第2話「妙にリアルな夢」
大陸歴 2791年 5月 エヴェリン王国 王都リュミエール / 伊藤平三(ヒイロ=エヴェリン)
不快だ。 それが、俺がこの世界で最初に抱いた感想だった。
肌に張り付く粘液の不快感。そして、網膜を焼くような無遠慮な光。 空調管理もなっていない冷たい外気に突然晒され、全身の皮膚が悲鳴を上げている。
「オギャァァァァァァァァッ!!」
なんだ、この音は。 俺の意思とは無関係に、肺が強制的に空気を吸い込み、喉が震えている。 まるでシステムの起動音のように、けたたましい泣き声が口から飛び出していた。 止まらない。ボリュームの調整すら効かない。 自分の身体が自分のものでないような、ひどく不条理な感覚だ。
「……お、男の子……! 男児でございます!!」
視界はぼやけて何も見えないが、興奮した声が鼓膜を震わせた。
男児? それがどうした。 このどよめきようは尋常ではない。
まるで宝くじの1等が当たったかのような騒ぎようだ。 現代の医療技術なら、性別など数ヶ月前には判明しているはずだ。
エコー検査の解像度が低いのか、それとも担当医がサプライズ演出でも仕込んだのか?
どちらにせよ、リスクヘッジが甘い現場だ。性別ごときの不確定要素で、分娩室というクリティカルな現場の空気を乱すべきではない。
「男の子……! アウローラ様、男の子でございますよ!」
まただ。ヒステリックなほどの歓喜。
やれやれ、男が生まれることがそんなに嬉しいのか?
周囲の熱狂を他所に、俺の灰色の脳細胞が分析を開始する。
「陛下、ご覧くださいませ」
……陛下? 今、確かにそう言ったか。 母親が「陛下」と呼ばれる立場。つまり、俺は王族として産み落とされたということか。
「……お母様……よくぞ、王家の宝を産み出されましたわ」 「ねぇ僕にも見せてよ! 男の子って本当!? 初めて見るよ、すごいなぁ」 「静かに。お母様がお疲れでしょう?」 「母上! 男の子!? 弟なの!?」
次々に新しい声が飛び込んでくる。 幼い女性の声ばかりだ。四人いるのは姉か?
そうか、先ほどの「男児」への反応と合わせて分析するに、どうやらこの王家には跡継ぎの男児がいなかったらしい。 女の子ばかりの中に待望の長男。 「王家の宝」などという重苦しい言葉も聞こえたが、要するに跡継ぎを求めていたということだろう。
(夢、か……)
俺は冷静に結論を下した。 痛覚も寒さもやけにリアルだが、状況が出来すぎている。
俺は3児のパパ兼、外資系企業の営業部長だ。 連日の激務が続く中で3人目が産まれて、夜泣き対応に家事・育児ときて、疲労がピークに達した脳が見せたファンタジー小説のような夢だろう。
現実は世知辛いもんだ。 明日は朝九時から海外支社とのオンライン会議がある。部下の作った会議資料もまだ手直しができてないし、その前に幼稚園へ上の子たちを送らなければならない。 今のうちに脳を休めておく必要がある。 夢の中くらい、面倒なタスクから解放されて、赤ん坊として安楽に過ごさせてもらおうか...。
身体がふわりと持ち上げられ、温かな場所へと移動する。 誰かの胸の中だ。 ぼんやりとした視界の先に、ひとりの女性の顔が浮かび上がった。
汗に濡れた金色の髪。疲れ切っているはずなのに、発光するかのような高貴な美貌。 そして、俺を見つめる慈愛に満ちた瞳。
(ほう……)
夢のキャスティングにしては、随分と上等じゃないか。 緑のマスクを被った伊達男が好き勝手する映画のヒロインみたいだ。 こんな美女が母親役なら、この悪夢のような目覚めも許容範囲内だ。
「……ふふ」
彼女が笑った気がした。 つられて、俺の口元も緩んだらしい。赤ん坊特有の「生理的微笑」というやつかもしれない。だが、これだけの美女に至近距離で、好意100%の笑顔を向けられたんだ。男として、顔が緩んでしまうのは不可抗力だろう。
急激な睡魔が襲ってきた。 赤子の身体は燃費が悪いらしい。バッテリー残量が限界だ。 あくびが出る。 思考が泥の中に沈んでいくようだ。 まあいい、話は大体わかった。だが、明日も早いから寝かせてもらうぞ。
薄れゆく意識の中で、美しい「母」の声が響いた。
「あなたの名は、ヒイロ、ヒイロ=エヴェリンよ」
ヒイロ……ヒーロー(英雄)か。 安直なネーミングだ。 いかにもB級ファンタジー映画の脚本家が考えそうな名前だが、まあ悪くない響きだ。 俺はしがないサラリーマンで英雄になる王子様なんて柄じゃないがな。
だが、この心地よい温もりの中で見る夢ならば、少しの間付き合ってやってもいい。 俺は小さく息を吐き出し、深く、重い眠りへと落ちていった。
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