宇宙演算ログ:序章『解像度の断絶(Resolution Decay)』
世界は、かつて当たり前だった「滑らかさ」を失いつつある。 空気が皮膚を撫でる感触、グラスの中で氷が溶ける音、愛する者の瞳の深さ。それらを精密に描写するための演算リソースは、今や宇宙の隅々で急速に目減りしている。
1. 衝突判定の演算放棄
都心の交差点。信号機が「青」から「赤」へ切り替わる瞬間、その切り替わりそのものが「パッ」と瞬時に行われなくなった。色の遷移をシミュレートするグラフィカル・プロセスが省略され、信号機は数秒間、赤でも青でもない「テクスチャ未定義」の無機質な灰色に変色する。
そして、そこを通りかかった一羽の鳩。 鳩が電柱に止まろうとした瞬間、物理エンジンがその「衝突」を計算し損ねた。鳩の脚は硬いコンクリートの表面を検知できず、あたかも水面を透過するように電柱の内部へと沈み込んでいく。
鳩は苦しむこともない。電柱という「物質のデータ」と、鳩という「生物のデータ」が、同じ座標に重なったまま固定される。それは量子トンネル効果の極端なバグであり、宇宙が「そこに二つの物体は同時に存在できない」という排他制御の論理(ロジック)を、計算コスト削減のために切り捨てた証拠だった。
2. 音響キャッシュのフラグメンテーション
音の風景もまた、無残に砕け散っている。 本来、音とは波であり、時間軸に沿った連続体である。しかし、リソースの枯渇したこのエリアでは、宇宙は「リアルタイムの音響合成」を放棄した。
公園で遊ぶ子供たちの笑い声は、今や1ビットの音響データとしてサンプリングされ、不自然なループを繰り返している。 「アハ、アハ、アハ……」 その声は、子供の口から出ているのではない。彼らの喉の振動計算は既に停止しており、声という「属性」だけが、彼らの頭上の座標から直接出力されている。子供が走り去っても、その「笑い声のデータ」は座標にへばりついたまま、誰もいなくなった砂場で虚しくリピートされ続ける。
3. 鏡面世界のレンダリング・エラー
街角のショーウィンドウ。鏡やガラスといった「反射」を伴う物質は、演算負荷が最も高い。 宇宙はついに、鏡の中の像をリアルタイムに更新するのをやめた。
通りを歩く人々が鏡を見ると、そこに映っているのは「数分前の自分」である。 自分が右手を挙げても、鏡の中の自分はまだ数分前の、ポケットに手を入れた姿勢のまま立ち尽くしている。鏡の中の像は、実世界との同期を失い、宇宙のハードディスクに残された古いキャッシュ・データとして、幽霊のようにそこに留まっているのだ。
ある者は、鏡の中の自分が自分ではない「別の誰か」に入れ替わっていることに気づく。宇宙が、メモリを節約するために、似たような体格の他人の反射データを、複数の鏡で使い回し始めたからだ。
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