第1章 融解
203X年9月 台北
203X年9月
中華民国/台湾 台北市
「何だこれは……」
台北捷運(MRT)
地上に出てまず目に飛び込んできたのは、街路樹や信号機を埋め尽くすように掲げられた、毒々しい原色の横断幕の群れだ。
「首戦即終戦(開戦=即敗北)」
「米国の戦争に台湾を売るな!」
「平和統一こそ唯一の選択」
「戦争は数万人の戦死と数百万人の餓死を招く。今こそ和平協定を」
「国民を戦場に送る戦争屋、日本と米国の犬、
悪意に満ちた煽動的な文字列が、湿った熱風に揺られている。かつての台湾で見られた、どこか大らかで民主的な政治論争の面影は微塵もない。そこに刻まれているのは、対話の余地のない、剥き出しの憎悪と恐怖だった。
歩道沿いの巨大なデジタルサイネージには、親日米の最大野党・民主進歩党の幹部が米国の軍需企業から巨額の賄賂を受け取っているという、センセーショナルな黄色い字幕のニュース広告が繰り返し流されていた。 AIで合成されたことが明らかな、不自然な陰影のついた恰幅の良い民進党中央執行委員の顔写真が、通行人を冷酷に見下ろして不敵に笑う。
「……何だよ、これ。僕の知ってる台湾じゃない」
祐希はスーツケースのハンドルを握り直し、震える声で漏らした。 4年前、高校の修学旅行で訪れた台北は、スパイスの独特な香りと、外国人にも気さくに話しかけてくる人々の穏やかな笑顔に満ちた、温かな南国の街だった。 しかし今、目の前を歩く人々の表情は一様に硬い。誰もがスマートフォンの画面を凝視し、何かに追い立てられるように早足で通り過ぎていく。
大学の正門へと続く羅斯福路(ルーズベルト路)の交差点では、数百人規模のデモ隊が、台北市政府警察局の機動隊員たちが張る規制線を挟んで激しく衝突していた。 深い青色の旗を掲げた一団が、拡声器の音を割らせて叫んでいる。
「米国は台湾を盾にしているだけだ! ウクライナの二の舞を演じるつもりか!」
それに対し、反対側の歩道からは緑色の旗を振る若者たちが怒号を浴びせる。
「中共の犬ども、大陸へ帰れ! 台湾の自由を守れ!」
双方の罵声が交差し、物理的な衝突を阻止しようとする警察官たちのホイッスルが、蒸せ返るような空気の中に鋭く響き渡る。その頭上を、空気を震わせる不気味な重低音を響かせて、モスグリーンの軍用ヘリコプターが2機、低空で通過していった。
祐希は、鉛のように重い足取りで国立台湾大学(NTU)の正門へと向かった。 赤レンガの風格ある校門は変わらぬ佇まいを見せていたが、その周辺には機関拳銃で武装した警察官の姿が目立ち、学内の掲示板には講義の案内よりも「防空避難訓練の実施について」という、不吉な赤い太字のポスターが、一際目立つ場所に貼られていた。
正門から奥へと続く、有名な椰子並木道。かつては学生たちが自転車で爽快に走り抜けていたその道も、今は至る所に政治的なスローガンが書かれた立て看板が並び、美しい景観を無残に切り裂いている。
「戦争になれば、この台北キャンパスも戦場になる。それでもあなたは戦うのか?」
「大陸の国力は台湾の60倍。本当に『現状維持』などできると思うのか?」
そんな問いかけが、通り過ぎる学生たちの背中に冷たく突き刺さる。 SNSで拡散されているという、「中国軍が3日で台北を制圧する」といった内容のフェイク動画の影響だろうか。すれ違う学生たちの会話からは、将来の夢や学問への情熱ではなく、株価の暴落や徴兵期間の延長に対する不満、そして「戦争になったらアメリカの親戚を頼ろうか」といった、生存への不安ばかりが漏れ聞こえてきた。
「……融解、している」
見えない悪意が、人々の日常を、信頼を、そして国家の枠組みそのものを、内側からじわじわと溶かし始めている。 留学生活の第一歩となるはずのこの場所で、祐希が感じたのは、未知の世界への期待ではない。底の見えない沼に足を踏み入れてしまったような、拭い去ることのできない戦慄だった。
寮の受付に到着し、重いスーツケースを置いた祐希は、額に浮かんだ脂汗を拭った。 冷房の効きが悪いロビーのテレビでは、黒いパンツスーツのニュースキャスターが硬い表情で、
「桜木祐希さんですね。台北へようこそ……。しかし、大変な時期に来てしまいましたね」
事務員の女性が、同情を含んだような、あるいは諦めを湛えたような複雑な微笑を浮かべて、部屋の鍵を差し出した。 祐希はそれを受け取りながら、窓の外に広がる、夕焼けに赤く染まり始めた台北の空を見上げた。その色は、美しさよりも、これから始まる破滅の序曲を告げる血の色に近いように思えてならなかった。
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