び出し、
地面に並べている。
置き方は、
正直に言って下手だ。
だが、
一つ一つ、
丁寧に扱っている。
乱暴に投げない。
折れた枝も、
きちんと拾う。
――悪くない。
今は門番をしている、元悪ガキの顔が浮かぶ。
昔から、
こういう面倒を持ち込む。
困っているものを見つけると、
放っておけない。
そのくせ、
自分では最後まで面倒を見ない。
昔、
犬を拾ってきたことがあった。
「飼いたい」と言って、
家まで連れてきて、
名前まで考えた。
だが、
餌をやったのは、最初だけだ。
餌も、
世話も、
いつの間にかこちら任せになった。
今回も、
同じだ。
「放り出すわけにもいかない」
「話ぐらい聞くだろう」
そう言って、
少年をここに寄こした。
そして、
顔も見せない。
腹は立つ。
だが、
今さらだ。
あの子が、
変わることはない。
布を干し終え、
手を拭く。
さて、
どうするか。
いつまで、
ここに置くのか。
いずれ、
どこかへ行かせるのか。
孤児院は、
決して余裕があるわけじゃない。
だが、
働き手が一人増えるのは、
悪くない。
手は、
いくらあっても足りない。
考えが、
まとまりかけたところで、
鍋の匂いが強くなる。
子どもたちの声が、
聞こえてくる。
朝食の時間だ。
考え事をする暇もない。
答えは、
後でいい。
今は、
子どもたちの飯だ。
昼を過ぎ、
日が少し傾いた頃。
薪小屋は、
見違えるほど整っていた。
長さごとに並べられ、
割れかけの薪は端に寄せられている。
床には、
細かな木屑が残るだけだ。
「いいだろう、飯にしな」
そう言われ、
少年は反射的に頭を下げた。
深くなりすぎたことに、
自分では気づいていない。
女は、
一瞬だけその様子を見た。
首を傾けるほどではない。
だが、
見慣れない動きだった。
少年は顔を上げ、
女の視線に気づいて
一拍、間が空く。
何か言うべきか迷い、
結局何も言えず、
視線を落として身を引いた。
それ以上、
言葉は交わさない。
それで事は済んだ。
夕方、
簡単な食事を取る。
木の椀に盛られた豆の煮込みは、
昼の残りだろう。
火を通し直しただけのものだ。
味は薄く、
香りも強くはない。
それでも、
十分だった。
一口ごとに、
体の奥が静かになる。
食べ物が、
体の奥へ落ちていく。
急ぐ必要はなかった。
誰かと話す必要もない。
食べ終えると、
椀の底に残った汁を
少しだけすすり、
立ち上がる。
食器を返すため、
母屋のほうへ向かう。
戸口の前で足を止める。
中の気配はある。
灯りも、消えていない。
だが、
中には入らない。
使った椀と匙を、
出入り口の脇に静かに置く。
それで十分だった。
誰かに声をかけることも、
礼を言うこともない。
用は、
すでに終わっている。
踵を返し、
薪小屋へ戻る。
外の空気は、
昼よりも冷えている。
日が落ちるのが、
少し早くなった気がした。
小屋の中は、
昼に整えたままの状態だった。
積まれた薪が、
壁沿いに並び、
影を落としている。
余計なものはない。
音もない。
薪にかけていた布をとり、
それを広げ、地面に敷く。
踏み固められた土は、
完全に平らではない。
背中に当たる感触が、
はっきりと分かる。
横になる。
体が、
地面に引き寄せられる。
一日中、
激しく動いたわけではない。
走ったわけでも、
力仕事をしたわけでもない。
それでも、
体の奥に溜まっていたものが、
一気に表へ出てくる。
手足が、
自分のものじゃないみたいに
重く感じる。
――眠れる。
それだけで、
十分だった。
目を閉じる。
薪の乾いた匂いと、
土の匂いが混ざる。
嫌な匂いではない。
小屋の中には、
自分の呼吸音だけがある。
その単調さが、
不思議と落ち着く。
小屋の外で、足音がした。
昨夜も、似た音を聞いた記憶がある。
布を、
少しだけ引き寄せる。
冷えた地面が、
背中から体温を奪っていく。
その感覚に、
逆らう気にはなれなかった。
疲れに引きずられるように、
意識が沈んでいく。
思考が、
一つずつ途切れていく。
今日は、
何も起きなかった。
そのことを、
ありがたいと思う。
何も起きなかったから、
こうして横になれる。
薪小屋の暗がりの中で、
その事実を確かめながら、
意識は静かに消えていった。
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