第4話 階段の下で

『承りました。あなたに幸福が訪れんことを――』


 何度目かのその台詞。

 私は8年前に遡った。


 生後7ヶ月の娘がスヤスヤと寝息を立てている。

 この子の未来を、私が守ってあげなくては――。


 ………………


 この7年間、私はこの子と外界との接点を最小限とすることに努めた。

 家庭教師を雇ったのもその一環だ。


 多少の息苦しさはあるだろうが我慢してもらうしかない。

 これはあなたのためなのだから。


 そういえば、最近あの子の声を聞いていないと気づいた。

 いつも虚ろな表情で、まるで人形のようにおとなしくしている少女。


 先日あの子がバイオリンをやってみたいと言ってきた。

 私の脳裏に観客たちの拍手の中深々とおじきをする娘の姿が蘇る。

 あの時の皐月はキラキラと輝いていた。


 だが、そんなものは大人になってからやれば良い。

 なぜこの子は最も危険な領域に踏み入ろうとするのか、私には理解ができなかった。


 そして今度は――。

「たまには学校に行ってみたい……」

「外はダメって言ってるでしょ。学校に行かなくて良いように家庭教師をつけているんだから」


 少しは私の気持ちも考えて欲しい。これはあなたのためなのだから。


「でも、お母さん……。家庭教師の先生も学校は行った方が良いって言ってたよ……」

「その人が言っていることが正しいとは限らないでしょ。あなたはママの言うことを信じていれば良いの」

 最近、この子をそそのかす輩が多い。

 夫も学校くらい良いんじゃないかと言い出している。


「わかった……。もういい……」

 どうやら分かってくれたようだ。


 皐月のようにわがままを言わない分、この子の方が扱いが楽だと感じる。

 でも、たまに皐月のわがままが懐かしく感じる瞬間がある。


 ある日、家に帰ると珍しく娘がリビングで本を読んでいた。

 夫から誕生日にもらった小説らしい。

 皐月は5月生まれだ。

 いつの間にそんな時期を過ぎていたのだろうと、私は考えを巡らせる。


 そういえば、皐月の誕生日は毎年3人でお祝いをしていたな。

 私は皐月と過ごした日々を懐かしく思う。


「何を読んでいるの?」

 彼女は本を持ち上げるとタイトルを私に見せてくる。

 本は何年も読み込まれたようにボロボロだった。

「盲目のバイオリニスト……。へぇ、面白い?」

「うん――。けど暇を潰せればなんでも良い……」


 私はスマホのカレンダーを見た。

 まだ、2024年の7月か――。


 皐月とは違う、変わり果てたこの子を少しかわいそうに思いながらも、食事を与え、さまざまな知識を与え続けた。


 そして、2025年12月24日が訪れる。


 私はリビングで夕食を食べていた。

 今日は1人分の食事しか作っていない。


 黙々と食べていると、階段の方から大きな物音がした。


 私は反射的に時計を見上げる。

 時計は20時03分を指していた。


 私は食器をそのままに、寝室のある2階へ向かう。

 階段の下にはボロボロの身なりをした少女が倒れていた。


「寝顔は皐月と同じなのに――」


 落胆する自分と、安堵している自分がいることに私は気づいた。

 今度こそはもっとうまくやる。皐月の笑顔をもう一度――。


 私は寝室に入ると、女神に語りかけた。

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