第二話 無一文
転移陣は、城壁の内側にあった。
城館からは少し離れた場所で、石造りの庭園の一角をそのまま囲ったような区画だ。花は咲いているが、飾るためというより、手入れされているだけという印象だった。低い石壁の外側には兵士が立ち、内側には余計なものが置かれていない。
ここが、僕を送り出す場所なのだと分かる。
護送の兵士は二人いた。
一人は前に立ち、もう一人は僕の少し後ろにいる。視線が常に背中にあって、振り返る気になれない。逃げようと思っても、どちらかに必ず捕まる配置だった。
僕は無言で、二人に挟まれる形のまま転移陣の中心に立った。
少し離れた位置に、魔法使いがいる。
年配の男で、豪奢とは言えないが作りの良さが分かる杖を持っていた。
この人が、何か魔法を使うんだろうか。
前を歩いていた兵士が、短く言った。
「準備はいいか」
準備と言われても、何をすればいいのか分からない。僕は頷くしかなかった。
後ろの兵士が一歩、距離を詰める。逃げる気があるかどうかを確かめているのだろう。そんなつもりはないのに、身体が少し強張った。
魔法使いは淡々と杖を転移陣に向けた。
低い声で呪文を唱え始める。意味は分からない。けれど、一定のリズムで紡がれる言葉が、空気を少しずつ変えていくのが分かった。
転移陣が、淡く光り始めた。
床に刻まれた文様が一つずつ浮かび上がり、庭園の明るさとは違う光を放つ。足元の石が、かすかに震える。
僕は無意識に息を止めていた。
魔法使いの声が、ふっと途切れた。
瞬間、視界が歪んだ。
落ちる感覚はない。引っ張られる感じもない。
ただ、世界の輪郭が薄くなり、裏返る。
一瞬、意識が飛んだような感覚があった。
音が遠ざかり、光が白く滲む。
次の瞬間――
強い風が、頬を打った。
僕は、石造りの中庭に立っていた。
周囲を囲むのは、低く分厚い壁と見張り台。城よりも無骨で、防ぐことだけを考えた造りだ。空が広く、風が冷たい。
前にいた兵士が一歩踏み出す。
「着いた」
それだけ言った。
城はもう、どこにも見えなかった。
少し歩いて、石の壁に切られた門を抜ける。
門を抜けた先には、舗装されていない道が続いていた。左右には草の生えた地面が広がり、遠くまで見渡しても、人の気配はない。
前を歩く兵士が、足を止める。
前の兵士が腰の袋に手をやり、水筒を軽く揺らした。
後ろの兵士も、無言で荷を整える。
僕は、その様子を見ているだけだった。
何も渡されない。
前の兵士が、歩き出す。
「行くぞ」
道は、町へ続いているらしい。
どれくらいかかるのか、聞かなかった。聞いても、答えが返ってくる気がしなかった。
歩き始めてしばらくして、分かった。
転移は、ここで終わりだった。
足元の感触が変わらないまま、景色だけが少しずつ流れていく。風の向きが変わり、日差しが傾いていく。
前の兵士が、小さく舌打ちをした。
後ろの兵士が、短く言う。
「黙って歩け」
「分かってるよ」
そう返しながらも、前の兵士の足取りは荒い。舗装されていない道を、蹴るように進む。
僕は、その後ろを歩く。
どこへ向かっているのか、正確には分からない。
ただ、知らない土地を、知らないまま進んでいる。
それだけは、はっきりしていた。
歩き続けているうちに、前方の景色に、少しずつ変化が現れた。
道の両脇の草は踏み固められ、古い轍が残っている。新しい道ではない。
等間隔に立つ木の杭が続く。何のためのものかは分からないが、放置されている感じでもなかった。
風の音に紛れて、かすかな人の痕跡が混じり始める。
壊れた木箱や、布切れのようなものが道端に落ちていた。
やがて、遠くに屋根が見えた。石と木の建物が、固まって並んでいる。
町だ。
前の兵士が足を止める。
僕は、その背中を見ながら、息を整えた。
簡素な門のそばで、前の兵士が足を止めた。
「少し待て」
そう言って、後ろの兵士が門の脇へ向かう。
門番のような男に声をかけ、そのまま歩いていった。
男は周囲を一度見回し、短く頷く。
二人は、門の脇で話し始めた。
僕と、もう一人の兵士だけが、その場に残された。
することもなく、視線をさまよわせる。
人の流れが、途切れずに行き交っている。
荷を抱えた者、立ち止まる者、足早に通り過ぎる者。
視線の先で、いくつもの動きが重なっては流れていく。
兵士が、ちらりとこちらを見る。
僕は、何となく落ち着かなくなって、ポケットに手を入れた。
指先に、硬い感触がある。
取り出して、手のひらに乗せる。
金貨だった。
しばらく眺めてから、思わず口に出る。
「……これが、全財産か」
言った瞬間だった。
兵士が、何の前触れもなく手を伸ばしてきた。
金貨が、手のひらから消える。
あまりにも自然な動きで、一瞬、何が起きたのか分からなかった。
「悪く思うなよ。
ここまでの運賃だ」
言い終わるころには、金貨はもう兵士の懐に入っていた。
返してほしい、と言おうとして、声が出なかった。
何を根拠に、と思ってしまったからだ。
そのとき、門番のような男と話していた兵士が戻ってくる。
一瞬だけ、僕の顔を見る。
それから、僕から金貨を奪った兵士を見る。
「……何をやっている」
彼は、肩をすくめた。
「何も」
それ以上、言葉は続かなかった。
短いやり取りだった。
見て見ぬふりをした兵士は、それ以上何も言わなかった。
「話は通した」
それだけ言って、二人の兵士は踵を返した。
来た道のほうへ、歩き出す。
僕から金貨を奪った兵士は、何事もなかったように先を行く。
別れだ、と分かった。
だが、見て見ぬふりをした兵士が、足を止める。
足早に僕に近づくと、隠すように、小さな包みを押し付けてきた。
「……腹に入れとけ」
それだけ言って、視線を逸らす。
二人の背中が、だんだん小さくなる。
僕は、包みを開いてみる。
中には、固い携帯食がいくつか入っている。
ありがたい、と思うより先に、
これでどうしろというのか、と思ってしまった。
二人の姿が見えなくなってから、僕はその場に立ち尽くした。
町の中に入る理由も、
外に出る理由も、
どちらも見つからない。
だめもとで、スキルを使ってみることにした。
やり方は分からない。
ただ、今の状況を何とかする助けが欲しかった。
他に思いつくこともなく、
祈るような気持ちで声を絞り出す。
「……ドミノ」
空中に、見覚えのある形が、いつの間にか浮かんでいた。
ドミノ。
それは、倒れなかった。
何も起きない。
誰も振り返らない。
世界は、そのままだ。
僕は、息を吐いた。
手の中には、携帯食だけが残っている。
ここがどこで、
これからどうすればいいのか。
考えもまとまらないまま、
立ち尽くしていた。
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