逃亡法王の休日 ~世界で一番低い場所に住む神様へ
梓馬みやこ
第1話 史上最悪の「当たりくじ」
その日、聖都に白煙が上がった。
それは聖都ヴィネアローダの新たな法王の選出を告げる福音であり、同時に一人の末席聖職者にとっては人生最大の「事故」を知らせる狼煙でもあった。
「……神さま。これはいかなる試練でしょうか。いえ、試練というには少々、僕の許容量を越えてはおりませぬか」
大聖堂の奥深く、重厚な扉を背にしたダンテは、手元に届けられた開票結果を震える指でなぞっていた。
彼は18歳という若さながら、列記とした聖職者の一員である。
もっとも、その本分は華やかな典礼ではなく、書庫の奥底で古文書の虫干しをする「司書係」という、埃と静寂に愛される役回りだった。
もちろん、彼にも一票を投じる権利があった。
その投票場である閉鎖空間では、その時、ひたすらに厳粛な空気が流れていたのを知っている。
投票のルールは選出された聖職者たちの7割の票を獲得したものが次期法王、つまり神の代理人となる資格を得る。しかし決まるまで聖職者たちは一切私語も外界との接触も禁止され、食事が喉も通らぬ状態でひたすら選挙を繰り返す、いわばそこは「聖なる牢獄」だった。
何度、投票に用いられた羊皮紙が燃やされたことだろう。
煙突から立ち上る黒い煙は神の沈黙を見守る群衆に伝え、文字通り三日三晩続いた選挙に聖職者たちも疲弊していた。
一方で結果が開示される度、誰もが心の中では、自分が神の代理人などという大それた存在にならないことに安堵していた。
そして幾度となく有力者たちを相手に消去法が繰り返された結果、「もう、あの毒にも薬にもならない司書でいいじゃないか」と、一斉に彼に神意を見出すというとんでもない奇跡が起こってしまった。
そして奇跡という神の御業によって選ばれた代理人が彼。
「……僕が、主の代理人なんて……」
「法王猊下! ああ、なんという若々しき神の光! さあ、こちらへ!」
老練な枢機卿たちが、涙を流しながらその実、重圧な責任を回避できたことへの安堵を瞳に宿しながら歩み寄ってくる。
彼らが捧げ持ってきた法王服は、気が遠くなるほど豪華だった。金糸の刺繍、重いビロード、そして巨大な宝石が埋め込まれた重厚な祭服。
これに袖を通した瞬間、ダンテという個人の人生は、巨大な教会の装飾品として塗り潰されるようにすら思える。
否、神をたたえる品々の一部になるというべきか。
「猊下、民衆が広場で主の慈悲を待っております。さあ、バルコニーへ!」
法王服を着せられて、訳の分からないうちに民衆の前に押し出されそうになる。
「あ、あの! ちょっと待ってください! あまりの光栄に胃が……いえ、神聖な腹痛が! 浄化のための沈黙の時間を、ほんの少しでいいのでお与えください!」
ダンテは文字通り死にそうな形相で言い放つと、豪華で重い祭服の裾を両手で抱え、全力で走り出した。
背後から「猊下!?」「そちらは書庫ですぞ!」という悲鳴のような祈りが響くが、今のダンテの耳には届かない。
彼は慣れ親しんだ書庫……を通り過ぎて、換気用小窓へ向かった。
「神様、ごめんなさい。でも、あなただって一度くらいは、この重たい冠から逃げたくなったことがあるはずです……!」
自分に都合のいい解釈を呟き、ダンテは窓枠に足をかける。
眼下には、聖都の入り組んだ路地が広がっている。彼はぎゅっと目を閉じ、十字を切ってから――あるいは、単に滑り落ちるようにして――神聖な塀を隔てた隣の建物の洗濯場へと身を投げた。
ガシャァッ、という不敬な音とともに、ダンテは大量の洗濯紐に絡まりながら路地へ向かって落ちる。黄金の法王服が、洗いたてのシーツと複雑に絡み合い、彼は逆さまの状態で宙吊りになる。
「……神よ、やはりあなたは見ておられたのですね。私の不信心を、こんなにも早く罰せられるとは……」
逆さまの視界でダンテが絶望に浸っていると、不意に、洗濯籠を抱えた一人の少女が目の前に現れた。
「……あなた、そこで何してるの? 新しい掃除の儀式?」
呆れを含んだ、柔らかくもある声。
顔を上げると茶色の髪を地味に二つに結んで分けた、この街のどこにでもいそうな娘が立っていた。
「これは、その……信仰心の重さを、重力をもって再確認している最中で」
「ずいぶん金ピカな信仰心ね。演劇の衣装か何か? そんな格好でうろついてたら、すぐに不審者として神殿騎士に突き出されるわよ」
すぐ隣は大聖堂の敷地であるが、まさか、聖職者が逆さに降ってくるなどとは思うまい。しかも書庫は裏通りに近い場所にある。今日は教皇選出会議であり正面に人が集まっていることもあり、目の前の彼が選出されたばかりの「最年少法王」などと思わず、彼女は眉を寄せている。
「とにかく降りて。洗濯物が汚れるわ」
「ご、ごめんなさい」
彼女はため息をつくと、ダンテをせんたく紐から解き放ってくれた。
「あの」
「ベアトリーチェよ」
「ありがとう、ベアトリーチェ」
ダンテが名乗り返して苦笑するとベアトリーチェもため息をつきながらも笑って返す。
重い服の裾を持ち上げて困ったようにしていると
「着替えたいの?」
と声をかけてきた。
「できれば……この衣装で落ちたから、替えは無くて」
そういうと彼女はちょっと待っててとどこかへ去ってしかしすぐに現れたときには古びた茶色の作業着を手にしていた。
「それは父さんの形見。汚れ仕事用だけど洗ってあるわ。それでいいかしら」
ダンテは、服をまじまじと見た。渡された服はきれいに洗ってあるが汚れが染みついている。そんなところにさえ感じられる汗と太陽の匂いに、言葉にできない温もりを感じていた。
重厚な法王服を脱ぎ、つぎはぎだらけの服に袖を通す。
彼はその時、神の代理人としての重圧から解放され、ただの「空腹な青年」として、聖都の迷路のような小路へ足を踏み出すことになった。
逃亡法王の休日 ~世界で一番低い場所に住む神様へ 梓馬みやこ @miyako_azuma
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