ヒイロ回顧録 ~男女比1:30の女系国家に王子として転生した元営業部長が、Sランク魔力と現代知識で国をガチ経営していたら、いつの間にかチート扱いの英雄になっていた件~

五十六

第1話「時代の産声」

大陸歴 2791年 5月 / エヴェリン王国 王都リュミエール王城 / アウローラ=エヴェリン


窓の外は、恐ろしいほどに静まり返っていた。


カーテンの隙間から差し込む満月の光は、まるで冷たい刃のように床を切り裂いている。 あたたかな春の夜だというのに、私の肌に触れる空気は張り詰め、世界そのものが呼吸を止めてしまったかのようだった。


「う、あぁぁぁっ!」


喉の奥から、獣じみた呻きが漏れる。 王族としての矜持で噛み殺そうとした悲鳴は、耐えきれない激痛となって唇を割り、産室の空気を震わせた。


身体が、内側から引き裂かれていく感覚。 熱い。脂汗が視界を滲ませる。


「陛下! もう少し、もう少しでございます!」


汗ばんだ私の手を、心配しながらも力強い手が握りしめる。 侍女長のエラーラだ。私の幼い頃から影のように寄り添い、母代わりとも言える彼女の手だけが、この現実と私を繋ぎ止める唯一の命綱だった。


「息を、息を整えてくださいませ、アウローラ様!」


普段は「陛下」と呼ぶ彼女が、極限状態で昔のように名前を呼ぶ。 その響きに、わずかに正気が戻る。


そうだ。私はアウローラ。 このエヴェリン王国の女王。 そして、今まさに新しい命を産み落とそうとしている母なのだ。


「……お腹の中の子は、無事なの?」


私は霞む視線を足元へと向けた。 そこには、私の即位前から長年この身を診続けてくれている女性の宮廷典医が、厳しい表情で処置にあたっていた。 彼女とは数えきれないほどの言葉を交わしてきた旧知の仲だ。その彼女が、今は額に玉のような汗を浮かべ、一言も発さずに私の身体と向き合っている。


「ご安心ください、陛下」


典医は冷静な声で、けれど祈るような響きを込めて答えた。 彼女の手つきに迷いはない。ただ、その瞳の奥には隠しきれない緊張の色があった。


この世界において、出産の性比は残酷なほどに偏っている。 1対30という過酷な男女比。 男児が生まれることは、それだけで奇跡に近い「家の宝」の誕生を意味する。 だが今は、男か女かなどどうでもよかった。 ただ、この子が、私の愛しい我が子が、無事に産声を上げてくれさえすれば。


「くっ、……はぁ、はぁ……ッ!」


長時間の陣痛で感覚が麻痺し、力の入れ方もわからなくなってくる。 部屋の隅では、神官長のテレジアが祈りを捧げ続けている。 香の匂いと、鉄錆びた血の匂い。 苦痛と、焦燥と、祈り。 それらが混然一体となって、私の意識を白濁させていく。


(もう、体力が……)


ふと、弱気な思考が鎌首をもたげた。もう5度目の出産だというのに慣れないものだ。毎回この部屋で出産するたびに、もうこの痛みを体験したくはないから二度と産まない。と心に誓ったはずなのに、私はまたこの部屋で出産に臨んでいる。


遠くで、月の光だけが美しく輝いているのが恨めしかった。 世界はこんなにも静かで、美しいのに。 私だけが、汗と血にまみれてのたうち回っている。


いいえ。 私は、首を振った。


負けるものか。 私はエヴェリンの女王。 この子を、次の時代を照らす光を、私の手で守り抜くのだ。


「陛下、頭が見えました! 最後の、最後の力を!」


信頼する典医の声が、私を鼓舞する。


「うぅぅぅ、あぁぁぁぁぁっ!!」


ありったけの力を込め、私は命を絞り出した。


その瞬間だった。


雲が切れ、窓の外の満月が、カッと見開かれた黄金の瞳のように輝きを増した。 月光が奔流となって産室になだれ込み、私の足元を白銀に染め上げる。


「オギャァァァァァァァァッ!!」


産声。 それは、弱々しい赤子の泣き声ではなかった。 まるで戦場に響く号令のような、あるいは凱旋のラッパのような、力強く、腹の底に響く咆哮だった。


一瞬の静寂。 そして、典医の裏返った声が響いた。


「……お、男の子……! 男児でございます!!」


その言葉に、部屋中の空気が凍り付いたように止まり――次の瞬間、爆発的な歓喜へと変わった。


「男の子……! アウローラ様、男の子でございますよ!」


エラーラが涙声で叫び、いつも冷静な典医さえもが、震える手で赤子を抱き上げている。 全身から力が抜け、私はベッドに沈み込む。 終わったのだ。そして、奇跡が起きたのだ。


「陛下、ご覧くださいませ」


エラーラが、真新しい布に包まれた小さな塊を、壊れ物を扱うように私の胸元へ運んでくる。 私は重たい瞼を持ち上げ、我が子と対面した。


まだ血に濡れた、小さく、赤い顔。 けれど、その子は泣いていなかった。


「……え?」


違和感があった。 生まれたばかりの赤子といえば、顔をくしゃくしゃにして泣き叫ぶものだと思っていた。 だが、この子はどうだ。


泣き止んだのではない。 じっと、静かに、大きな瞳を開いて私を見つめている。 それどころか、黒曜石のような瞳を忙しく動かし、部屋の様子、典医、エラーラ、そして窓の外の月光までもを、まるで値踏みするかのように観察しているではないか。


生まれた直後だというのに、妙に落ち着いている。 その瞳には、赤子特有の無垢さとは異なる、どこか老成した知性のような光が宿っていた。


私の胸の中で、この子は小さくあくびをした。 まるで、「やれやれ、騒がしいところに来てしまった」とでも言うかのように。


「……ふふ」


そのあまりの不敵さに、私は思わず笑みをこぼしてしまった。 なんという子だろう。 私の心配など、この子には無用だったのかもしれない。


部屋の隅で祈っていた神官長のテレジアが、感極まったように声を震わせて告げた。


「月のような美しい男の子です。顔に輝きがあり、目に光ある子です」


その言葉が合図だったかのように、固く閉ざされていた扉が勢いよく開かれた。


「アウローラ! 無事か!」


夫のエリオンが、なりふり構わず飛び込んでくる。 その後ろから、まだ幼い四人の娘たちが雪崩れ込んできた。


一番に私のもとへ駆け寄ってきたのは、十二歳の長女クラリスだ。 まだあどけなさは残るものの、背筋を伸ばし、王女として気丈に振る舞おうと涙をこらえている。


「お母様……よくぞ、王家の宝を産み出されましたわ」


続いて、十歳の次女ルミナが目を輝かせてベッドの端から顔を出す。


「ねぇ僕にも見せてよ! 男の子って本当!? こんなに小さい男の子初めて見るよ、すごいなぁ」


「静かに。お母様がお疲れでしょう?」


そう言ってルミナの袖を引いたのは、九歳の三女セラフィナだ。幼いながらもすでに手帳を手にを抱え、静かに状況を観察している。


「母上! 男の子!? 弟なの!?」


最後に七歳の末っ子ヴァレリアが、騎士ごっこの途中だったのか、おもちゃの剣を腰に差したまま元気よく飛び跳ねた。


先ほどまでの張り詰めた静寂が嘘のように、産室は一瞬にして温かな喧騒に包まれた。 エリオンが私の汗ばんだ額に口づけをし、娘たちがベッドを取り囲んで、新しい家族を覗き込む。


私は腕の中の、不思議なほど静かな赤子を見つめた。 窓の外には、変わらず美しい満月が輝いている。 けれど、この子の瞳に宿る光は、冷たい月の光よりもずっと強く、そして太陽のように温かかった。 この子はきっと、この国を……いいえ、この世界そのものを照らす光になる。


ふと、天啓のようにある響きが降りてきた。 それは、古語で「英雄」を意味する響きであり、同時に太陽のような暖かさを連想させる音。


私は、愛しい我が子の額に唇を寄せ、静かに、けれど確かな声で告げた。


「あなたの名は、ヒイロ、ヒイロ=エヴェリンよ」


窓の外の月が、祝福するように私たちを照らしていた。 大陸歴2791年。 後に伝説となる英雄の物語は、この静かな満月の夜に、その幕を開けたのである。

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