第3話「本当に転生した!?」

大陸歴 2791年 5月 エヴェリン王国 王都リュミエール / 伊藤平三(ヒイロ=エヴェリン)


目覚めると、また贅沢な天井だ。


様式美的には「知らない天井だ」とか言う場面かもしれないが、さすがにこの天井と天蓋の美しさはそちらに意識がいってしまうな。昔新婚旅行で行ったサン・ピエトロ大聖堂の天井画をなくしたらこんな感じになりそうだ。


白い天蓋。高価そうな刺繍。そして、窓から見える星々。 いつもの夜明け前なら、そろそろスマホのアラームが鳴り、子供たちを幼稚園に送る準備をする前に一仕事しておくべき時間だ。


だが、現実はどうだ。 俺の肌に触れているのは、最高級のシルクであろう寝具の感触と、オムツの中の不快感。そして、強烈な空腹感だけだ。


「……3日、か」


心の中で呟く。もちろん、口から出るのは「あぅ」という間抜けな音だけだが。 夢にしては長すぎる。 それに、解像度が高すぎる。


オムツの蒸れ、空腹の痛み、肌に触れる布の摩擦。 これら五感の情報全てが、ここが「現実」であることを冷酷なまでに突きつけていた。 俺は伊藤平三、35歳。外資系企業の営業部長であり、愛する妻と3人の子供を持つ父親だ。 それがどういうわけか、異世界の王族の赤ん坊として、人生の再スタートを切らされているらしい。


(認めたくはないが、エビデンスが揃いすぎている。……これは、本当に異世界転生というやつか)


暫定的な結論を下した瞬間、俺の意思とは無関係に身体が警報(アラート)を鳴らした。 血糖値の低下を検知した生存本能が、緊急事態を宣言する。


「オギャァァァァッ!!」


やめろ。俺は泣きたくない。 いい歳した大人が、腹が減ったくらいで泣き叫ぶなんてみっともない。 それに、まだ日も出てない時間だ。この時間に泣けば、疲れている親の睡眠時間を奪うことになる。 俺も3人の子育て経験者だ。夜泣きの苦労は身に染みて分かっている。


だが、声帯は俺の理性を無視して震え続けた。 この肉体にとって、空腹は死に直結する恐怖なのだ。ロジックなど通用しない。


「よしよし、どうしたんだい? ヒイロ」


すぐに優しい声と共に、誰かがベビーベッドを覗き込んだ。 俺を抱き上げたのは、穏やかな顔立ちの中年男性だ。 エリオン。俺の今世の父親である。


「お腹が空いたのかな? それともオムツかな?」


彼は手慣れた様子で俺の身体を確認し、濡れた布を手早く交換していく。 その手際は見事なものだ。俺が長男の時に苦戦したオムツ替えを、こうもスムーズにこなすとは。


「ウンチはしてないね。……ということは、お腹か」 「エリオン様、アウローラ様をお呼びしましょうか」


控えていた初老の女性が声をかける。侍女長のエラーラだ。 彼女もまた、俺を見る目がやけに優しい。


「ああ、頼むよ。……それにしても、ヒイロは本当に手のかからない子だね。泣くのも必要最低限だし、夜もぐっすり寝てくれる」


「左様でございますね。歴代の王女様たちと比べても、これほど育てやすいお子様はおりませんわ」


二人の会話を聞きながら、俺は内心で安堵する。 どうやら「中身が35歳」のおかげで、育児難易度はイージーモードに設定できているらしい。 これなら親孝行ができていると言っていいだろう。


だが、一つだけ違和感がある。 なぜ、父親がメインで育児をしているんだ? 母親のアウローラは、授乳の時以外ほとんど姿を見せない。 普通、王族とはいえ、母親がもう少し関わるものではないか? それとも、この国は「イクメン」が標準仕様なのか?


「おはよう」


扉が開き、黄金の髪をなびかせてアウローラが入ってきた。 その姿を見た瞬間、部屋の空気が変わる。 彼女は単なる母親ではない。「女王」としての圧倒的なオーラを纏っている。 目にはうっすらと隈があり、疲労の色が見えるが、その美貌は損なわれるどころか、凄みすら増していた。


「ご苦労様、エリオン。……ヒイロ、お腹が空いたのね」


彼女は俺をエリオンから受け取ると、慣れた手つきでソファに座り、胸元の服を寛げた。 露わになる豊満な胸。 白く、美しい生命の源。


(……ッ!)


俺の思考がフリーズする。 待ってくれ。これはマズい。 俺の精神年齢は35歳だ。ひょっとしたら、あんたより年上の可能性すらある。 そんなおっさんが、西洋美女の母乳を吸う? これは倫理的にどうなんだ。コンプライアンス事案じゃないのか。


「さあ、お飲み」


しかし、口元に温もりが近づくと、俺の理性はあっけなく本能に敗北した。 口が勝手に吸い付く。 温かい液体が喉を通り、空腹という恐怖を癒やしていく。


(……これはあらがえない……)


俺は心の中でいろんなところに土下座しながら、必死に母乳を飲んだ。 ふと、前世の妻の言葉を思い出す。 「授乳ってね、ただでさえ胸が張って痛いのに、吸われると乳首が千切れそうなくらい痛いのよ。男にはわからないでしょうけど」


そうだ。授乳は痛いのだ。 ましてや、アウローラは公務で疲れている。 せめて、痛くしないように。優しく、丁寧に。 それが、元夫として、そして現息子としての最低限の流儀だ。


「……あら?」


アウローラが不思議そうな顔をした。


「この子……吸う力がすごく優しいわ。痛くない……」 「本当かい? アウローラ」 「ええ。まるで、私を気遣ってくれているみたい」


彼女は慈愛に満ちた瞳で俺を見つめ、そっと頭を撫でた。 その手の温かさに、俺の中にある「大人のプライド」が溶けていく。 ああ、なんて心地いいんだ。 これが母の愛というやつか。 敗北感と、背徳感と、絶対的な安心感。それらが混ざり合い、俺の意識をトロトロに溶かしていく。


授乳を終え、ゲップをさせられている間、俺は改めて周囲の情報を整理することにした。 賢者タイムならぬ、授乳後タイムの冴えた頭脳が回転を始める。


ここ数日の会話から得られた情報は以下の通りだ。


国名は「エヴェリン王国」。 俺はこの国の第一王子であり、名前は「ヒイロ」。 そして、上には4人の姉がいる。 クラリス、ルミナ、セラフィナ、ヴァレリア。 まだ顔を合わせていないが、名前の響きからして個性派揃いの予感がする。


何より気になるのは、周囲の反応だ。 俺が「男」であることに対して、異常なほどの価値を感じている。 「王家の宝」「奇跡の男児」。 そして、王宮内を見渡しても、見かけるのは女性ばかり。 男性は父親のエリオンくらいだ。


(……仮説その1。俺は後宮(ハーレム)のような場所に隔離されている) (仮説その2。この世界は、極端に男性が少ない)


アウローラの威厳ある態度と、エリオンの甲斐甲斐しい育児姿。 まるで男女の役割が逆転しているかのような家庭環境。 どうやら、前世の常識は通用しないらしい。


「アウローラ、あとは私がやるよ。君は少し休んでくれ」 「ありがとう、エリオン。……この子の寝顔を見ていると、疲れも吹き飛ぶけれど」


母は名残惜しそうに俺の頬にキスをし、体を休めるために戻っていった。 父は俺をベビーベッドに戻し、愛おしそうに揺らし始める。


天井を見上げながら、俺は小さく息を吐いた。


エヴェリン王国。 4人の姉。 そして、希少な男子としての立場。 どうやら俺は、とんでもないところからヘッドハンティングされてしまったようだ。


俺は窓の外の星に小さく手を伸ばし、虚空を掴む。 その手はまだ小さく、無力だ。 だが、この瞳に映る光は、きっと未来を見据えている。


(ふ、ここから始まるってところだろうに、まるで俺が一番好きなSF超大作の最終回みたいじゃないか。金銀妖瞳(ヘテロクロミア)を持つ親友のキャベツ畑から拾ってこられた男の子もこんな感じで星に手を伸ばしたのだろうか...。花言葉も知らず黄色いバラを持って告白した男の目線ではあの最終回を見たが、子供側の目線に立ったことはなかったな・・・。)


まずは、この世界を把握することから始めようか。

俺は静かに目を閉じ、次の授乳時間までの作戦タイム(睡眠)に入ることにした。

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